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恋人ごっこまでの経緯
修道院午前三時、朗報あり①
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夏が始まる前の季節。
思い人の王子から逃げるように王城を後にした修道女は、すべての痕跡を消し去り、思い出だけを大切に抱きしめて日常に戻って行った。
そして、彼女は人知れずに、部屋の窓辺に硝子の靴を薔薇を添えて飾って、時々甘い余韻に浸っていた。
そう。彼女は、今でも彼が忘れられないのだ。
愛しい王子からもらった硝子の靴は、修道女の質素な部屋をひっそりと華やかにしていた。
彼女は、王子の突き刺さるような鋭利な視線や、素直じゃない口調の中に潜めた優しさ、息を呑むような端正な横顔が大好きだった。
思い返せば、彼女たちが出会った日は雨混じりの雪が降る春の日だった。
それも酷い天気で、空が大泣きしているような、悲しい色をしていた。
外の様子と裏腹に彼女たちの時間には冷たさはなく、いつも生暖かく、静かで、ゆっくりと時が流れていた。
彼女は、最近切実に感じる事がある。
人は皆、自分のすべてを受け止めてくれるそんな存在を誰もが探しているんじゃないか、と。
そして、時には背中を押してくれて、明日への希望を抱かせてくれる人に出会えたら幸せなのだろう。
人生は幸せなことが一握りで、大半は辛いことや悲しいことで覆い尽くされているから。
彼女は思う。
現実、御伽噺の王子様は迎えにきてはくれない。
もし、迎えに来てくれたら余程の幸運か、甘い夢にちがいないのだ、と。
愛しくても切なくても、声が聞きたくて叫びたくて、あの人のもとへ足が向いても、城の城壁のような高い身分差は超えられない。立場は変わらない。
甘やかされてグダグタになるまで堕ちることも、指先を絡めることも、吐息が聞こえるくらいの距離にいることも、二度とない。
蕩けてしまうような微笑みも、息遣いも、手に入れることなんてできないのだ。
それでも幸せなのだ、そう、幸せ。
そして修道女である彼女は今宵もあの日々を思い出した。
氷華殿下と過ごした時間を。
時はずっとずっと前に遡る。
************
修道士の朝は早い。いや、早すぎる。
月が闇を照らす真夜中、世間が寝静まっているーー時刻は午前三時。
昨日は寝るのが十一時で、夜更かしし過ぎたため、マリーは目を擦りながらなんとかベッドから起き上がった。
「なんか頭痛い。寝不足かなぁ」
マリーはおもむろにネグリジェを脱ぎ、修道服に着替えた。
そして、簡素な机に置いた鏡の前で、瓶に用意していた水を洗面器に入れ、丁寧に顔を洗った。
部屋にはベッドと簡素な机、最低限の衣類と画材道具をしまうタンスだけだった。
(あ……)
マリーは鏡に映る自分の顔をまじまじと見た。
口元や頬に昨日描いた絵に用いた絵の具がついていた。
(間抜け面だわ。落書きされたみたいにヒゲある……。また、無意識に絵の具の手で顔触っちゃたのかな。夢中で全然気がつかなかった)
マリーは少し抜けているところがあったから、顔に絵の具がついていることもしばしば。
だから今日も通常運転だった。朝のうちに気づいてよかった、とほっとした。
マリーは布で顔についた絵の具をごしごし落とした。
ちなみに、昨日は副業の本の挿絵を書いたあと、コンクールに向けた絵画に色付けを行っていた。
今年は入賞できるかなぁ、なんて考えながら。
今回もマリーは修道院に従事する者たちを描いた。
日々の生活を色鮮やかに、見たまま、生き生きと描いたつもりだ。
前回は入賞一歩手前で、官能的な美人画に負けてしまったから、今回は修道院のテーマは変わらないものの、色鮮やかに人々の生き生きした様子を描き、人目を惹きつける作戦だった。
(といっても、敵ながらあの美人画はすごかったなぁ。すごい色っぽくて。艶かしさが半端なかった。きっと、作者は経験豊富? なんだろうなぁ。画家は情熱的な方が多いというし、この前も新聞にとある画家が腹上死したとか書いてあったっけ……私にはないな、絶対。そもそも腹上死ってどんな無茶したらするんだろう? っていうか死ぬほど無茶するってどうやるの? 戦うの?)
