友だちは君の声だけ

山河千枝

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3 お母さんに嘘をつく

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 音の出どころは、お母さんのズボンのポケットだった。

「お母さん。電話、出ないの?」

 ホッとしながら、食卓の向こうへ声をかける。お尻のポケットに突っこまれた、お母さんのケータイを指さして。
 お母さんは包丁を持つ手を止めて、チラッと私を振り返った。

「いいのよ。これ、知らない番号からかかってきた時の音だから。すぐ切れるわ……ほら」
「でも、登録してないだけで、友だちとかかもしれないでしょ?」

 私だってそう思ったから、ユウマくんの電話に出たのに。

「だとしても、大事な用ならまたかけてくるわよ」
「え。それじゃ、知らない番号からかかってきたら、一旦無視した方がいいの?」
「とりあえず、お母さんはそうしてるけど……」

 お母さんは、持っていた包丁をまな板に置いて、タオルで手をふいた。そして、ゆっくりと私に向き直った。
 少し眉をひそめて、私を──私の握るケータイを見つめている。

「芽衣。ひょっとして、知らない人からの電話に出た?」

 私は、飛び上がりそうになるのを一生懸命こらえた。

「う、ううん!」
「でも、さっき2階でしゃべってなかった?」

 しまった、聞こえてたんだ!

「あー……美咲が、ちょっと」
「美咲ちゃん? 何の用事?」
「えっと、えっとね。なんとなくかけてみただけ……って、言ってたかな?」

 アハハと頭をかくと、お母さんは、私の顔をジッと見つめてきた。肩まである茶髪を、ゆっくり耳にかける。
 表情は厳しい。テレビドラマに出てきた、犯人のうそを暴こうとする警察の人みたいだ。

「……ちょっとくらいなら、まあいいけど」

 私から目をそらして、お母さんはため息をついた。

「美咲ちゃん、強引なところがあるから……そのうち、夜中にまでかけてくるんじゃないかしら。今はお家が複雑だから、気晴らししたいのはわかるけどね」

 お家が複雑、というのは、最近になって美咲のお母さんが再婚したことを言ってるんだろう。

 私のお母さんは、時々、美咲のことを別世界の人間みたいに言う。「美咲ちゃんは芽衣とは違う、特殊な子なのよ」とでも言いたげに。
 そのたび、なぜか吐き気に似た感覚が、私のお腹に溜まっていく。

 お母さんは手を包丁に伸ばしかけ、けれどまた私の方を見た。

「あのね、芽衣。美咲ちゃんの事情とうちのルールは、関係ないんだからね。次、またあの子から電話がかかってきたら、『用事がない時は電話できない』ってちゃんと言いなさい。あんたの悪いところは押しが弱いことよ。もっとしっかりして。もう4年生なんだから」
「で、でも、ちょっと電話するくらいならいいんでしょ?」
「そりゃあ、ちょっとで済めばいいけど。どんどんエスカレートして、夜遅くまで起きてたり勉強しなくなったりしたら、ケータイ解約するわよ」
「わ、わかってる」

 私はコクコクとうなずいた。お母さんは、ようやく目つきをやわらげて、台所の方を向いた。

 よかった、この場はやり過ごせた。だけど明日はどうしよう。

(ユウマくんと約束しちゃった……明日、絶対に電話に出るって)

 かかってきても無視しようか。でも、あんなに必死で「またかけさせて」ってお願いしてきたのに。無視したら、ユウマくんはどんなに傷つくだろう。昔、お父さんも「約束を破ったら、相手を悲しませるんだよ」って言ってた。

 だけど、知らない子としゃべっているなんてばれたら、お母さんにものすごく怒られる。きっとケータイも取り上げられちゃう。

(でも、『ちょっとならいい』って言われたし……15分くらいなら大丈夫かな? それで、私があんまり声を出さないようにしたら、美咲と電話してるってごまかせるかも)

 なんとかなるかもしれない。私は「よし」とつぶやいて、ケータイを握りしめた。
 親指の下で、カチッと音量ボタンが小さく鳴って、

「あっ、音の消し方!」

 と、思い出した。

 ✳︎

「……っていうことがあったの。だから私、大きな声は出せないんだ」
『そっか……ごめんね、わがまま聞いてもらって』

 次の日の、夕方5時。自分の部屋で宿題をしていると、約束通りユウマくんから電話がかかってきた。
 通話ボタンを押してすぐ、私は事情を説明した。窓の向こうの、夕焼けを背にして鳴いているカラスたちより、うんと小さい声で。

『じゃ、メイさんはあんまりしゃべらないほうがいいかな?』

 ユウマくんが、ヒソヒソと小さく言った。

「うん。でも、ユウマくんはふつうにしゃべっていいんだよ」
『あ、そっか。メイさんにつられちゃった』

 えへへ、と照れくさそうな笑い声がした。その中に、うれしいという気持ちがたくさん詰まっている。

 声だけなのに「うれしい」が伝わってくるなんて。誰かとの電話を、本当に本当に、心待ちにしていたんだろうな。
 つられて私まで、胸の奥がくすぐったくなった。

『今日は……何を話そうかなあ。給食のことにしようかな。階段のとこで見た、虫の話にしようかな』

 ユウマくんはうれしそうな声のまま、ひとりごとを言い始めた。その中の「虫」という言葉で、私の口がひとりでに引きつった。

「……私、虫、苦手」

 宇宙人みたいな口調で、ボソッとつぶやく。

『そうなの? それじゃ、うちのアパートには住めないね』
「え……けっこう虫が出る家なの?」
『うん。クモとか、蚊とか。ゴキブリなんか、1日に1匹は見るよ』

 私ののどから、「げっ」と濁った音が漏れた。

「うええ……なんでそんなにいるの?」
『うーん。壁のひびから入ってくるのかも』
「壁のひび……? ひびってどういうこと?」
『窓際の壁にね。指が3本入るくらいの、大きいひびがあるんだ』

 それはひびじゃなくて、穴だと思う。

「もしかして……ユウマくんのアパート、めちゃくちゃ古い?」

 ユウマくんは、困ったように笑った。

『古いし、ボロボロだよ』

 どうボロボロなのかというと、畳の一部が腐ってブヨブヨしていたり、壁のひびから風が入ってきて、冬は外と同じくらい寒かったり……。

「す、すごい家だね。それじゃ、エアコンつけても意味ないんじゃない?」
『えあこんって何? 野菜?』
「……ユウマくんの家、電気ないの?」
『あるよ。なかったら、ケータイが充電できないよ』

 それもそうだ。だけどエアコンがついていないのか。珍しい。

(しかも、家の中なのに畳が腐ってたり、壁に穴が空いてるんだったら、外はドロドロに汚れてるのかな)

 そう聞くと、ユウマくんは「んー」とうなりながらちょっと考えて、答えた。

『わかんない。アパートの色、真っ黒だから』
「真っ黒? なんか怖いね」
『そう? ぼくは何とも思わない、けど……』

 と、言ったユウマくんの声が、ふいに途切れた。
 踏み切りの音と、駅のアナウンスが、電話の向こうから聞こえてくる。
 場違いに楽しげな、「テッテレン、レレン」という発着音も。

 5秒、10秒と待ってみても、ユウマくんは何も言わない。私は不安になって、声をかけた。
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