高司専務の憂鬱 (完)

白亜凛

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◆将を射んと欲せば

秘書のお仕事 5

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 名前の通りハヤテのごとく現れてハヤテのように去って行った彼の笑顔が脳裏にちらつき、その日の夜はよく眠れなかった。

 会社を辞めさえすれば縁が切れると思っていたが、それだけじゃ足りない。逃げるからには会社を辞めるだけでなく、引っ越しもしなければいけないのか。

 送られてきた服の量は、スーツとワンピースだけでも軽く二週間分にはなる。上手くローテーションすればこの冬は服に困らないだろうと、彼の声が聞こえるようだった。

 この先長く秘書課で働くつもりはないのに、先手を取られてしまった気分だ。

 必死に進もうとしても、次から次へと新たな波が襲ってくる。
 その波はどんどん高くて強力になっていくような気がしてならない。

(どうしたら逃げられるんだろう……)

 悶々しながら出勤した週明けの月曜日。

 それはいきなりの指示だった。

「え……なんですって?」

「君の席は、これから専務室だ。席は既にあるから荷物を持って行ってください」

 都築課長は形ばかり微笑んで「よろしく」と行ってしまう。

 確かに颯天から専属になるとは聞いていたが、部屋まで一緒だなんて聞いていない。
 その違いはあまりにも大きい。

「杏香ちゃん、よかったね」
 唖然として固まっている杏香の前に、ひょっこりと顔を出したのは菊乃だ。
 よくなんかないわよ、と言いかけたとき――。

「どういうことなんですか?!」
 課長に食い下がったのは、杏香ではなく青井光葉だった。

「なんの経験もない、来たばかりの彼女が専務専属なんておかしいですよね? もしかして専務の指名なんですか?」

 ヒステリックな声に、秘書課がシーンと静まりかえり、杏香の喉の奥がゴクリと鳴った。

 皆が注視するなか、都築課長は顔色も変えず、薄い笑みを浮かべたまま毅然と対応する。

「指名なんてありませんよ。強いて言うなら坂元取締役の推薦も含めて私の推薦です。なにかご不満でも?」

 上司にまっすぐ見返されて、それ以上は食い下がれないのだろう。悔しそうに唇を噛んだ青井光葉は、クルッと杏香を振り返った。

(ヒィ!)

 思わず息を呑み、鞭で打たれたような緊張が走る。
 光葉の瞳には怒りの炎が燃え盛っている。ユラユラとした紅い火が見えた気がして、杏香は慌てて背中を向けた。

 本性見たりと、思わず心で呟く。

 由美の想像はあたっていたのである。
 パーフェクトな女性と言われる彼女には、裏の顔があった。そしてそれは秘書課だけの秘密だったのだ。

 異動初日に、菊乃からも忠告された。
『彼女とふたりきりになってはだめよ。女子トイレは他の階を使うようにしたほうがいいわ』
『わかった。そうする』

 彼女は急な杏香の異動に不信を抱いたらしい。高司専務に近い立場の坂元取締役の担当というのも気に入らなかったようで、杏香を見る青井光葉の目は最初から憎悪に満ちていた。

 だからといってなにか言われるとか、意地悪をされるとわけではない。ただ時折強い視線を感じて振り返ると、ジッと見つめている彼女と目が合うだけだが、その度にゾッとさせられる。
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