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【第二部】魔王覚醒編
22)儀式
しおりを挟むクレイア子爵の屋敷、その地下にある儀式の間。本来は何かあった際の避難用シェルターの様な場所であったが、今は床一面に仄かに明滅を繰り返す魔法陣がぎっしりと書かれていた。
中央には、台座に縛り付けられたままのグレンが。水だけは飲ませて貰えているが、食べ物は一切与えられていない。排泄も、そのまま垂れ流しだ。
人間扱いをされていない。どうせ今から、グレンは人形にされるのだから。
念のために、とザトーが配置した監視のゴロツキも、ほとんどは寝こけているかサボっているばかりだ。素人が見たところで魔法陣の異常に気付くわけもない。まあ、結果として、一度もグレンが目を開けることはなかったが。
その魔法陣を前に、フィルガーは契約主であるモア・クレイアの到着を待つ。魔法陣の知識を与えたのはフィルガーだが、この床に書いたのは人間だ。そして、これから魔法陣を正式に起動して魔術を行使するのも、人間だ。
フィルガーは一切、手を出していない。それが悪魔のルールだから。度を越えて人間に危害を加えることは許されていない。そしてこの禁忌の魔術は、度を越えたものであった。
(しかし、望んだのは人間デス。望まれたから、ワタシは与えたダケ……)
ペストマスクの下、何もない黒の空間でフィルガーはひっそりと笑う。モアからは十分に報酬として魔力を貰っている。後は、メインディッシュの戦争をご馳走になるだけだ。
地下に降りてくる階段の方から言い争うような声が聞こえる。……ザトーとモアのようだ。モアは金切り声を上げ、ザトーは怒声を浴びせる。
その騒々しさに、フィルガーは少しばかり眉を潜めた。と言っても実際に眉があるわけでもなければ、外から見て表情が変わるわけでもない。気分の問題だ。
「いいから! 早くやれ! そうでないと――」
嫌がるモアの手を引きずって連れてきたザトーの言葉の後ろを、魔法陣に目を向けたままのフィルガーが飄々と攫って言う。
「そうでないと、貴女、死にますヨ?」
「……え?」
フィルガーの声は、薄暗い儀式の間に静かに、それでいて染み渡るように響いた。その染みは、モアの中に急速に暗い影を広げていく。
「は、何言ってんの、なんで王族の私が……」
「王族でも、戦争に負ければ死刑デス。まあ、貴女は顔が良いですから……もしかしたら、娼婦として高く外国に売れるかもしれませんガ」
「……うそ……」
怒鳴るだけのザトーと違い、フィルガーは淡々と話した。故に、モアもようやく、実にようやく、自分たちが危機的状況にあることを理解したのだ。
腕を掴んでいるザトーを振り返り、モアは声を張り上げる。
「何してるのよっ! 戦争に勝って私が女王になるんじゃなかったの!?」
「予定が変わったって言ってんだろこのバカ女が!」
「王族に向かってその口! ザトーなんて死刑よ! 死刑! 不敬だわ!」
そうして、また二人で口汚く罵り合いを始める。主人と執事……この二人の間には、何の信頼も情も無いのだ。ただ、お互いがお互いを利用していると思っているだけの、ある種の寄生関係にある。
「モア嬢。ワタシはどちらでも良いのですがネ。そこで騒いでいる暇があったら……」
正面を見据えたまま、フィルガーは淡々と発言する。しかし、その声には異様な重みが備わっており、あれだけ騒いでいたザトーもモアも同時に口を噤んだ。
「早く、アレを起動した方が良いと思いますヨ」
そうしてフィルガーがステッキの先で指すのは、魔法陣中央のグレンだ。その薄汚い姿を見て、モアは嫌悪感を露わにする。だが、フィルガーはそのモアに目もくれずに滔々と続けた。
「アレを起動して、そして迫りくる軍勢を全て燃やし尽くせば良いだけデス。戦争に勝てば、貴女は予定通り女王になル。ザトー君も、予定通りに……なんでしょうネ? おつきの人、デスカ?」
そこで初めてフィルガーは二人の方を振り返り、ことり、と首を傾げた。まるで、自分が面白いジョークでも言ったぞ、とでもアピールするかのように。
その異様さに、背筋が凍る想いをしたのはザトーだ。フィルガーの事を悪魔だとは知っている、だが……ここに来て、フィルガーが本当に『悪魔』であり、異質な存在であることに、初めて気づいた気分であった。
ザトーはフィルガーの事もモア諸共、利用しているつもりであった。ずっと、そうだと思っていた。
――利用されていたのは、自分たちだった?
