恋の始め方間違えました。

森野きの子

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番外編

*4

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 久しぶりに定時一時間後に帰れた夜。
 恋人の香代子を誘ってタヴェルナでディナーをしていたら、ラタトゥイユをつついていた香代子がこちらに乗り出してきた。
「ね、次の土曜日さ」
「あ。悪い。土曜日は出張だ」
「はぁ? 土曜日はあたしの誕生日だよ?」
「あっ!」
「あっじゃねーよ」
「ごめんって。仕事なんだから仕方ねーだろ。埋め合わせするから」
「仕事仕事って、ユウスケはあたしのことどうでもいいんじゃん。もーいい。別れたい」
 こいつ、土曜日で二十九だっけ。あっという間だな。と他人事で思った。俺ももう三十一歳になっていた。
「あたしさぁ、お見合いしたんだ。ユウスケは結婚とか考えてないでしょ。でも、その人、あたしと結婚したいっていってくれたの」
 正直、かなりホッとした。この女の一番いい時期を俺で消耗させてしまった事が気掛かりだったが、まだ結婚したいとは思ってなかったから。
 俺の思考はすりきれていたんだろう。デリカシーがないのは元からだが、四六時中仕事のことばかり、ときどき、まったく力になれなかった元同僚の事を悔やむばかりで、心も体も慣れきっていた彼女の事が見えなくなっていた。
「お見合いだけじゃないよ。ここ一年に三回、ユウスケ以外の男と浮気した」
「ふうん。お前が抜け目ない女でよかったよ」
 頬というか顔の左半分を全部打たれた。
 フォークやらなんやらが派手な音をたてて床に散らばって、店内の注目を浴びた。
 女の手っつーのは細くてやわらかなぶん、よくしなる。口の中が切れて、血の味がした。
「あたしのこと、本当にどうでもいいんだね、あんた」
 香代子を怒れないのは、俺のがよっぽど酷いことをしているからだ。
「あたしもだけど、あんただってクソだよ」
 なかなかパンキッシュな捨て台詞を吐いて、香代子は店を出ていった。
 せっかく久しぶりに食いたいものを食っているのだからと一人で黙々と食い続けた。アクアパッツァは血の味でワインは染みるほど旨かった。