修道女で清い身であるマリーは息も出来ぬほど激しい情事を知らない。身を焦がすほどの恋も知らない。もちろん、本で読むくらいの知識ぐらいはあるが、知識と実際は違うので、それを知らないというのだろう。
マリーはいつものように、髪を一つに結い上げる。
後毛1本出ないように。
(私はそんな経験ないし、修道院しか知らないからなぁ。知らないものは書けないし、想像力もないし、相手もいないし。恋でもすれば変わるんだろうけど。まぁ、私が知っていることを伝えることはできるよね)
マリーの身支度は早い。化粧はせず、軽く化粧水だけ塗って終わりだ。化粧水は友人が王都のお土産でくれた薔薇の化粧水だった。
マリーが所持している唯一の化粧品だ。
修道院しか書けないマリーであったが、最近は官能小説の挿絵の仕事が報酬いいし、やってみたいという気持ちもあった。
しかし、マリーにはその手の経験が絶望的にない。
恐る恐る官能小説というものを読んでみたが、
『んっ……あ』『あああっ、やめ、んっ……!』『そ、そこは……だめぇぇ』『あああああああ』
とか、よく分からない戦闘の様子が描かれており、理解に苦しんだ。
『そこ』ってどこだ、痒いのか?くすぐったいのか、痛いのか?
とにかく、叫ぶくらいだし、男女とも苦しそうだ。もがいて拒否したり、『あなたを食べたい』などと狂気的な台詞、体液?血混じりの残酷描写は、地獄絵図みたいで、男女の戦いも恐ろしいものだと知った。
好きなのに憎い、苦しいのに気持ちいい、忘れたいのに忘れてほしくない。
愛は奥深い。
それを、理解できないのは当たり前だ。
だって、恋したことなんてないんだもん。
絵ばかり書いている、地味で真面目で色気のない修道女に一時の恋人すらできるわけもなかった。
一生、恋することなんてない。事故のように突然出くわす事がない限りは。
だいたい、今まで男性修道士も含めて、顔がいくら良くても、ドキドキしたことはないのだ。
マリーは造形が美しいと思っても、とびっきりの美人なら綺麗で感動することはあっても、男性は無理だった。
その原因に心当たりはある。
マリーは13歳まで伯爵令嬢をしていたのだが、その時の婚約者(当時13歳)に言われた一言が23歳になった今でも忘れられないのだ。
「お前が婚約者なんて、ツイてないわー。結婚とかつらっ」
今思い返せば、相手の男に悪気はなかったのかもしれない。思春期だったし、偉ぶりたい年頃だったし、もしかしたら好きな子がいて、親が決めた結婚が嫌だったのかも。
まぁ、誰だって聡明な美人と結婚したいだろうし。
マリーのような地味で色気のない、特技もないどこか抜けている女は、結婚相手に希望しないだろう。
能天気でフレンドリーで抜けた地味女は友達になることはあっても恋愛対象にはならない。
しかも、修道女で、なお恋愛に対するハードルが高いのだ。
でも、そんなマリーも経験として、死ぬまでに一度くらいはドキドキして、甘く胸が痛むような恋をしてみたかった。
(修道女は結婚はできないけど、恋愛くらいは死ぬまでに一回してみたいなぁ。あ、でも、恋愛にも相手がいるよね。私を好きになる人なんていないよなぁ)
神の使いである修道女に手を出すことは、罰せられなくとも背徳である。
相手がそこまでマリーを好きになる意味がわからなかった。
マリーが絶世の美女なら、有りうるかもしれないけど。
だから、マリーはたまに時間のあるときに、純愛小説を読む時間だけでじゅうぶん幸せだった。そんな素敵な小説の挿絵の仕事も好きだった。
ちなみに今日は新入りの修道士たちに建物の案内と雑務を教える役割を担っていた。
一応、教える側として見かけはしっかりしなければならない。
手本となるために甘美にはならず、清潔感を意識して挑まなくてはならない。
マリーはこう見えても年齢的には後輩の教育も任される年になっていた。
修道院の年齢層は、下は修道院附属学校に通う十歳から上は七十代までいる。
炊事、洗濯、畑仕事など簡単な雑務くらいなら、マリーはベテランの域だった。
世話好きなマリーは後輩たちにも、修道院のお手伝いにくる一般市民にも、業者にも好かれていたし、なんら修道院の暮らしに不自由を感じたことがなかった。
修道院は魔法関連の悪魔退治などが花形の仕事であるが、マリーは残念ながら魔法関連はパッとせず、どんどん後輩に抜かれたり、同期が出世したりしている。