それは理性や知識ではない。ただ、ザトーの直感がそう告げている。数多の戦場を駆け抜け、のらりくらりと生きてきたザトーの直感が。
「……そうよ、戦争は勝てばいいのよ」
ふらり、とモアが一歩踏み出す。儀式の手筈はすでに伝えてあった。ふわりと美しいスカートを広げてしゃがみこみ、魔法陣に両手を添える。
ザトーはその様子を見て、一瞬止めるべきかと悩んだ。さきほどまであんなにも、モアに早く儀式をやれと怒鳴っていたのに。
直感が、言っている。ここが分水嶺だ、と。生きるか死ぬかの境目が、今だ、と。
しかし、ザトーが迷っているその間に。モアはためらうことなく魔法陣に魔力を流し始めた。
「戦争は! 勝てばいいの! 勝てば私が女王になるのよ! この国の王城も! 美しい庭園も! 宝石も! ぜーんぶ私のもの!」
モアの目は将来を夢見る少女の様にきらめき、その輝きだけであれば美しいと言えるほどであった。
現実を知らない、無垢な少女の瞳はあまりにも輝かしく。誰よりも強欲で、自分が世界で一番偉い人間だと、選ばれし人間であると信じて疑わない純粋さは、真っ直ぐに全てを突き抜け。
「みんなみんな、私にひれ伏すのよ! 逆らうなら死刑が当然じゃない! 私が、世界で一番偉いんだから! 王族なのよ!」
輝く瞳に、ほんの一筋の狂気を宿し。モアは、儀式のために……一人の人間を、殺すために容赦なく魔力を注ぐ。
揺蕩うような明滅を繰り返していた魔法陣は一気にその輝きを増す。白かった光は、悍ましさを感じさせる赤く黒い光へと変わり。
「アハッ! 私の為に、生まれ変わりなさい!」
その言葉を鍵として、魔法陣上を走っていた魔力が、一度に中央のグレンへと向かっていった。
☆☆☆
「!?」
棍棒片手にスライムもどきと格闘を繰り広げていたグレンは、突如としてスライムもどきの動きが変わったことに目を丸くした。
それまで、緩慢に触手を伸ばす程度だったスライムもどきが、急にすべての体を縮ませて何やら変形している。
何が起きているのか全くわからないが、何かしら事態が進行したということだけは、今のグレンにもわかった。
『命』そのものとして、理性や知能、魔力を持たないグレンには、こういった事を打開するのは難しい。だからこそ、ずっと棍棒でスライムもどきを叩くだけの原始的な行動しかできなかった。
今は目の前で起きている現象に恐れをなし、棍棒を片手に大切な思い出を抱えるだけ抱えて、スライムもどきから離れた場所でじっと待つ。
……と、黒いスライムもどき達は。急速に触手を伸ばし、手当たり次第にグレンの思い出を食べ始めた。思わず、飛び出して行って触手を叩きたくなるが、それよりももっと恐ろしい事が起きそうな気がして、グレンは唇を噛み締めて耐えた。
さきほどと違い、スライムもどきは選り好みせずに嫌な思い出、苦しい思い出も容赦なく食べていく。
――明確に、自分を殺しに来ている。
その殺意に当てられたグレンは、棍棒を取り落とした。命の形を変えて作られた棍棒が、カツン、と床に当たって跳ねた後にさらさらと粉になって消えていく。グレンが、棍棒の形を維持できなくなったからだ。
形を維持するには、本人の才能以外に……精神力、生命力と言った根本的なエネルギーが必要だ。それは『魂』から発生する魔力とは違い、『命』そのものが内包している目に見えないエネルギーである。
そして、そのエネルギーを削るには。命に宿る、その人間の精神を揺さぶるのが一番早かった。
大切な思い出を両腕で抱きしめたグレンは尻もちをつき、ガクガクと全身を震わせる。それは恐怖によるものだ。目を零れんばかりに見開き、歯をガチガチと鳴らす。
そんなグレンの目の前に現れたのは――嫌な思い出からグレンが『嫌いな人間』を読みとって、形をコピーしたスライムもどき達だった。
グレンを豚小屋に押し込んだドラガド侯爵。グレンから家族を取り上げた王族。グレンを糞扱いし人権を踏みにじった王太子。晩餐の食事を床に落とし、グレンに啜らせた公爵。グレンを椅子に縛り付け、暴力を振るった城の人間。
「あ……ぁ……ぅ……」
普通の人間であれば、理性がそれらを拒絶する。あるいは、クッションとなり直接のダメージを軽減する。それらはもう死んだと言い聞かせ、自分にはもっと素敵な人たちがそばにいると言い聞かせ。
