最推しと結婚できました!

葉嶋ナノハ

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32 崖の上の約束(2)

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 あれはたぶん、高校二年の夏。今から七年ほど前のことだった。

 夕美は高校の寮から帰ってきて、実家で夏休みを過ごしていた。
 ロッジは夏と年末年始にアルバイトが入るので、夕美は簡単な手伝いだけで、あとは自由時間だ。

 宿題をし、SNSをチェックし、スマホで友人とメッセージを交わす。録画したアニメやドラマを楽しみ、そこで推しを見つけたりと、充実した夏休みを味わっていた。

「ここは涼しいし、思いっきりダラダラできて、夏休み最高~!」

 と、自室でひとりごとを言いながら、ベッドに寝転がる。

 窓の外は緑が生い茂り、遠くに美しい山々が広がっていた。ひっきりなしに届く鳥と蝉の声、吹いてくる涼しい風と緑の匂い。
 中学生の頃は不便な環境に不満を抱き、早くここを出たいと思っていた。しかし、離れてみれば居心地の良さがわかり、実家が好きだと心から思えるようになったのだ。

 そんなある日の夕方。
 いつも通り、夕美はロッジの周辺にいる客に声を掛けるために玄関を出た。夏の景色を楽しむ客が、夕飯時に間に合あうようにするのが夕美の役目だ。

 ひぐらしが鳴く木々の間を歩いて行くと、こちらに背を向けてロッジから遠ざかっていく男性が見えた。ロッジの前に山へ抜ける道はないので、この時間に周辺にいるのは客だけなのだ。

「もうすぐ、ご飯ですよ~!」

 夕美の声が聞こえないのか、男性は小道から外れたほうへ進んでいく。あたりは薄暗くなっており、そのまま行けば足場が危ない。
 男性の足取りはフラフラしているように見え、夕美は焦った。

「お客さん、そっちは崖になってるから危ないですよ! もうごはんです、戻ってくださーい!」

 男性のほうへ駆け寄りながら、声を掛ける。

「あ、ああ……すみません」

 ようやく足を止めた彼が、ゆっくり振り向いた。

 顔を伏せているのでわかりづらいが、長めの前髪にメガネを掛けている。たぶん、とても若い。大学生くらいかと思ったが、こんな場所でなぜか白いシャツにネクタイを締め、その上に山用のジャケットを羽織っていた。ズボンも普通の黒いスラックスだ。

「……うちのお客さん、ですよね?」

「……」

 問いかけたが返事はない。

「もう夕ご飯の時間になるので、ロッジに戻ってくださいね」

 そう声を掛けると、ようやく彼が口をひらいた。

「僕は、夕ご飯なしでお願いしてるので……」

「嘘です」

「う、嘘なんかじゃないですよ。夕飯あり、なしで選べるじゃないですか」

 彼が焦ったように返答するが、夕美は折れずに続ける。

「でも嘘です。私にはわかり――」

「君に、これあげるよ。もう必要ないんだ」

 夕美の言葉を待たずに、男性は手首に着けていた時計を外しながら言った。そしてその腕時計を夕美の前に差し出す。

 ひぐらしの鳴き声が止み、夜が迫っていることを教えた。

「……そんな高価そうなもの、いりません」

 時計には詳しくないが、見るからに高そうだった。

「そう。じゃあ、捨てといて」

 夕美の拒否に驚くでもなく、彼はこちらへ腕時計を差し出したまま、投げやりに言った。

「あなたが元気になったら、その時にもらいます」

 なぜそんなことを言ったのか、よくわからない。でも、そう言わなければ、男性がこの場から消えてしまいそうな気がした。

「……え?」

「だから、その時まで預かっていてください。楽しみにしていますね。……あっ、お客さん到着した!」

 ロッジに向かってきた車の音が届く。少し遅れて到着すると連絡が入っていた客だろう。

 夕美がそちらを向くと、彼も同じように顔を上げた。

「さぁ、戻りましょう。夕ご飯、後付けでも食べられるので、私が伝えておきます。お金が足りなければ、私のおごりで」

「い、いや……それは……」

 戸惑う彼の声と同時に車が停まり、客と思われる数人が出て来た。夕美はホッとしながら、彼にもう一度声をかける。
 
「ほら、早く行きましょう。ご飯を食べたら元気も出ますから」

「……ありがとう」

「え?」

「いや、なんでもないです……」

 俯いたまま、彼が小さな声で言った。

 その後のことはほとんど覚えていない。
 今までロッジで事件性のあることは起きていないので、男性もその後は普通に過ごしたのだろう。

 人生経験の乏しい夕美は、男性が何をしようとしていたのか、その場ではあまり理解できていなかった。しかし大人になった今はわかる。
 彼は自死しようとしていたのだ。

(そしてその彼は……隣人の男性に似てる。だから私、彼をどこかで見たことがあるような気がしていたんだ……)

 その後、崖の上で出会った男性がロッジに来た記憶はない。
 ただ、七年も前の話だ。男性の容貌も、交わした会話も、曖昧なものであり、彼が隣人と同一人物かは特定できない。
 今の時点では、そんな偶然があることに確信も持てなかった。
 
「夕美、ごめん。心配させて。もう戻ろう」

 こちらに近づいてきた千影の声で、現実に引き戻される。

「あっ、うん」

 なぜ、今まで忘れていたのだろうか。
 毎年、年に二回はロッジに帰っているが、高校生活、大学受験、東京に出て大学生活、就職と、人生に関わるさまざまなことがあった。
 その間に、あの出来事は些末なこととして記憶の片隅に追いやられ、目の前の日常に隠されてしまったのだろう。

 ではなぜ今、思い出したのか。
 最近、隣人のことで思いを煩わせていたから、というのもなんだかしっくりこない。

「……何か思い出したの?」

「え?」

 まるで夕美の心を見透かしたような千影の言葉に、心臓がドキリとする。

「ここでいい思い出があったのかなって。何かに浸っていたような感じがしたから」

「う、ううん、特に何も。夕日が沈んじゃったね、帰ろう」

「……ああ」

 昔の思い出とはいえ、自死しようとしていた客の話だ。たとえ千影が相手でも、慎んだ方がいいだろう。

 あたりは次第に薄暗くなっていき、静かで冷たい夜に覆われ始めた。群青色の空に月と星が輝いている。

 ふたりは冷たくなった手をつなぎ、オレンジ色の明かりが点いたロッジに戻った。
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