しかし、マリーは嫉妬や妬みがなく、普通だったら苦しむ状況ではあるが、かなりあっさりしている性格だったため、穏やかに暮らしていた。
時に嫌みを言ってくる人もいたが、そういう時は言われたことを思い返し、直せるところを直して、あまり深く考えないようにしていた。
できないことはできないし、仕方ない。
恨んだり、羨んだりしても、みじめになり、いい方向には向かわないのだ。
適度な諦めは人生において必要。
そう、マリーは達観していた。
魔法が出来ないのは言われて当然、それでも挨拶したら返してくれるし、なんだかんだ困って居たら助けてくれる修道院関係者たちは優しい。
令嬢だった頃より生きやすい温かい世界なのだ。質素で贅沢出来ず、時間にも厳しいけど、ここは住みよいところだった。
ただ、修道女として一人前に任務がこなせないとしても、修道院に恩があり、自分に何ができるか考えた結果ーー家事ベテランになったのだった。
魔法はイマイチ、だけど雑務はすすんでやる。
入賞するほどではないが、マリーは修道院では絵がうまいと評判であり、たまに挿絵の副業もしたりしている。
趣味といってもいいだろう。
もし、コンクールで入賞できたら、いつもボランティアで教科を教えている低所得者向けの学校に寄付し、校舎改築に回す予定だ。
今日もマリーの一日が始まる。
ありふれた修道女の一日が。
マリーの支度が出来たころ、トントンとドアをノックされた。
「おっはーよん。マリー」
朝からテンションの高いのは化粧水をくれた友達ーー同僚のマリアだ。
栗毛にエメラルドの瞳。美人だ。
マリアは実年齢より大人っぽく見える優美な修道女だ。あとひとつ特徴をあげるなら巨乳だ。歩く度、たわわん、と揺れるほどの。
色っぽい。しかも、いい香りがする。
シトラス系の美人からする香りだ。
「久しぶり、マリア。帰ってきていたの?」
マリーの二人いる同期の一人であるマリアは先日まで極秘の仕事をしていたらしい。
「さっき帰ってきたばかりなの」
修道女にはたくさんの仕事がある。
布教や国境の結界の祈り、領地の作物の管理、魔法関連の依頼ーー多岐に渡る。
中でもマリアは若者の部類に入るが、なかなか仕事の出来ると評判のため、時々口外禁止の特殊任務に着く。
「ああ、そういえば、フレッドも戻ってきたみたいよ。まだ会ってないけど。一生会いたくないけど」
マリアが吐き捨てるように言った。
フレッドという愛称で呼ばれているアルフレッドはその同期のうちのもう一人だ。
修道院一の仕事ができるフレッドと、同じく出世頭のマリアとマリーは同期であり、苦楽を共にした3人は休日は一緒に食事をするくらい仲が良かった。
「フレッドなんてどうでもいいわ! やっぱ帰ってきたら、まずは癒しのマリーの顔見なきゃ、ね?」
マリアはぎゅーっと豊満な胸の中に閉じ込めるように、マリーを抱きしめた。
柔らかくて気持ちいいと思うのは一瞬で、全く息が出来ず苦しい。
ああ、これなら腹上死しそうかもしれない。
これがよく言う、幸福な死に方だろうか。
「あ、ごめん、マリー。胸の中に閉じ込めて息の根を止めるところだったわ」
「ん、うん、なんとかだいじょうぶ」
不足しがちな空気をゆっくり吸い込む。
マリアはなかなか怪力だ。
多分、下手な男よりは力があると思う。
ちなみに、素手で壁に穴を開けることが特技。
怖いし怒らせてはいけない。命がない。
「相変わらず立派な物をお持ちで……ごほごほ」
「あ、触りたい? また触らせてあげようか?」
マリーはマリアの胸を酔っ払った勢いで触ったことがある。絵のために質感を確認したくて、勢いでお願いしたら『どうぞ、やさしくね』と快く触らせてくれたのだ。
それは、ふにゃふにゃ。ふわふわ。ぶるるん、を合わせた感触で、やみつきになる質感だった。
こりゃ、もてる。
マリーは同性ながら感動したものだ。
どちらかというと、マリーもそんなに小ぶりではないが、美人画の聖女や女神といえば溢れんばかりの巨乳と相場は決まっている。
よって、マリアはモデルに最適だった。
「もんでもいいよ。触るだけなら物足りないでしょう?」
「マリア? 酔ってる? 疲れすぎてるんじゃない。テンション深夜モードだよ」
「あはは、そうかな? まぁ、またいつでもそーゆー気持ちになったら言って?」
いや、絵のためだったんだけど、とマリーは思った。
「照れないでいいから、わかるから」
照れてるわけじゃないけど。マリアにはなにがわかるらしい。
「もし、男女の恋人だったら、ここから情事が始まるのね」
