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 衣装から私服に着替え、裏口から出ると雨はやんでいた。なるべく水溜まりをよけながら表の入口に回り込むと、付近に黒光りする大きなセダンが停まっていて、近寄りたくないなと身構えていたら、運転席側の陰から通話中の真壁さんが見えた。
 私に気づくとすぐに通話を切り上げて、こちらに歩いてきたので軽く頭を下げた。
「すみません。お待たせして」
「いや、今ちょうど代行が来たところ」
 蛍光色のパーカー姿の初老の男性が頭を下げながらやってきた。
「どうもよろしくお願いいたします。どちらまで」
 行き先を告げると、馴染みらしい代行会社の運転手は、失礼します、と運転席に乗り込んだ。
「あの五秒で剥けそうな服は着替えてきたのか」
 続いて二人で後部座席に乗り込むと、ネイビーのノースリーブ膝下丈ワンピースに、くすんだネオンイエローのシルクのカーディガンを羽織った私を見て言った。
「あんな服で歩けるのこの界隈までですよ」
「まぁ、そうだな。じゃあ、もっとましな仕事服買ってやるよ。どんなのがいい?」
「やーん。じゃーあ、ハイブランドのドレスがいいなぁー」
「そうか。それじゃ次は同伴だな」
「冗談ですよ。冗談ですから。えっ? 次はってまた来るんですか?」
「また来るんですかってお前。それでもホステスか」
「だって」
「美咲ママなんか事ある毎にバッグとか時計とか貰ってるぞ」
「あんな一流クラブのママと一緒にしないでください! というかこんなところのホステスなんかに着られたら高級メゾンが泣きます」
「俺と同伴のとき着てこいよ。然るべき場所につれてってやるから」
「そんなことしていただいても困ります。私、何もお返しできません。できることは店でお酒ご一緒するくらいですよ」
「馬鹿だな、お前。それでいいんだよ」
 走行中とは思えない車内の静けさに、つい緊張する。
「あ。さっきのお金、お返しします」
「もう俺の金じゃない」
「じゃあ、私のお金なら私がどう使おうと私の勝手ですよね」
 ハンドバッグからお金を取り出そうとすると、鼻で笑われた。
「仕事以外で女から金を受けとりたくない」
「お金を粗末にしたら後で泣きを見ますよ。っていうか私のお金じゃないですから!」
「お前、私の金って言っただろ」
「もう! 屁理屈こねないでください! 仕事のし過ぎでおかしくなってるんじゃないですか? 心療内科とか行ったほうがいいですよ」
「そんなにそれ貰うのが嫌なら仕事しろ。お前が俺を癒せ。まったく。お前もホステスの端くれだろ? “私が癒しますよ”くらい言え」
「うう。なんか納得しづらいぃ」
「ほらほら仕事仕事。可愛げ見せろ」
「私が癒して差し上げますよ、真壁さん」
「おう。頼む」
 と、私の肩に側頭部を当て、一息ついた。変わらない香水の匂い。私の大好きな匂い。ドキドキするのに安心する。
「でも、こんな大金もハイブランドのドレスもいりませんからね!」
「大丈夫。お前が気にすることはない。俺が勝手に貢ぐ愉悦に目覚めつつあるだけだから」
「全然大丈夫じゃないです!」
「いいから黙って仕事しろ。それに無報酬でいいのか? 恋人でも夫婦でもそれなりの応酬はあるぞ? お前は俺のなんなんだ?」
「わかりました。わかりました。少し頭をあげてくださいます?」
 私は横にずれて真壁さんに頭を太ももに乗せなおすように促した。
「オプションいくらだ?」
「そうですね。五千円? くらいですかね?」
「安いな。十倍出したら添い寝頼めるか? いかがわしい行為はなしで」
「えー。考えておきますー」
 さっきの行いのあとに、いかがわしい行為なしなんて言葉信じられない。
「ここ何年も眠れなくなってるんだ。睡眠薬は貰ってるんだけどな」
「え」
「どれだけいい寝具を試してみても駄目だ」
「そんな……。」
 ファミレスの看板が見えると、まだもう少し先なのに、真壁さんは身体を起こそうとする。
「膝枕ってのはなかなかいいもんだな」
「真壁さん。いつもの時間まで、だいたい三時間あります。ちょっと遠回りしてこのまま少し寝てください。眠れそうならの話ですけど……」
 真壁さんが起き上がり、じっと私を見下ろす。
「いいのか?」
「だってこのままじゃ百万円も貰えません。さっきのも、別に、気にしません。子供じゃないんですから」
