少年人魚の海の空

藍栖 萌菜香

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61-少年人魚の約束をもう一度

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 里の入り口へと向かう途中、おばあさまに言われた通り何度もキングに声をかけた。

 なのに、キングは全然目を開けない。

 人魚の里の入り口はひどく狭いけど、手間取ってる時間はない。キングの背中にあった荷物とキングの身体とを両手に抱え直して、尻尾が傷つくのも構わずにガンガン進んだ。

 入り口を抜けてすぐ、海上に向けて進路をとる。
 急いで上昇したいのを堪えながら、少しずつ……名前を呼びながら、ゆっくりと……。

 それでも、キングは目を開けない。


「お願いだよ、キング……目を開けて……僕を見て……」

 もし……キングがこのまま死んじゃったら……。
 もう二度と、あの青い瞳も、素敵な声も、かわいい笑顔も、やさしい手も……すべてがこの世からなくなるのか……。

 そんな……キングのいない世界なんて嫌だ。


 『たとえ離れることになっても大好き』だなんて、どうして思っていられたんだろう。
 もしこのままキングとお別れすることになったら、僕の世界はそこで終わる。

 だって、キングのそばだけが僕の居場所なんだから……。


「ごめんね、キング……もう約束破らないから、今度こそ、ずっとそばにいるから……」

 心から詫びて、心から誓う。

 苦しいよ、キング。水の中で人魚が苦しいわけがないのに、キングとの別れを想像するだけで、こんなにも苦しい。


 いいや、別れなんかこない。
 キングはちゃんと連れて帰る。
 絶対に絶対に、死なせたりしないんだからっ!

 目元がじわりと温かくなっては、なにかが海に溶けて消えていく。
 そうか……海で泣くと、こんな風になるのか。
 涙を拭わないで済むのは助かる。いまの僕の両手は、大切な人を支えるので手一杯だから。


 海面まではあとどのくらいだろう。
 焦っちゃダメだと自分に言い聞かせながら、キングを抱えてまた少しだけ浮上する。

 その時、キングの口元からまた大きな泡が飛び出した。キングの身体が苦しそうに丸くなる。


「キングっ!? 目を覚まして! 目を開けて!」
 大きな泡と一緒に飛んでいった空気の出るホースを手繰り寄せながら、大声でキングに声をかける。

 だらりと力なかったキングの腕が動いて、僕の手を掴んだ。
 ゆっくりとした仕草で僕の手からホースを取って、丸まった身体の内側の、キングの口元へと静かに移動する。続けてキングの背中が風船のように大きく膨らんだ。


「……キング……?」

 どうしていいかわからずにキングの身体を支えたままただ見守っていると、ホースから溢れる細かな泡が、掠れた空気音とともに、大きなリズムを刻みながら上へとのぼっていく。

「……目が、覚めたの?」

 丸まっていた身体がゆっくりと伸びる。伸びきるのが待てなくて、キングの下から顔を覗き込んだら……マスク越しにあの青い瞳と目が合った。


「キングっ!!」

 ……ああ…………ああ、よかった……。

 『人間はヤワだからね』と言ったおばあさまの言葉を思えば、まだまだ油断はできないけど……キングの青い瞳が僕の不安を消していく。

 なにに感謝すればいいんだろう。
 とにかくよかった。
 ありがとう。本当にありがとう。


 そのあとは、キングの様子をうかがいながら、休み休み海面へと出た。

 人魚の里を訪れるということが、どれだけキングの身体に負担をかけたのか……。
 口のホースを外して潮風を吸い込んでも、キングは喋ることもできなかった。僕が支えていなければ、きっとまた海に沈んでしまいそうな……そんな状態だったんだ。

 ただでさえ人間にとっては過酷な状況下で、クリスの攻撃まで受けたんだ。そう簡単に回復できるわけもなかった。


 少し遠くにキングの船が見えた。
 キングを支えながらゆっくり近づくと、ジャックが頻りに吠えてきた。
 ジャックもキングのことが心配なんだ。

 ごめんね、ジャック。きみのご主人様をこんなにしたのは僕だ。
 キングを僕の事情に巻き込んでしまった。僕が守らなきゃいけなかったのに……守りきれなかった……。


 なんとかしてキングをステップに押しあげる。力の抜けた逞しい身体は、思いのほか重かった。

 その様子をうかがっていたジャックがデッキの奥へと引き返し、小さなボンベと銀色のカバーを咥えてきた。キングがあらかじめ用意していたのかもしれない。

 ステップに寝たままでそれを受け取ったキングが、ボンベを口にあてながら深呼吸する。
 僕は銀色のカバーでキングの全身を覆って、その様子を息を殺すようにして見守った。


 どのくらいそうしてただろう。
 ふいに、ボンベがキングの口元から外された。

 そのボンベで日射しを遮るように、キングの腕が目元まで持ちあがる。それまで閉じていた目蓋もゆっくりと持ちあがり、僕の大好きなあの青い瞳が、僕を横目に見つめてきた。

「もう大丈夫だ。ありがとう、ベリル」

 掠れたその声には、いつもの艶がない。それでも小さく笑ったその顔は、いつものかわいいキングの笑顔だ。


 キングだ……。キングが……。

 海の中では溶けて消えた涙が、今度は頬を伝って流れ落ちた。それをキングがやさしい指先でそっと拭ってくれる。

 思わず身を乗りあげてキングに抱きついた。
 失わずに済んだんだ。この人を……。
 腕の中の確かな存在に、そのことが改めて実感できた。

「もう離れない。離したくない。ずっとそばにいる。キングのそばにずっと……」

 泣き声まじりに誓う。この誓いは、もう絶対に破らない。



「まったく、いつまでそんなカッコでいる気だい? さっさと船におあがりよ」

 一生とまらないと思えるほどボロボロと溢れていた涙が、背後からかけられたその声のおかげで一気に引っ込んだ。

「お、おばあさま!?」

 驚きながら振り返ると、そこにはキングの水中スクーターに掴まったおばあさまがいた。僕らの様子を見て、なんだか少し嫌そうにしている。

「こんなところまできて、大丈夫なの?」

 キングのことでそれどころじゃなかったけど、毅然としたアドバイスの口調から、きっと大丈夫だろうとは思ってた。
 でも、捕まっていたときはかなり衰弱してるように見えたよ? 里から出てこんなところまでくるなんて、平気なんだろうか。

「私には魔女の秘薬があるからね。それさえ飲めればなんてことはない。そんなことより、早く船におあがりってば。すぐにお客が来るよ。さあさあ」


 お客って誰だろうなんて考えながら、おばあさまに急かされるままにキングの足元からステップにあがる。しばらくすると、僕の人魚の尻尾が人の足へと変わっていった。

「ああ、やっぱり完全な人間にはなれなかったんだねぇ。いったいなにが足りないんだか……」

「いやいや、なんの。素晴らしいじゃない。あんたのときは、ずっと足が痛そうだったもの。それに比べたら上出来よ~」

 考え込むおばあさまのうしろに現れたのは、なんと、大婆様だった。続いてクリスも顔を出す。

 お客って、大婆様たちのことだったのか!
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