マリアは艶めいた瞳をして、マリーの濡れ鴉色の髪を一房掬う。
「……マリアみたいな美人が男性だったら強いし、美人だし、私、もう恋に落ちてるかも。あ、でもその前に抱き潰されているかも」
「いやだ、もう、マリーったら」
マリアは頬を赤らめるが、本当に物理的にその胸に潰されそうになったのだから、嘘じゃない。
フレッドなら抱き潰されたいと思うかもしれないが、マリーはごめんだ。
この前だって、フレッドが「マリアちゃんは胸だけじゃなくて、頭から爪の先までいやらしい感じがするね。怒らないでよ。……いい身体してるって、褒めているんだよ」とマリアにちょっかいをかけて肋骨を折られていたのだ。
「あはは、は」
とりあえず、マリーは適当にやり過ごした。
彼女を怒らせてはいけない。
フレッドみたいに「マリアちゃんを思い出すたび、肋骨が甘く疼くよ」と、肋骨折られてよろこぶ変態でもない。身体が大切だ。
「あ、そうだ。マリア、この前新しい服の裾上げして置いたよ」
マリアは比較的暇なマリーとは違い多忙だ。
新しい修道服が届いた日もおらず代わりにマリーが受け取り、サイズ直しをしたのだった。
「寝不足だと思うし、疲れているでしょう? この前入浴剤みたいなもの作ってみたんだけど、よかったらどうぞ」
「ありがとう、マリー。私、針仕事苦手だから助かるわ。入浴剤、あら、ラベンダー入りじゃない、いい香り!」
マリアは涙目になる。
切なげな顔も美しい。やっぱり、美女はどんな表情も絵になぁ、とマリーは感心した。
「こんな私に親切にしてくれるのはマリーぐらいよ。私のママか……そのもしよかったら、嫁になってほしいわ、結婚しない? 別の国では同性も認められるって聞いたわ」
「あ、そうなんだー」
またマリアの悪い冗談がはじまった。
最近、マリアはその手の冗談が多いのだ。
マリーは、マリアのことは親友だと思っているけど、いくら美人でも性の対象ではない。
「私、生まれが娼館でしょう? こんな汚れた私でも優しくしてくれるマリーが大好きなの。愛してるのよ。……男はこりごり」
マリアは娼館生まれで不当な人身売買にあっていたのを修道女に助けられた過去がある。
今は出世頭で修道女の憧れであるが、昔は生まれが娼館というだけで、後ろ指指される思いもしたのだろう。
「私、こう見えて割りのいい仕事ばかり選んでたから貯金もたくさんあるのよ。宣教師の資格もあるし、田舎の教会買って一緒に暮らさない?」
「長閑な暮らしもいいねー」
「マリーを養うくらい甲斐性はあるわよ? もう、修道院にはじゅうぶん恩は返したと思うの。その、……夜の方も……私たち息も合うし絶対相性いいと思うの」
マリーが純粋に親友だと思っているマリアは頬を赤らめ、なぜが恍惚とした表情だ。
マリーは疑問に思う。
夜に女同士で何をするのだろう?、と。
「考えておくね」
「あ? 本気にしてないでしょー。そうやってうまくあしらうところも、好きなんだけどぉ」
マリーはマリアに悪戯っぽく鼻を指でツンツンされた。
マリアは美人なのに、驕ることなく、いつも冗談ばっかりで笑わせてくれて明るい完璧な親友だった。
修道女としてぱっとしないマリーこそ、マリアに同期として声をかけてくれるし、救われていた。
「ふふ、ありがとう。田舎の教会って素敵だねぇ」
「でしょう? 少し改造してカフェでも開かない? マリー、そういうの好きでしょう?」
田舎暮らしにカフェ。
今流行りのスローライフだ。
「修道院いても、朝から晩までタダ同然に働かされて、若いうちはいいけど、そのうち体壊すわよ」
マリアの言っていることは一理ある。
雑用は案外重労働が多い。
家事、奉仕、畑仕事、老いた修道士の世話……いつまでも出来る仕事ではなかった。
「いつか、マリアとそんな暮らしするの、楽しみにしているね」
「約束よ?」
マリアは出来の悪い同期のマリーを心から心配しているのだ。
だからといって、マリアのお世話になるのも悪い。
お世話になった修道院にもまだあまり奉仕もしていない。
「ああ、そういえば、伝言頼まれていたの忘れるところだった。……いつまでもマリーと甘い時を過ごして居たいんだけど……」
「ん? なに?」
「神様が呼んでたわよ」
「え、私を?」
神様、とはこの修道院を治める者ーーかつ、ほんとうの神様だ。
ローズライン王国は代々泉の神を崇拝している。
各地に泉があるのはその信仰の表れだ。
泉の神は過去何度も他国の侵攻を加護により防いだらしい。
