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Episode1

はらぺこ淫魔、恋をする。-3

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 赤くなった顔を隠すためにディナンから背を向け、作業台の後ろの薬棚に並べてある薬をいくつか見繕う。手に取ったのはこの前アンジーに渡した解熱薬と、胃薬、それからリオンが初めて独力で作った鎮痛薬だ。薄い紙を敷いた小さな皿に粉末状のそれらを乗せてディナンの前に置く。

「……えっと、右から解熱薬、胃薬、鎮痛薬です」
「これは実際に飲むときもこの量を?」
「はい。これが一回分で、水に溶かして飲む方が多いみたいです」
「この薬は苦くないの?」

 ディナンが不思議そうに目を瞬かせた。それに、いいえ、と神妙に首を横に振る。

「小さい子供が飲んだら泣き出すくらい苦いです」

 水に溶かして飲むと口いっぱいにその苦味が広がるから、とにかく最悪の一言に尽きる。作っているリオンですら怯むくらいだから幼い子供にとっては悪夢そのものだろう。かくいうリオンも幼い頃は泣いて拒否していたくちだ。リオンの話に、そうだろうねえ、とディナンが笑う。

「甘いお菓子に包むことも考えたんですけど、薬の効果が変わったりしちゃってなかなか上手くいかなくて」

 子供が薬を飲むのを嫌がって……、なんていうのは子供を持つ親からよくされる相談の一つだ。リオンも覚えがあるから色々試行錯誤しているのだが、これが本当に難しかった。薬の調合はなかなか繊細なのである。

「私は苦い薬、嫌いじゃないのだけど」

 その方がよく効きそうでしょう? とディナン。分かります、とリオンは頷いた。
 薬を眺めていたディナンが、不思議そうな顔をしながら口を開いた。

「鎮痛薬だけ色が違うね」

 ディナンの言うように鎮痛薬だけはうっすらと緑がかった色をしている。もっとも些細な違いでしかなく他の薬とほとんど変わらないから、よくよく見なければ色の違いなんてわからない。リオンはこっそり目を見開いた。冷やかしでもなんでもなく、本当に興味があってこの店に来たと分かったからだ。

「それは原材料にその、動物の肝臓を使ってるんです」
「へえ……なんの動物かは聞いても?」
「えっと、それは……」

 リオンはうろ、と視線を彷徨わせた。薬師の生命線と言っても過言ではない薬のレシピは、基本的に門外不出、交流のある薬師同士でも共有されないものだ。
 けれど、リオンが言い淀んだのはレシピを教えたくなかったからではなかった。言い淀んだのは、教えてもいいかなと一瞬でも思ったからだ。褒められたいと、思ってしまった。そう思った自分にまた動揺して、言葉が継げなくなる。
 掴むものなんてないのに、無意識のうちに胸の位置まで持ち上げていた手が空を切った。

「ごめんね、困らせてしまった」
「いやっ違うんです……」

 自分の気持ちなのに上手に言葉にできないことがもどかしくて、へにょりと眉が下がる。きっと今の僕はすごく情けない顔をしているんだろう。

「そんなに泣きそうな顔をしないで、リオン。君が教えなくたって私は怒らないよ」

 ディナンは小さく肩を竦めながら、そもそも薬師はレシピを滅多に教えないものでしょう、と続けた。知ってて聞いたのか、と言う気持ちと、やっぱ教えてもよかったんじゃないかと思う気持ちがせめぎ合う。本当に、今日の僕はどうしたんだろう。
 何か言わなきゃいけないのは分かっていたが、何も言えなくて結局目を伏せた。居心地の悪い沈黙の中、ディナンがリオンの名前を呼んだ。つられるようにして顔を上げる。

「この三つを買い取りたいのだけど、いくらだろう?」
「は、はい。えっと、そこに出ている分だと……」

 近くに置いてある料金表を手に取って計算する。出した薬は全て一回分の量だから計算も簡単だった。

「全部で千百リラになります」 
「…………」

 ディナンの眉間にぎゅっと皺がよった。初めて見る顔に途端に不安になる。

「ディナン様……?」

 何か粗相でもしてしまっただろうかとおろおろするリオンをよそに、ディナンは口元を触りながら難しい顔でじっと考え込んでいる。その何でもない仕草でさえドキッとするほど色っぽくて、リオンは慌てて目を逸らした。
 ディナンの様子をチラチラと伺いながら、もう一度声をかけるべきか迷っていると、ディナンが信じられない、という声音で言った。