だが、今のグレンは『命』を剥き出しにしている。……つまり、何のクッションも無く、グレンのトラウマを直接抉ってきたのだ。
治った古傷を再びナイフで抉り、新しい傷にする。塞がった傷口をこじ開け、新しく血を噴出させる。スライムもどきがグレンにしたのは、そういうことだ。
「い、いやだ……いやだ……」
震えながらグレンは首を振り、後ずさる。精神空間はその『命』の大きさによって決まる。床もあれば天井もあり、壁もあるわけで。グレンは、その部屋の隅に追い詰められた。
思い出は食べられたら消えるはずなのに。グレンが苦しくて、嫌で、もう二度と思い出したくない、あの残酷な思い出の数々を、スライムもどきは。食べた後にわざわざ再構築して、グレンに押し付けてきたのだった。
代わりに、幸せな思い出も、楽しい思い出も全て奪われた。今、グレンの腕の中に残っているのは、辺境領で過ごした穏やかな日々の幸せと、ドーヴィとピクニックに行った時の、ささやかな幸せの思い出だけ。
それだけしか、もうグレンには残っていない。
ぽろ、と流れ出したグレンの涙は、徐々にその量を増やしていった。悲しいも苦しいも通り越して、グレンの精神は錯乱状態に近づいている。
「いや、いやっ! いやだぁっ! やめろっ! やめて、やめてっ!!」
何が嫌なのか、何をやめて欲しいのかもわからない。ただ、あの苦しい思い出たちを何度も何度も目の前で再生される苦痛に、グレンは泣き叫んで拒絶することしかできなかった。
顔をぐしゃぐしゃにしたグレンににじり寄る二人の影。顔はわからないが、その二人は騎士の格好をしていて。
「うっ、うううっ……いやだ……しにたくない……しぬ……」
スライムもどきが化けた騎士二人が、グレンの腕を両側から掴む。その感触に、グレンは酷く何かを刺激された。
『命』の外側にある、ドーヴィに作って貰った『疑似魂』が悲鳴を上げる。その思い出は、グレンの体に深く深く刻み込まれた――死の、思い出。
「いやだぁ……ドーヴィ、たすけて……ぼく……また、しぬの……いやだよ……」
――しぬのはいやだ。こわいし、つらいし、さむいし、いたいし。
騎士二人が、グレンを無理矢理に立たせる。グレンの両腕から、大切に抱えていた思い出がころりと落ちて行った。
知っている、この後、何をされるのか、グレンは知らないけれども、命も、魂も、体も、知っている。
この後、どんなに苦しい事が待っているか、知っている。
「いやだ……やだ……やだ……」
抵抗したいのに、体が動かない。苦しい、嫌な思い出の数々で存分に甚振られたグレンの『命』はその活動エネルギーを急速に減らしてしまっていた。それが、スライムもどきの狙い。
「どーゔぃ……どこにいるの……」
ぼたぼたと落ちる涙は、グレンの足元に転がった大切な思い出に落ちていく。
それは、一つの奇跡だったのかもしれない。あるいは、グレンに残されたわずかな、最後の力がそうさせたのか。
大切な思い出の一つが、強く発光し一瞬だけ、スライムもどきを打ち払った。騎士二人の形をしたスライムもどきがグレンから手を離す。
力なくその場に座り込んだグレンを、その思い出が。グレンの涙を吸収した思い出の一つが、包み込んだ。
「……? どーゔぃが、いる……?」
虚ろな目で宙を見たグレンの前には。いつもグレンを優しく抱きしめ、守り……背中を支えてくれる、大切な人がいた。あの、ドーヴィとのピクニックの思い出だ。
ドーヴィがいるから、グレンは立っていられる。ドーヴィがいるから、グレンは歩き出せるし、走り出せる。
「ぼくは――」
ぐす、と鼻を鳴らしたグレン。
だが。
すでにグレンの大部分を吸収したスライムもどきは、巨大化しており。業を煮やしたのか、その思い出に包まれたグレンを丸ごと、一気に覆い尽くした。
「うわぁっ!」
外部から魔力の供給を受けたスライムもどきにとって、弱体化したグレンの『命』を乗っ取るなど造作もないこと。余計な反抗をするなら、精神空間全てを、自分で満たしてしまえば良い。
スライムもどき、改め――グレンの新たな人格は、そう考えたのだった。
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