今も国境付近で修道女と共に祈りを捧げ、結界をはり、国を守っている。
「こんな時間から何のようかしら?」
「さぁ。内容まで聞かなかったけど。さっき報告を終えたらすぐ、マリー連れてきてって言われたの」
(朝一、といえば急な案件かしら)
「これは重要な任務のにおいがしない?」
「どうかなぁ?」
今までのマリーの任務は割と誰にでも出来る慈善事業からすこし危険な悪魔払い程度だった。
だから、今まで朝一番に呼び出される急なことはなかったのだ。
思い人の王子から逃げるように王城を後にした修道女は、すべての痕跡を消し去り、思い出だけを大切に抱きしめて日常に戻って行った。
そして、彼女は人知れずに、部屋の窓辺に硝子の靴を薔薇を添えて飾って、時々甘い余韻に浸っていた。
そう。彼女は、今でも彼が忘れられないのだ。
愛しい王子からもらった硝子の靴は、修道女の質素な部屋をひっそりと華やかにしていた。
彼女は、王子の突き刺さるような鋭利な視線や、素直じゃない口調の中に潜めた優しさ、息を呑むような端正な横顔が大好きだった。
思い返せば、彼女たちが出会った日は雨混じりの雪が降る春の日だった。
それも酷い天気で、空が大泣きしているような、悲しい色をしていた。
外の様子と裏腹に彼女たちの時間には冷たさはなく、いつも生暖かく、静かで、ゆっくりと時が流れていた。
彼女は、最近切実に感じる事がある。
人は皆、自分のすべてを受け止めてくれるそんな存在を誰もが探しているんじゃないか、と。
そして、時には背中を押してくれて、明日への希望を抱かせてくれる人に出会えたら幸せなのだろう。
人生は幸せなことが一握りで、大半は辛いことや悲しいことで覆い尽くされているから。
彼女は思う。
現実、御伽噺の王子様は迎えにきてはくれない。
もし、迎えに来てくれたら余程の幸運か、甘い夢にちがいないのだ、と。
愛しくても切なくても、声が聞きたくて叫びたくて、あの人のもとへ足が向いても、城の城壁のような高い身分差は超えられない。立場は変わらない。
甘やかされてグダグタになるまで堕ちることも、指先を絡めることも、吐息が聞こえるくらいの距離にいることも、二度とない。
蕩けてしまうような微笑みも、息遣いも、手に入れることなんてできないのだ。
それでも幸せなのだ、そう、幸せ。
そして修道女である彼女は今宵もあの日々を思い出した。
氷華殿下と過ごした時間を。
時はずっとずっと前に遡る。
************
修道士の朝は早い。いや、早すぎる。
月が闇を照らす真夜中、世間が寝静まっているーー時刻は午前三時。
昨日は寝るのが十一時で、夜更かしし過ぎたため、マリーは目を擦りながらなんとかベッドから起き上がった。
「なんか頭痛い。寝不足かなぁ」
マリーはおもむろにネグリジェを脱ぎ、修道服に着替えた。
そして、簡素な机に置いた鏡の前で、瓶に用意していた水を洗面器に入れ、丁寧に顔を洗った。
部屋にはベッドと簡素な机、最低限の衣類と画材道具をしまうタンスだけだった。
(あ……)
マリーは鏡に映る自分の顔をまじまじと見た。
口元や頬に昨日描いた絵に用いた絵の具がついていた。
(間抜け面だわ。落書きされたみたいにヒゲある……。また、無意識に絵の具の手で顔触っちゃたのかな。夢中で全然気がつかなかった)
マリーは少し抜けているところがあったから、顔に絵の具がついていることもしばしば。
だから今日も通常運転だった。朝のうちに気づいてよかった、とほっとした。
マリーは布で顔についた絵の具をごしごし落とした。
ちなみに、昨日は副業の本の挿絵を書いたあと、コンクールに向けた絵画に色付けを行っていた。
今年は入賞できるかなぁ、なんて考えながら。
今回もマリーは修道院に従事する者たちを描いた。
日々の生活を色鮮やかに、見たまま、生き生きと描いたつもりだ。
前回は入賞一歩手前で、官能的な美人画に負けてしまったから、今回は修道院のテーマは変わらないものの、色鮮やかに人々の生き生きした様子を描き、人目を惹きつける作戦だった。
(といっても、敵ながらあの美人画はすごかったなぁ。すごい色っぽくて。艶かしさが半端なかった。きっと、作者は経験豊富? なんだろうなぁ。画家は情熱的な方が多いというし、この前も新聞にとある画家が腹上死したとか書いてあったっけ……私にはないな、絶対。そもそも腹上死ってどんな無茶したらするんだろう? っていうか死ぬほど無茶するってどうやるの? 戦うの?)
