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魂魄編:ペンダント

猜疑心

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唸り声に、モニカは目覚ました。
荒らされた家。窓の外ではサクラの花びらが舞っている。
ドアはこじ開けられて、引き出しという引き出しが全てひっくり返されているのが視界に入った。
上体を起こしてあたりを見渡すと、全身に痣が刻まれた血だらけのアーサーが、うずくまり苦し気に呻いていた。

「グァァッ……グゥゥ……ッ」

「アーサー……」

血を吐いている。その血の色は真っ黒だった。
モニカは震える手を伸ばした。すると、アーサーはビクつき彼女を見た。その瞳は漆黒で、細い瞳孔が黄色く光っている。魔物の目そのものだ。
モニカは涙をこらえながら、アーサーの頬に触れた。

「グルァァァッ!!」

「んっ……」

アーサーは妹の手を振り払い、彼女を殴り倒した。腹部に衝撃を受けて床に倒れこむモニカに覆いかぶさり、歯を剥いて威嚇している。モニカは口から血を流しながら、ぼうっと兄を見つめていた。

「アーサー」

「グァッ……! グルァァッ!!」

「辛いよね。きっと苦しいよね」

妹の言葉には応えず、アーサーは彼女の肩に、肉がちぎれそうなほど強く噛みついた。痛みに顔を歪めているモニカの首に手が伸びる。

「かはっ……あ……う……」

首を絞められる。息ができない。意識が薄らいでいく。
アーサーが動くたびに、彼の癒えていない傷口から血が落ちる。

首を絞められても、肉が噛みちぎられても、それをアーサーが食べていても、モニカは抵抗しなかった。

「アーサー……。魔物になっても、一緒に生きてくれる……?」

「グゥゥッ……! グアァッ!」

「ずっと傍でいてくれる……?」

「グエッ、グオッ。グアァッ」

「いくらでもわたしのおにく食べていいから……わたしに痛いことしてもいいから……一緒にいてくれる……?」

「グルアァァァッ!」

モニカは魔物となったアーサーの肩に腕をまわし、ぎゅっと抱きついた。そしてゆっくりと目を閉じる。

「だいすきだよ、アーサー……」

「グァッ……」

アーサーが動きを止めた。そして、震えながら妹の腰に腕をまわす。
だが、また唸り声を鳴らして、まわした腕で彼女を締め付け、また首元に噛みついた。
モニカはそれでも離さなかった。

「ウゥッ……グルゥァッ……ウアッ……」

「……?」

唸り声が震えている。モニカは、彼女の肉を食っている兄に視線を落とした。黒い瞳からは涙がぼろぼろ流れている。

「……」

「グァァッ……ウウゥゥッ……ウアァッ……グゥァッ」

「アーサー……」

《止めてやるのだ、モニカ》

「藍……」

耐え切れず、という様子だった。杖が声を絞り出す。

《アーサーも……このようなことをしたくはあるまい。魔物となったアーサーを受け入れてやるな。抵抗をするのだ。手足でもなんでも縛り、鈍器で頭を強打させてでも、止めてやるのだ。誰が最愛の妹の肉を食いたいと思おう》

「……」

「グゥッ……ウアァッ……グルルッ……」

泣きながら肉を食うアーサー。モニカは彼の頭を優しく撫でて、小さく頷いた。

「そうね。こんなの、アーサーが一番かわいそうだわ。わたしが止めてあげなくちゃね。ありがとう、藍」

《ああ……。すまぬ。我は主の魔力でしか魔法を使ってはならない。新しい体を手に入れたとき、シャナがきつく鎖をかけおった……。このような状況で、口を挟むことしかできん……。朝霧も、反魔法液で力を封じられておる。薄雪と喜代春の妖力も、反魔法液をたっぷりかけられたアーサーには無効だ。主ひとりでアーサーを止めねばならん》

「ううん。心強いよ。ありがとう。藍、アサギリ、ウスユキ、キヨハルがいてくれるってだけで、全然ちがうよ」

モニカは深く息を吸って心を落ち着かせた。そして意を決し、アーサーを突き飛ばす。

「グルァッ!」

「アーサー、ごめんね。ちょっと乱暴にするよ。魔法が使えないわたしの力でアーサーなんて相手にできないから……武器を使うことを許してね」

モニカはそう言ってアサギリを引っ掴んだかと思えば、アーサーの腹にずぶりと突き刺した。まだ体が自由に動かないのか、それともアーサーの意思か、彼は激しい唸り声を上げただけでほとんど抵抗しなかった。