「……一つ千百リラじゃなくて?」

 ディナンの声につられて顔を上げたリオンは、男の言葉に小さく首を傾げた。

「? 全部で千百リラです。あ! 解熱薬が四百五十リラ、胃薬が五百リラ、鎮痛薬が百五十リラになってます」
「君のことを疑っているわけじゃないよ」

 ディナンが間髪入れずに言った。ならどういうことだろう。リオンは訳がわからず首を捻った。

「一週間分出しますか……?」
「それでも七千七百リラだ」
「そうですね……?」

 渋い顔をするディナンを眺めながら、とりあえず頷いておく。きゅっと口元を真一文に結んだディナンは何かを考えるように視線をリオンの背後へやった。しばらくその様子をじっと見つめていると、男は意を決したようにリオンの目を真っ直ぐ見据えた。

「安すぎやしないかい?」

 ああ、そういうことか。
 ディナンの言葉でようやく得心がいったリオンは小さく頷いた。
 彼は貴族だから、きっと普段は魔法薬を服用しているんだろう。
 魔法薬とは、作れる人間が限られているため、普通薬の十倍以上の値で取引されている貴重な薬のことだ。その値段に相応しく普通薬と比べ効き目も段違いなのだが本当に、とにかく、びっくりするほど高いのだ。だから貴族は魔法薬が作れる薬師を専属薬師として雇ったりしているのだがそれはともかく。
 ともあれ、魔法薬に慣れたディナンが安すぎると感じるのも無理はない。

「これは魔法薬じゃなくて普通薬なので、相場もこれくらいですよ」
「本当に?」

 実は鎮痛薬だけは相場よりかなり安いのだが、母の作る薬より遥かに質が劣るのでリオンの中では適正価格だった。一応、満足いくものができたらもう少し値上げしようとは思っている。
 もっともそこまで言う必要はないのでリオンは真面目な顔を作りながら頷いた。

「……そう、それならいいのだけど」
「はい」
「えっと、千百リラだっけ」

 渋々、という顔でディナンが懐から革袋を取り出した。ジャラ、と中の硬貨が擦れる音がする。見るからに中身がぎっしり詰まっているそれに、さすが貴族だなあ、まさか金貨じゃないよな、なんて思いながらぼんやり眺めていると、彼は取り出した皮袋をそのまま台の上にドンッ、と置いた。

「?」

 どうすれば良いか分からず置かれた革袋を凝視する。中から取れってこと? 
 恐る恐る中を見ると、驚くことに、本当に金貨だった。しかも見た限り金貨しか入ってない。庶民は一生に一度拝めるかどうか、というくらい貴重なそれを前に、ザッと血の気が引く音がした。お釣り、足りないかもしれない。というかそもそも金貨一枚って何リラ相当だっけ!?
 慌てて作業台の下に置いてある金庫の中の金を確認していると、ディナンが不思議そうな顔でどうしたの? と聞いてきた。

「あの、お釣りが足りないかもしれなくて」

 思ったよりも泣きそうな声が出た。情けなくて眉が下がる。

「うん? それ、全部リオンのだよ」

 にこにこと優しい顔をしてまたとんでもないことを言う。

「僕、千百リラって言いました」
「そうだね」
「いくらなんでも多すぎます!」

 金貨一枚でかなりの価値があるのだ。恐ろしくてとても確認できないが、ほぼ確実にこの革袋の中身の総額はリオンの年収を軽く越える。あまりの事態に目眩までしてきた。

「少ないよりいいでしょう?」
 そうかもしれないけど限度ってものがある。
 革袋をディナンに押し付けながらぶんぶんと頭を振っていると、押し付けられた当のディナンはそれじゃあ、と悪戯っ子のような顔をした。

「お願いがあるのだけど」
「はい」

 常識を越える額の大金を前にして判断能力が著しく低下していたリオンは、間髪入れずに頷いた。ぶんぶんと首を縦に振るリオンを、ディナンはへえ、と面白そうに笑った。獲物を狩る猫を想起させるようなその笑顔に、ピシリと体が固まる。ここにきてようやくまずい選択をしたのかもしれないと気づいたリオンが、あの、と口を開こうとするが、それより先にディナンが椅子から立ち上がった。彼はリオンよりずっと背が高いから、立ち上がれば当たり前に目線が交わらなくなる。口を開きかけたこともすっかり忘れて目を合わせるために目線を上に向けると、ディナンは嬉しそうに微笑んで、上から覆い被さるようにほんの少し腰を曲げた。ぐっと近づいた距離に心臓が跳ねる。

「薬のこと、私に教えてくれる?」
「えっ」

 突然の申し出に思わず手を引っ込めると、追いかけるようにしてディナンの長い指がリオンの手に絡みついた。触れられたところがやたらと熱くて革袋を落としそうになる。逃げ出したいのに、それと同じくらいその熱が惜しくて振り解けなかった。
 リオン、と名前を呼ばれ、半ば強制的にディナンと目が合わさる。その瞳の中に、驚いたように小さく口を開けて立ち尽くすリオンが居た。

「明日も来るから、待っててね、リオン」

 それは授業料ってことで。そう言いながら、ディナンはリオンの手を包み込むようにして革袋をしっかり握らせた。
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