修道女で清い身であるマリーは息も出来ぬほど激しい情事を知らない。身を焦がすほどの恋も知らない。もちろん、本で読むくらいの知識ぐらいはあるが、知識と実際は違うので、それを知らないというのだろう。
マリーはいつものように、髪を一つに結い上げる。
後毛1本出ないように。
(私はそんな経験ないし、修道院しか知らないからなぁ。知らないものは書けないし、想像力もないし、相手もいないし。恋でもすれば変わるんだろうけど。まぁ、私が知っていることを伝えることはできるよね)
マリーの身支度は早い。化粧はせず、軽く化粧水だけ塗って終わりだ。化粧水は友人が王都のお土産でくれた薔薇の化粧水だった。
マリーが所持している唯一の化粧品だ。
修道院しか書けないマリーであったが、最近は官能小説の挿絵の仕事が報酬いいし、やってみたいという気持ちもあった。
しかし、マリーにはその手の経験が絶望的にない。
恐る恐る官能小説というものを読んでみたが、
『んっ……あ』『あああっ、やめ、んっ……!』『そ、そこは……だめぇぇ』『あああああああ』
とか、よく分からない戦闘の様子が描かれており、理解に苦しんだ。
『そこ』ってどこだ、痒いのか?くすぐったいのか、痛いのか?
とにかく、叫ぶくらいだし、男女とも苦しそうだ。もがいて拒否したり、『あなたを食べたい』などと狂気的な台詞、体液?血混じりの残酷描写は、地獄絵図みたいで、男女の戦いも恐ろしいものだと知った。
好きなのに憎い、苦しいのに気持ちいい、忘れたいのに忘れてほしくない。
愛は奥深い。
それを、理解できないのは当たり前だ。
だって、恋したことなんてないんだもん。
絵ばかり書いている、地味で真面目で色気のない修道女に一時の恋人すらできるわけもなかった。
一生、恋することなんてない。事故のように突然出くわす事がない限りは。
だいたい、今まで男性修道士も含めて、顔がいくら良くても、ドキドキしたことはないのだ。
マリーは造形が美しいと思っても、とびっきりの美人なら綺麗で感動することはあっても、男性は無理だった。
その原因に心当たりはある。
マリーは13歳まで伯爵令嬢をしていたのだが、その時の婚約者(当時13歳)に言われた一言が23歳になった今でも忘れられないのだ。
「お前が婚約者なんて、ツイてないわー。結婚とかつらっ」
今思い返せば、相手の男に悪気はなかったのかもしれない。思春期だったし、偉ぶりたい年頃だったし、もしかしたら好きな子がいて、親が決めた結婚が嫌だったのかも。
まぁ、誰だって聡明な美人と結婚したいだろうし。
マリーのような地味で色気のない、特技もないどこか抜けている女は、結婚相手に希望しないだろう。
能天気でフレンドリーで抜けた地味女は友達になることはあっても恋愛対象にはならない。
しかも、修道女で、なお恋愛に対するハードルが高いのだ。
でも、そんなマリーも経験として、死ぬまでに一度くらいはドキドキして、甘く胸が痛むような恋をしてみたかった。
(修道女は結婚はできないけど、恋愛くらいは死ぬまでに一回してみたいなぁ。あ、でも、恋愛にも相手がいるよね。私を好きになる人なんていないよなぁ)
神の使いである修道女に手を出すことは、罰せられなくとも背徳である。
相手がそこまでマリーを好きになる意味がわからなかった。
マリーが絶世の美女なら、有りうるかもしれないけど。
だから、マリーはたまに時間のあるときに、純愛小説を読む時間だけでじゅうぶん幸せだった。そんな素敵な小説の挿絵の仕事も好きだった。
ちなみに今日は新入りの修道士たちに建物の案内と雑務を教える役割を担っていた。
一応、教える側として見かけはしっかりしなければならない。
手本となるために甘美にはならず、清潔感を意識して挑まなくてはならない。
マリーはこう見えても年齢的には後輩の教育も任される年になっていた。
修道院の年齢層は、下は修道院附属学校に通う十歳から上は七十代までいる。
炊事、洗濯、畑仕事など簡単な雑務くらいなら、マリーはベテランの域だった。
世話好きなマリーは後輩たちにも、修道院のお手伝いにくる一般市民にも、業者にも好かれていたし、なんら修道院の暮らしに不自由を感じたことがなかった。
修道院は魔法関連の悪魔退治などが花形の仕事であるが、マリーは残念ながら魔法関連はパッとせず、どんどん後輩に抜かれたり、同期が出世したりしている。
しかし、マリーは嫉妬や妬みがなく、普通だったら苦しむ状況ではあるが、かなりあっさりしている性格だったため、穏やかに暮らしていた。
時に嫌みを言ってくる人もいたが、そういう時は言われたことを思い返し、直せるところを直して、あまり深く考えないようにしていた。
