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40 素晴らしい趣味(2)
しおりを挟む「――夕美、ねえ」
遠くから、愛しい人の声が聞こえた。
「ねえ、夕美。風邪引いちゃうよ、起きて」
「ん、ん~……」
無理矢理まぶたを上げると、目の前にテーブルと手帳があった。この姿勢からして、いつの間にか突っ伏していたようだ。
「起きないと、お姫様抱っこしてベッドに連れて行っちゃうよ?」
「……え?」
優しい声で言われたところで、ハッと目が覚める。慌てて起き上がると、すぐそばに愛する彼がいた。
「ちっ、千影さ……、えっと私、寝ちゃってた……?」
「ただいま。起こしてごめんね。このまま寝ちゃうと、暖房点けてても風邪引くと思って……」
こちらを見つめながら申し訳なさそうに言った彼の視線が、ゆっくりと夕美の手元に移された。――夕美の大切な推し活に。
「ちっ、違うの、これは……っ!」
慌てて否定するも、しきれない。
テーブルの上には、神原社長シールを貼った推し活手帳、自作の神原社長ぬいぐるみ、「神原社長♡」「こっち見て!」などと書かれた団扇、アクキーやアクスタなどが、テーブルいっぱいに広げられているのだから。
(ど、どうしよう。千影さんが帰ってきたことに全然気づかなかった。ワインを飲んでほろ酔いで、お風呂に入って気持ち良く疲れて、いつの間にか……)
自分のうかつさに呆れるどころじゃ済まされないほどの嫌悪感が湧き、血の気が引いていく。今すぐにここから逃げ出したくなる衝動に駆られた。
「これは、その、あのっ、ごめんなさいっ!!」
震える声を出しながら夕美は頭を下げる。いや、こんなんじゃ足りない。土下座して床に頭をこすりつけて――。
「どうして謝るのさ?」
不思議そうに尋ねる千影の声が届き、夕美は混乱する。
「え……?」
「ほら、顔を上げて。夕美は何も気にしなくていいんだよ」
恐る恐る千影の顔を見ると、目が合った彼がニコッと笑った。その笑みが夕美の胸に刺さり、涙ぐんでしまう。
「だ、だってこんなことして、気持ち悪いでしょ? 私ずっと……、ずっと前から千影さんのこと、隠れてコソコソこうやって……っ」
千影に憧れていたことは話していたが、こんなことまでしているとは想像できなかっただろう。いや、普通はできない。
「嫌いになったよね? どうしよう……わ、私……本当にごめんなさ――」
「だからどうして謝るの? これって全部僕のことなんでしょ? 気持ち悪いなんて思うどころか、嬉しすぎるよ!」
千影はテーブルの上に並んだものを指さしながら、満面の笑みを見せた。
「へ……?」
「こういうのって、なんていうんだっけ?」
気の抜けた声を出す夕美に、千影はご機嫌な声で続ける。
「お、推し活……」
「そうそう、推し活だ。ということは、僕が夕美の『推し』ってことでいいんだね?」
ここまで来たら隠しても意味がない。
夕美は小さくうなずき、蚊の鳴くような声で返答をする。
「……うん。千影さんは……ずっと、私の推しでした」
「推し『でした』って、過去形なの?」
「う、ううん……! 今も千影さんは私の推しなの。だからこうして、我慢できなくて……」
「この活動が楽しいんだ?」
「すごく楽しい、です」
「じゃあそれでいいじゃないか。君の素晴らしい趣味を邪魔するわけにはいかない。だからこれからも、この部屋で思う存分楽しんで」
千影は笑いながら夕美に寄り添い、肩を優しく抱いた。
「い、いいの……?」
「もちろんだよ。あ、でも僕が呼びかけても応答がなければ、今みたいに部屋に入るよ。何かあったら心配だからね」
「それは、千影さんの言うとおりだから、そうして。でも……本当に、こんな私のこと、受け入れてくれるの……?」
「僕は何も困らない。むしろ喜んでいるくらいだ。もっと僕を推してよ」
「あ、ありがとう、千影さん……っ!」
夕美は感激のままに千影の胸へ飛び込み、泣き出してしまった。
「おっ、と。かわいいなぁ、夕美は」
「千影さん、千影さん……っ」
帰ってきたばかりでまだ着替えていなかったのだろう、彼はジャケットを脱いだスーツ姿だ。それだけ夕美を心配して部屋に入ってきたのかと思うと、また泣けてくる。
夕美は千影のワイシャツに顔を押しつけた。
彼がつけているフレグランスが夕美を包み、安心させてくれる。
「これからもずっと、僕のことだけを推してね?」
「うん! 私、一生千影さんだけを推していく!」
「うん、いい子だ」
満足げな声を出した千影が、夕美の頭を撫でる。まるで小さい子どもにするかのように、愛おしげに優しく。
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