「……そうか。なら、お言葉に甘えようかな」
 と、電話をかけ始める。
「藤和の真壁と申します。これから二名で空いてますか? そうですか。それではお伺いします」
 電話を切って、運転手に新たな行先を告げる。急な行き先変更だったが、ちょうど信号に捕まり停車したので、運転手さんは後ろからついてきている同僚に行き先変更の電話をし、改めて発進した。


 都市高速で二十分ほど車を走らせ、里山近くにぽつりとある数寄屋造りの料亭についた。余計な照明はなく、雨上がりの月が美しく浮かんでいる。なんの用意もなくこんな場所に連れてこられるなんて。緊張しながら、背筋を伸ばした。真壁さんにエスコートされて中にはいると、和服姿の女将さんが玄関で出迎えてくれた。
「あら。珍しい」
「今日は個人的に」
 真壁さんと女将さんは目配せるように微笑みをかわす。
「飲んできた帰りでしてね。ゆっくりした場所で軽い食事をと思いまして」
「あらあら。ありがとうございます。どうぞどうぞ」
 女将さんに案内され、いりくんだ廊下を進み、奥の客間に通されて襖が閉まると、互いの衣擦れと時計の針の音以外聞こえないような静寂が訪れた。
「彼氏に連絡しなくていいのか」
「言われなくても……」
「じゃあ、俺は少し席を外すよ」
 そう言って出ていった真壁さんの足音が遠くなる。正直なところ私は真くんの電話番号を知らなかった。訊かれたことがない。私から訊くなんてできなかった。何より、彼は私の前で携帯電話を出したことがなかった。部屋に誘われたというのに、私は彼のプライベートをほとんど知らない。踏み込むのが怖かったせいもある。自分が行動することで、相手が引いてしまうのが怖かった。のめり込むには、私は年上すぎて、彼は若すぎる。
 虚勢を張るのは諦めて、真壁さんの姿を探しに廊下へ出た。十間間の廊下のガラス戸の向こうに日本庭園が見える。
 月明かりの下、東屋で電話をしている彼の姿があった。下履に履き替え、庭に出る。
 相変わらず忙しそう。あの頃も日中はもちろん、夜中でも何かしら電話がかかってきていた。それが接待中でも。思い返せば、私は、彼を完璧超人だと思っていた。社会経験のない小娘からしても彼の仕事量の凄さは感じとれたけれど、彼がいかに自身を消耗していたかなんてわからなかった。身嗜みはもちろん、持ち前のルックスと人を惹き付ける色気に目が眩んで、彼の内面まで見えていなかった。
 彼はいくら自分が仕事ができても、他者と比べたりしなかった。他者の悪口も仕事に対する愚痴も、不平不満すらも聞いたことがなかった。傍でみていた限り、誰も彼から理不尽な仕打ちを受けたことはなかったはずだ。仕事でミスをした時、フォローしてもらっても、怒鳴られたことはなかった。なんでも一人でこなして、周りをサポートして、この五年間も会社のために動いて、私を見つけてくれた。なんでそんな人が未だに独りなんだろう。
 ……もしかして、なにかとんでもない性癖が?
 いや、でもあの人にどうしてもってお願いされたら大抵の女性ひとが許しちゃうんじゃないの?
 離れた場所で眺めていると、私に気づいて通話を切り上げ、足早に寄ってきた。
「終わったのか」
「ええ。まあ」
「腹減ってないか?」
「シャンパンでお腹たぷたぷです」
「織部は少し何か食った方がいい。ここの鯛茶漬けは絶品だぞ」
「とっても魅力的な提案ですが、私のお腹事情より真壁さんの睡眠事情の方が深刻なので結構です」
「自分より先に俺を労ってくれるのは、昔も今もお前だけだな」
「あら。真壁さん程の方なら引く手あまたでしょうに」
「いや、お前だけだ」
 何気ない言い方なのに、息が詰まる。今更。本当に今更って思うのに。胸の中は引っ掻き回されてばかり。
「ふふ。嘘つき」
「本当だって。だいたい一日の二十時間は仕事で消費して、いつ遊ぶ暇があるっていうんだ」
「お付き合いで色んな接待も受けられたんじゃありません?」
「白状すると、この五年間性欲なんか枯れ果てていた。寝起きの生理的な反応以外、存在を忘れたくらいだ」
「そんな人があんなセクハラします?」
「お前だからだよ」
「調子のいいこと言って。信じられない」
「お前があんな見せつけるための服で、胸元ちらつかせるから、訴えられてもいいやってなったんだぞ」
「へえ。私のせいですか。人としてどうかと思いますけど」
「そうだな。俺は織部にとって性犯罪者だな」