できないことはできないし、仕方ない。
恨んだり、羨んだりしても、みじめになり、いい方向には向かわないのだ。
適度な諦めは人生において必要。
そう、マリーは達観していた。
魔法が出来ないのは言われて当然、それでも挨拶したら返してくれるし、なんだかんだ困って居たら助けてくれる修道院関係者たちは優しい。
令嬢だった頃より生きやすい温かい世界なのだ。質素で贅沢出来ず、時間にも厳しいけど、ここは住みよいところだった。
ただ、修道女として一人前に任務がこなせないとしても、修道院に恩があり、自分に何ができるか考えた結果ーー家事ベテランになったのだった。
魔法はイマイチ、だけど雑務はすすんでやる。
入賞するほどではないが、マリーは修道院では絵がうまいと評判であり、たまに挿絵の副業もしたりしている。
趣味といってもいいだろう。
もし、コンクールで入賞できたら、いつもボランティアで教科を教えている低所得者向けの学校に寄付し、校舎改築に回す予定だ。
今日もマリーの一日が始まる。
ありふれた修道女の一日が。
マリーの支度が出来たころ、トントンとドアをノックされた。
「おっはーよん。マリー」
朝からテンションの高いのは化粧水をくれた友達ーー同僚のマリアだ。
栗毛にエメラルドの瞳。美人だ。
マリアは実年齢より大人っぽく見える優美な修道女だ。あとひとつ特徴をあげるなら巨乳だ。歩く度、たわわん、と揺れるほどの。
色っぽい。しかも、いい香りがする。
シトラス系の美人からする香りだ。
「久しぶり、マリア。帰ってきていたの?」
マリーの二人いる同期の一人であるマリアは先日まで極秘の仕事をしていたらしい。
「さっき帰ってきたばかりなの」
修道女にはたくさんの仕事がある。
布教や国境の結界の祈り、領地の作物の管理、魔法関連の依頼ーー多岐に渡る。
中でもマリアは若者の部類に入るが、なかなか仕事の出来ると評判のため、時々口外禁止の特殊任務に着く。
「ああ、そういえば、フレッドも戻ってきたみたいよ。まだ会ってないけど。一生会いたくないけど」
マリアが吐き捨てるように言った。
フレッドという愛称で呼ばれているアルフレッドはその同期のうちのもう一人だ。
修道院一の仕事ができるフレッドと、同じく出世頭のマリアとマリーは同期であり、苦楽を共にした3人は休日は一緒に食事をするくらい仲が良かった。
「フレッドなんてどうでもいいわ! やっぱ帰ってきたら、まずは癒しのマリーの顔見なきゃ、ね?」
マリアはぎゅーっと豊満な胸の中に閉じ込めるように、マリーを抱きしめた。
柔らかくて気持ちいいと思うのは一瞬で、全く息が出来ず苦しい。
ああ、これなら腹上死しそうかもしれない。
これがよく言う、幸福な死に方だろうか。
「あ、ごめん、マリー。胸の中に閉じ込めて息の根を止めるところだったわ」
「ん、うん、なんとかだいじょうぶ」
不足しがちな空気をゆっくり吸い込む。
マリアはなかなか怪力だ。
多分、下手な男よりは力があると思う。
ちなみに、素手で壁に穴を開けることが特技。
怖いし怒らせてはいけない。命がない。
「相変わらず立派な物をお持ちで……ごほごほ」
「あ、触りたい? また触らせてあげようか?」
マリーはマリアの胸を酔っ払った勢いで触ったことがある。絵のために質感を確認したくて、勢いでお願いしたら『どうぞ、やさしくね』と快く触らせてくれたのだ。
それは、ふにゃふにゃ。ふわふわ。ぶるるん、を合わせた感触で、やみつきになる質感だった。
こりゃ、もてる。
マリーは同性ながら感動したものだ。
どちらかというと、マリーもそんなに小ぶりではないが、美人画の聖女や女神といえば溢れんばかりの巨乳と相場は決まっている。
よって、マリアはモデルに最適だった。
「もんでもいいよ。触るだけなら物足りないでしょう?」
「マリア? 酔ってる? 疲れすぎてるんじゃない。テンション深夜モードだよ」
「あはは、そうかな? まぁ、またいつでもそーゆー気持ちになったら言って?」
いや、絵のためだったんだけど、とマリーは思った。
「照れないでいいから、わかるから」
照れてるわけじゃないけど。マリアにはなにがわかるらしい。
「もし、男女の恋人だったら、ここから情事が始まるのね」
マリアは艶めいた瞳をして、マリーの濡れ鴉色の髪を一房掬う。
「……マリアみたいな美人が男性だったら強いし、美人だし、私、もう恋に落ちてるかも。あ、でもその前に抱き潰されているかも」
「いやだ、もう、マリーったら」
マリアは頬を赤らめるが、本当に物理的にその胸に潰されそうになったのだから、嘘じゃない。
フレッドなら抱き潰されたいと思うかもしれないが、マリーはごめんだ。