 ーー久しぶりに夢見たな。

 浅い眠りが見せた最悪な記憶ゆめ
 惰性で付き合っていたとはいえ、やはり精神的な支えだった香代子元カノを失った俺は、胃痛と嘔吐が標準装備になり、すっかり胃腸薬のお世話になっていた。髪型を変えてみたり、スーツと革靴を新調したりしていたら、靴屋のバイトの女子大生にアピールされた。これ幸いと付き合ってみたら、死ぬほどめんどくさくて、なんとか迎えたクリスマスに、某ハイブランドの姉妹ブランドの財布をプレゼントしたら、あっちから逃げていった。俺の手元に残ったのは、全然趣味じゃないネクタイ一本。締めることなく部屋の片隅に箱に入ったまま転がっている。
「ちょっと、どういうこと? あんたどういうつもり?」
 仮眠をとろうと使われていない会議室にいたのだが、いきなりドアが開いて、ヒステリックな怒鳴り声が聞こえた。
 自分の娘ほどの年頃の後輩に詰め寄る秋元。コッ○アポより命の○でも飲んでろっつーの、うるせえ。
「も、申し訳ありません」
 相手は今年に入ってきたばかりの新人の成子美也。すっかり萎縮して長い首を縮めて上半身を強張らせている。
 長机の影から覗く俺には秋元の肉付きの逞しい背中と、すっかり縮こまった成子の左半身しか見えない。
 大人しくて目立たない。誰かはクールビューティだと言っていたが、コンソメスープに並々ならぬ情熱を注ぐ、ちょっと変わった女。
 一方、自分はあまり本気を出さなくても、そつなく仕事をこなしていると勘違いし、外回りの大半はサボりまくっている。俺はこいつがマッサージ屋から出てくるのをしょっちゅう見かける。その上、互いに既婚者でありながら部長の愛人であることをちらつかせ、周りにハリボテの権力を振るう尻軽女。秋元よし子。
 こいつのせいで織部は辞職した。
 俺はいつになったら上に行けるんだろうか。ひよった奴らが見つけられない契約を取って、客の信頼も積み上げて、足元はガッチガチに固めている筈なのに、部長からの評価が低いおかげで給料もボーナスも上がらない。俺の実績は全体の実績という扱いだ。直談判も考えないことはないが、果たして聞く耳を持ってもらえるものか。
 あのひとなら、違うんだろうな。不意に思いついて、自分の不甲斐なさに苛つく。
 真壁さんと織部がいた頃は仕事が楽しくて時間を忘れるほどだった。
 今は泥のなかを足掻いて進んでいる。或いはドンキホーテの気分だ。
 どうやったら、いつになれば、須藤と秋元に対する恨みを晴らせるのだろうか。
 ぶん殴って会社を辞めてやろうかとも思ったが、俺が損するだけだし、ただでさえ売上が低迷しているというのに、こんなひよった奴らばかりが残ったらあっという間に会社が潰れてしまうと思うと、実行できない。
 おかしな話かもしれないが、俺には会社に対する愛着がある。
 それに真壁さんが戻ってくることを俺だけに話したりするから、しんがりを勤めているような気分なのだ。
「ねえ!? 人のお客様横取りして申し訳ありませんで済むと思ってないよね!?」
「よ、横取りだなんて、私」
「ハァ!? 何!?」
「うるせえんだよ、テメェが客のとこじゃなくてマッサージ屋なんかに通ってるから悪いんだろーが」
 ヒステリックな声が耳障りで、仮眠を諦めざるえない。
 突然現れた俺に二人は唖然としている。いや、俺のが先にここにいたし。
「な、なんなの、益子。あんたいつからいたの」
「あんたらがくる前だよ。だいたい宮原さんの件ならその新人じゃなくて俺に言うべきなんじゃねーの? ま、あんたが俺を嫌ってるのわかってるけどな」
「は。なにを言い出すのよ。私はただこの子に仕事を横取りされたから」
「宮原さんは、担当を俺に替えろって言ってきたんだよな? 新人はおまけみたいなもんだ。なんで横取りした俺に言ってこねーの? それとも部長に告げ口済みか?」
「あんた、なんなの? いつも私や須藤部長を目の敵にして、他の社員に対してもそう。あんたがお客さん取れるのは真壁の代わりだからでしょ!?」
「ふざけんじゃねーぞ! ろくに仕事もしねえで部長の愛人だからってのうのうとしやがって! ホストクラブの次はマッサージか!? 織部の次は成子に尻拭いさせるつもりか!? 糞が! なんでお前らみたいなのが俺より会社に認められてんだよ!!」
「はん? なにそれやっかみ? あんたのやりかたが悪いだけでしょ」
 女じゃなけりゃぶん殴ってやりたかった。
 だが、ぶん殴っても俺の分が悪くなるだけだ。それに、俺だって自分が真壁さんの代わりだって思っていて、いつまでも越えられないから苛ついているってこともわかっている。
 織部の事だってそうだ。あいつが真壁さんに振られたと言った時、俺にとってチャンスだったはずだ。だが、結局、真壁さんの影がちらついて、織部に比べられるのが嫌で曖昧な立ち位置に留まった。
 もう、全部投げ出したい。でも、俺に残っているのは仕事しかない。
 コンコン、とドアが鳴った。その場にいた全員がそこに注目する。
「失礼。懐かしい声が聞こえたんだけど何事?」
 軽やかな笑みを浮かべて現れたのは、俺を悩ませる張本人。真壁恭一その人だ。え、なんでいるんだ。この人が。
「相変わらず激しいな、益子」
 大股でこっちに来たかと思ったら、いきなり抱きしめられた。は?
「痩せた? ってか、やつれた?」
「ちょ、離して下さい」
 くっそ、この人筋力グレードアップしてやがる。スーツもオーダーメイドか? これが覇王の余裕か。くそったれ。
「嫌だ」
「嫌だじゃないでしょーが。離して下さい」
「なんでだよ。俺臭くないだろ別に」
「そういう問題じゃないんすよ。俺に抱きつきたいなら巨乳美女になってから出直してください」
「あはは。益子は相変わらず面白いな」
「成子さん、行くわよ」
 秋元が成子の手を引き、ばっくれた。