「そんな風には思ってません!」
 冗談のやりとりなのに、つい。本気になってしまった。真壁さんは笑いをこらえながら首をかしげた。
「じゃあ、どう思っているのか教えてくれ」
「それは……、その……」
 してほしくて、されるがままになったくせに。自分のあざとさに仕返しされる。そっと肩に手が添えられ、おそるおそる彼を見上げた。
「本当にお前は変わらないな。昔も今も、俺に甘い」
 私の髪先に触れる優しい指づかいと微笑に安心した。
「あの夜も俺が勝手に勘違いして、弁解の余地すら与えなかった。あんな状況で怖かっただろ。すまなかった」
「真壁さんが悪いんじゃないです」
「いいや。密室で裸で、いくら俺とお前の仲とはいえ、頭に血が昇った男相手だぞ」
「それは……」
「本当にすまなかった」
 肩を押され、無言で部屋に戻る。途中ですれ違った女将さんに食事はどうするか尋ねられ丁重にお断りした。
「雨が上がっていい月がでましたね」
「ああ」
「街灯がなかった時代はもっと眩しく感じたんでしょうか」
「そうだなァ」
 部屋に戻ると、食卓と座布団が端に寄せられ、庭園が見える縁側に長座布団があった。
「すごく気が利いてますね」
「頼んでおいたからな」
「なるほど。それはそうと喉渇きません? 飲みすぎですよ、私たち」
「そうだな。茶の一杯でも欲しいところだ」
 私は低い一枚板の食卓に用意されていた急須でお茶をいれた。
「どうぞ真壁さん」
「ん。ありがとう」
 湯呑みを手渡し、それから自分の分をいれた。とても喉が渇いていた私たちは温い緑茶を一気に二杯飲み干した。
 私は長座布団の端に腰を下ろし、真壁さんを待ち構えた。
「素直だな。観念したのか」
「ええ。お代は前金で充分頂いてますから」
 答えに満足したのか真壁さんはうきうきと上着を脱いで、私の太股を枕に横臥する。
「静かですね」
「こちらから呼ばない限り、誰もこないからな」
 後ろに撫で付けられた艶やかな黒髪は、残念ながら整髪料で固められてごわついていたけれど、流れにそって指を滑らせるには問題ない。
「あの頃じゃこんな状況考えられません」
「あの頃はまだこんな店入れなかったしな」
 真壁さんは目を瞑り、深い息を吐いた。
「膝枕はもういい」
「はい」
 隣に横たわり、頬杖をついた彼を見上げると、その瞳は優しく私を見つめている。
「やっぱり眠れませんか?」
「いいや。眠たい」
 仰向けの私の腹部辺りに空いている腕をかけるように置いた。
 私は軽く寝返りをして、彼にすり寄った。温かな体温と腰の辺りを撫でる大きな手の優しい仕草に、私の方が寝かしつけられそうだ。
「できたら眠ってください」
 私は腕を伸ばして真壁さんの頬を撫でた。真壁さんは頬杖をやめて仰向けになると、目を閉じた。
「時間になったら帰っていい」
「帰るんじゃなくてこれから遊びにいくんですよ」
「若いのに飽きたら戻ってこいよ」
「仕事の量を半分に減らして、周りをよく見てみてください。私なんかより従順で可愛い子なんて沢山いますから」
「もうちょい愛想のいい返事しろよ。だから客つかないんだぞ」
「やだ。真壁さんのことお客様だって忘れてました」
「やればできるじゃないか」
「グッときました?」
「きたきた。眠れなくなるくらい」
「もう。ダメじゃないですか」
「嘘だ。もう眠たいから、おやすみ」
「おやすみなさい」
 真壁さんの腕が離れ、色めき立った気配が月明かりに照らされた部屋に沈む。
 時計もテレビもない。ほの明るい闇の中で、目が冴えていくのと同時に、真くんの存在がじわりじわり頭を占めていく。
 真壁さんの様子を伺うと、目を閉じた顔に生気を感じられず、怖くなって口許に耳を寄せた。微かな呼吸が聞こえて安堵した。
 
 真くんにどんな顔をして会えばいいのかわからない。こんな女を待っている彼が不憫だ。

 なるべく足音をたてないように部屋を出た。
 寝たふりをしてくれているあの人にも、これ以上負担をかけさせるわけにはいかない。

 玄関口につくと私の靴が揃えて置かれていた。合わせたように、女将さんが脇の通路から出てきた。
「お車表に待たせてあります。どうぞご利用くださいませ」
 私は泣きそうになるのを堪えて、会釈し、店を後にした。
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