この前だって、フレッドが「マリアちゃんは胸だけじゃなくて、頭から爪の先までいやらしい感じがするね。怒らないでよ。……いい身体してるって、褒めているんだよ」とマリアにちょっかいをかけて肋骨を折られていたのだ。
「あはは、は」
とりあえず、マリーは適当にやり過ごした。
彼女を怒らせてはいけない。
フレッドみたいに「マリアちゃんを思い出すたび、肋骨が甘く疼くよ」と、肋骨折られてよろこぶ変態でもない。身体が大切だ。
「あ、そうだ。マリア、この前新しい服の裾上げして置いたよ」
マリアは比較的暇なマリーとは違い多忙だ。
新しい修道服が届いた日もおらず代わりにマリーが受け取り、サイズ直しをしたのだった。
「寝不足だと思うし、疲れているでしょう? この前入浴剤みたいなもの作ってみたんだけど、よかったらどうぞ」
「ありがとう、マリー。私、針仕事苦手だから助かるわ。入浴剤、あら、ラベンダー入りじゃない、いい香り!」
マリアは涙目になる。
切なげな顔も美しい。やっぱり、美女はどんな表情も絵になぁ、とマリーは感心した。
「こんな私に親切にしてくれるのはマリーぐらいよ。私のママか……そのもしよかったら、嫁になってほしいわ、結婚しない? 別の国では同性も認められるって聞いたわ」
「あ、そうなんだー」
またマリアの悪い冗談がはじまった。
最近、マリアはその手の冗談が多いのだ。
マリーは、マリアのことは親友だと思っているけど、いくら美人でも性の対象ではない。
「私、生まれが娼館でしょう? こんな汚れた私でも優しくしてくれるマリーが大好きなの。愛してるのよ。……男はこりごり」
マリアは娼館生まれで不当な人身売買にあっていたのを修道女に助けられた過去がある。
今は出世頭で修道女の憧れであるが、昔は生まれが娼館というだけで、後ろ指指される思いもしたのだろう。
「私、こう見えて割りのいい仕事ばかり選んでたから貯金もたくさんあるのよ。宣教師の資格もあるし、田舎の教会買って一緒に暮らさない?」
「長閑な暮らしもいいねー」
「マリーを養うくらい甲斐性はあるわよ? もう、修道院にはじゅうぶん恩は返したと思うの。その、……夜の方も……私たち息も合うし絶対相性いいと思うの」
マリーが純粋に親友だと思っているマリアは頬を赤らめ、なぜが恍惚とした表情だ。
マリーは疑問に思う。
夜に女同士で何をするのだろう?、と。
「考えておくね」
「あ? 本気にしてないでしょー。そうやってうまくあしらうところも、好きなんだけどぉ」
マリーはマリアに悪戯っぽく鼻を指でツンツンされた。
マリアは美人なのに、驕ることなく、いつも冗談ばっかりで笑わせてくれて明るい完璧な親友だった。
修道女としてぱっとしないマリーこそ、マリアに同期として声をかけてくれるし、救われていた。
「ふふ、ありがとう。田舎の教会って素敵だねぇ」
「でしょう? 少し改造してカフェでも開かない? マリー、そういうの好きでしょう?」
田舎暮らしにカフェ。
今流行りのスローライフだ。
「修道院いても、朝から晩までタダ同然に働かされて、若いうちはいいけど、そのうち体壊すわよ」
マリアの言っていることは一理ある。
雑用は案外重労働が多い。
家事、奉仕、畑仕事、老いた修道士の世話……いつまでも出来る仕事ではなかった。
「いつか、マリアとそんな暮らしするの、楽しみにしているね」
「約束よ?」
マリアは出来の悪い同期のマリーを心から心配しているのだ。
だからといって、マリアのお世話になるのも悪い。
お世話になった修道院にもまだあまり奉仕もしていない。
「ああ、そういえば、伝言頼まれていたの忘れるところだった。……いつまでもマリーと甘い時を過ごして居たいんだけど……」
「ん? なに?」
「神様が呼んでたわよ」
「え、私を?」
神様、とはこの修道院を治める者ーーかつ、ほんとうの神様だ。
ローズライン王国は代々泉の神を崇拝している。
各地に泉があるのはその信仰の表れだ。
泉の神は過去何度も他国の侵攻を加護により防いだらしい。
今も国境付近で修道女と共に祈りを捧げ、結界をはり、国を守っている。
「こんな時間から何のようかしら?」
「さぁ。内容まで聞かなかったけど。さっき報告を終えたらすぐ、マリー連れてきてって言われたの」
(朝一、といえば急な案件かしら)
「これは重要な任務のにおいがしない?」
「どうかなぁ?」
今までのマリーの任務は割と誰にでも出来る慈善事業からすこし危険な悪魔払い程度だった。
だから、今まで朝一番に呼び出される急なことはなかったのだ。
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