高司専務の憂鬱 (完)

白亜凛

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◆将を射んと欲せば

秘書のお仕事 6

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「さあ、杏ちゃん、荷物をまとめましょう」
「う、うん」

 どこからか段ボールを持ってきてくれた菊乃が、慌ただしく杏香の机の上を片付けはじめた。
 杏香も引き出しの中身をせっせと段ボールに入れる。
 とにかく一刻でも早くこの場から逃げるしかない。行先がたとえ颯天の待つ専務室であってもだ。

 菊乃とふたりで荷物を入れた段ボールを持ち廊下に出ると、菊乃がこそこそと囁いた。
「大丈夫。専務室に入れば、光葉さんでもなにもできないから」

 専務室の前に立ち、扉を叩こうとする菊乃に向かって、杏香が泣きそうな声を出す。
「でも菊乃ちゃん、私、入りたくないよぉ」

 前門の虎、後門の狼である。できるならこのまま家に帰りたい。

「え? どうして? 専務、杏ちゃんには優しいのに」
「そんなことないって」

「気づいてないの? 杏ちゃん以外の人には専務、ニコリともしないじゃない」
 クスッと笑って菊乃は扉をノックする。

「失礼します」
 扉を開けると、最奥にある颯天の席に向かって右側に、いままでになかった机がある。

(――近っ!)

 思ったよりも近い。ほんの数歩の距離だ。
 颯天はちょうど電話をしているところで、杏香をチラリと見ると、指先で『そこだ』というふうに右側の席を指した。

 机の両脇には袖机もある。
 持ってきたノートパソコンと荷物を置いた菊乃は、「じゃあね。がんばって」と小声で言い、颯天に頭をさげてそそくさと部屋を出て行った。

 菊乃の背中を心細い思いで見送り、荷物を詰めた段ボール箱を机の上に置いて杏香は肩を落とす。
 そのまま恨めし気に彼を振り返ると、しっかりと目が合った。

 ちょうど電話を切るところだったようで、受話器を置くと彼は杏香の方に体を向ける。

「不満そうだな」

「だ、だって、おかしいじゃないですか。執務室の中に秘書の席があるなんて」

「社長にもいるぞ。常務にも」
「みなさん男性です!」

「そういうことを言ってると、ジェンダーハラスメントとかなんとか言われるぞ」

 どうだとばかりに彼はニヤリと笑う。

 普段口数は少ないくせに、こういうときは達者なんだからと睨んだが、彼は素知らぬ顔でデスクに目を落とす。
 こうなった以上仕方がない。あきらめて荷物を整理しはじめると、ふと気づいた。

 このデスク、いつここに持ってきたのだろう? 

「あの、専務。この机、いつ用意したんですか?」

「昨日」

 土曜日に杏香の部屋に来て、昨日は日曜日だ。
「専務、出勤していたんですか?」

「ああ」
 当然のように答える颯天に、言葉に詰まる。

 わかっていたとはいえ、秘書課に来て彼の忙しさがどれほどのものか、杏香は現実のものとして実感した。
 忙しいだけじゃない。彼はいつも張りつめた空気の中にいる。だから、坂元の執務室でリラックスしている彼にホッとしたのだ。

 坂元が言っていた。
『彼が妥協してしまったら、議論は終わってしまいますからね』

 彼は輪の中心にいて常に最良の決断を選択しなければならない。間違いは許されないのだ。なのに愚痴ひとつこぼさず、悠然と構えている。


「専務、コーヒー飲みますか?」
 杏香の中のなにかが疼き、気づけばそう言っていた。
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