「グアァァァァァッ!!」

モニカはキッチンへ行き、ナイフや包丁など、ありったけの刃物を持ってきた。そしてそれを、アーサーの手の平や足の甲へ突き刺す。

「グエアァァァァッ!! ガァッ! グオオオオオッ!!」

《……容赦ないな》

「こうでもしないと負けちゃうから……っ。大丈夫……アーサーはこのくらいの傷で死なない……。……死なないよね?」

《我に聞くでない……》

手足と腹に刃物を刺され拘束されたアーサーは、悲鳴や唸り声をあげながら激しく抵抗した。だが、弱り切ったアーサーの体では、その拘束を解くことはできないようだった。

それから彼女は反魔法を解くために、家に置いてある聖魔法液をとりに寝室へ行った。だが、荒らされた家には聖魔法液どころか魔法液一本も残されていなかった。
彼女に残されていたのは、何の役にも立たない、約10万枚の白金貨だけ。

モニカは金貨が入った瓶を抱きしめ、床にへたり込んだ。

「こんなのじゃ、治せないよ……」

《モニカ……。シャナに助けを求めた方が良いのではないか?》

杖の言葉に、モニカは力なく首を横に振った。

「わたしたちは命を狙われてるのよ……。シャナに助けを求めたら、きっとシャナは命がけでわたしたちを守ろうとしてくれる。でも、教会の時みたいに、わたしたちのせいでシャナが死にかけちゃうかもしれない。もしかしたら今度は死んじゃうかもしれない……。そんなのいや。だからシャナのところへは行かない」

《……》

杖が何度言っても、モニカはシャナに助けを求めようとしなかった。

《では、カミーユたちに助けを》

「……」

モニカはふいと顔を背ける。

「……ジルが、わたしたちを殺そうとしたのよ」

《あれはジルでは……》

「どうしてそう言えるの? あれは……ジルだったわ。もしかしたらカミーユたちは、もともとわたしたちを殺そうとしてたのかもしれない……」

《そのようなわけないではないか! 何を言っているのだモニカ。正気を失ったか!?》

「こんな状況で、正気でなんていられないわっ!」

《……》

モニカは大声で叫び、拳を床に叩きつけた。黙り込む杖に我に返り、額に手を当てる。

「……ごめん、藍。怒鳴ったりして……。ほんとうにごめん。わたしだって信じたい。あれはきっと、ジルじゃないって。でも、こわいの。誰も信じられないの。
だって、あんなに仲良くしてくれてたカフェのお兄さんが、ずっとわたしたちを殺そうとしてたのよ……?
ジルにそっくりの人が、わたしたちにひどいことをしたの……。もう、だれも信じられないのよ、わたし……」

モニカの中に生まれた、大人への猜疑心。
今まで人を疑ったことがなかった彼女にとって、それは無数に生えた魔物の手が蠢く暗闇の中で閉じ込められたかのような感覚だった。今まで優しかった人たちでさえ、恐ろしく感じた。

こんな時に限って、幼少時代の記憶が蘇る。
命を狙う両親。
ニヤニヤしながら、ハエのたかった毒入り生肉を食べさせる看守。
理由もなく暴力を振るわれ、彼女たちが泣き叫ぶと楽し気に笑う大人たち。

すべて、大人が彼女たちにしたことだ。

彼女が今信じられるのは、アーサーと、杖と、アサギリだけだった。

せめてアーサーの傷を治そうと、モニカは下手な手つきで回復薬を調合した。
モニカがリビングへ戻ったときには、アーサーは気を失っていた。
彼に回復薬を飲ませると、傷が少し塞がったが血は止まらなかった。

アーサーの顔は真っ青になっている。服を脱がせると、全身に痣が刻まれていた。

次に目覚めたとき、おそらく彼は完全な魔物となっているのだろう。
もしくはもう目覚めないかもしれない。

モニカは兄の頬に手を添えた。そして泣く。

「せめて……せめて、死なないで……。アーサー……」
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