「しばらくここに誰も入ってこないように言っておいてくれ」
 真壁さんは秋元たちに云い、軽く片目を閉じた。ハリウッドスターかよ。
 秋元たちはそそくさと退室していった。
「あんたそんなキャラじゃなかったでしょ」
「五年のうちにキャラだって少しは変わるよ。なぁ、益子」
「いや、いやいや、話始める前にまず離れてもらっていいですか。俺、外国ナイズドされてないんで、男にハグされても嬉しかないんで」
「あ、ごめん。懐かしさが溢れて、つい感極まって……」
 ようやく解放されて、スーツを整え向き直る。
「やっと解放されたよ。例の件、藤和うちで決定だ。銀行の融資も下りる。益子、頑張ってくれてありがとう。お前のお陰で俺は帰る場所を失わずに済んだ。今有給消化中で週明けの株主総会で正式に戻るよ。なぁ織部は? お前たち結婚した?」
 あからさまに最後は動揺した声色だった。……ん? 
「なんで俺が織部と結婚するんですか」
「いや、織部はお前が好きだったし、仲良かったし、会社にいないし……」
「織部なら、生き甲斐だったあんたに振られたショックでまともに働けなくなった挙げ句、秋元の使い込みの濡れ衣を着せられて辞職しましたよ」
「嘘だろ」
「嘘じゃねーよ」
 苛ついて敬語も使いたくない。
「じゃあ、今織部は?」
「わかるわけないじゃないですか。それこそ、どこかで誰かと結婚してるかもしれないし、最悪自殺してるかも知れないですけど、俺は知りません」
「そんな、まさか。俺はとんでもない勘違いをしていた。どうしよう、益子」
 ついさっきまでの覇王の貫禄はどこへやら。
「どうしようって言われても……。どうしても見つけたいなら興信所でも頼めばいいじゃないんですか」
 適当に言ったつもりが、真壁さんは指を鳴らした。
「そうだな。さすが益子。クレバーだ」
「あんたが間抜けなんだよ」
「手厳しいな。お前らしいけど。よし。そうしよう」
 真壁さんはスマホを取りだし、知っているらしい興信所に連絡してあっという間に話を進めた。
「よし。ちょっと後で行ってくる」
「は?」
「俺はあの日、理由はどうあれ事実確認を怠った。そのせいで取り返しのつかないことになった。だから同じ過ちは犯さない。織部が結婚して子供もいて幸せそうなら諦める。結婚していても子供がいなくて共働きで所帯疲れしてて旦那の年収が一千万以下なら奪う。結婚に躊躇してる彼氏なら尚更、……っ!!」
 思わず、殴っていた。それ五年前にやれよ。真壁さんは鳩が豆鉄砲を喰らったような顔で俺を見た。
「織部を見つける前に自分に合った精神科医を見つけたほうがいい。人間として大事なものが欠落してるよ、真壁さん。つーか、俺と結婚してても奪う気だったんだろ。あんた」
「いや、益子に限っては無理だ。俺はお前に勝てない」
 真面目な顔してバカにしてんのか、この人。
「今言われた通り俺は人間として何かしら欠落していると思う。じゃなきゃ嫁が他の男の子供を身籠って結婚式に暴露されたりしない。まして織部の件だって、お前から織部を奪う自信がなかった。お前は人としての魅力に溢れている。今はちょっと疲れきって良さが曇ってるようだが」
 俺の肩に両手を置くと、じっと俺の目をのぞきこむ。その目はどこか蠱惑的で人に取り込む悪魔のようにも見える。抗えなくなる。そんな気にさせる。
「な、益子。社長と専務を抱き込んで俺たちの会社を興して藤和もろとも潰すか? 或いはこのまま藤和に残って織部を嵌めた人間だけを排除するか、お前の好みはどっちだ?」
「たった二人のクソの為に、その他千人を路頭に迷わすなんて、できるわけないでしょうが」
「だからお前が好きなんだよ。俺もやっと出世した甲斐ができたってもんだ」
「真壁さんは俺が五年かけてもできなかった事を簡単にやれるんですね」
「お前がいなけりゃできなかったよ。益子、お前がいなかったら俺が戻る前に藤和は潰れてた」
「んなわけないでしょ」
「いいや。断言できる」
「俺も二ヶ月前、彼女に振られたんですけど、浮気してたの全然気づかなかったんですよ。しかも見合いして結婚するみたいです」
「お。俺のゾーンに降格してるな」
「冗談じゃないですよ」
「あははっ。まったくだ」
 真壁さんは楽しげに笑い、俺の肩を叩いた。
 俺はやっぱりこの人に勝てる気がしない。
 敗けを認めたなら、残された道は従属だ。
 俺はこの人についていくしかないとうっすら思っている。
「また仕事が楽しくなりそうだ。この五年間、俺はサイボーグみたいだったからさ。益子がいれば人間らしく戻れそうだよ」
「織部に振られたらどうするんですか?」
「俺にはな、現実的な年頃の女心を妥協させるだけの収入と貯蓄がある」
「それでいいんですか、マジで」
「他に取り柄がないんだ」
「やめてください。かける言葉がみつかりません」
「だろ。同情するなら仕事してくれ。お前も早く俺みたいになればいい。素質あるぞ」
「じゃあ、俺は真壁さんみたいにならないよう据え膳チャンスが来たら逃さないように気をつけます」
「それがいい。じゃあ、俺はいくよ。社長を待たせてるんだ。戻るついでに人員整理の話もしなきゃな」
「須藤は別居中で、一人息子は成人して就職してるみたいです。別居の原因になった秋元は普通に結婚してますけど、子供はいないんじゃないですかね。会社の金でホストクラブに通って遊んでたくらいですし」
「愛し合う二人なら無職なんか乗り越えられるな」
「資本主義の奴隷が何を仰いますか」
「俺だって人間なのに……。じゃあ、また後で」
 爽やかに微笑むと会議室を出ていった。

 俺も仕事に戻ろう。その前に成子を探さなくちゃ。あいつも完全なとばっちりだからな。
 眠気と怠さがすっかり醒めていた。
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