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ニ、終わりの日
しおりを挟む― 七月二〇日も今日のように暑い日だった。
お父さんと会うときには、大体、十二時に多治見駅で待ち合わせをするようになっている。それは、お母さんがお父さんと会うことが嫌だからだ。その日も駅前の喫茶 縁 でランチをした。
僕は大好物のハンバーグランチ。お父さんは何やら食欲がない、とのことでコーヒーだけだった。
僕らは、店内から線路が見渡せる席に落ち着いた。
僕はお父さんとの会話が進まなかった時には、その線路を走る電車を、眺めていることにした。
僕のお父さんに対する父親像は、いつも酒を飲み、声を荒げているのがあった。ママに八つ当たりし、椅子やテーブルを蹴たくり、何かを投げつけ、そして、家を破壊する、そんな印象だった。
だから僕は、いつもお父さんの顔色を窺っていた。湯沸かし器のようにすぐに沸騰するから。その過程さえ見分ければ、被害を最小限に抑えることは可能だったが、それでも呑み助の全ての沸騰値はわからない。いつ何時マグマのように噴火するのかが、一緒に暮らしていても理解はできないのだ。
その時のお父さんは、なぜかは分からなかったが、ぼぉっとしていて、僕と同じように電車を眺めていた。
「明、このまま電車に乗って、何処か遠い、そうだな、見たこともないような、街に行ってみないか?」
お父さんがポツリと言った。
僕はそんなお父さんを何も言わず、しばらくは見ていた。いつもと違うお父さん。何か悲しげな顔をした今日のお父さん。何だが痛々しそうな顔をしていたことを思い出す。
「何処に?」
僕がそう聞くと、お父さんは黙り込んでしまった。
キッキキキ! と車輪が線路と擦れる音が聞こえてきた。僕はこの音がなぜかは分からかったが好きだった。
この音を聞くと何だかワクワクとしてきたからだ。電車に乗るということは、ここではない何処かに行くのであって、今まで見ていた景色も変わり、新しい場が待っている。
まだ見ぬ世界が広がっている。
「美味しかったか?」
僕は頷いた。
こんな風に優しい時もあるから、僕は父親を捨てることができなかったのかもしれない。
「それじゃ、出るか」
お父さんは支払いを済ませ、後ろも見ずに、外に出ていってしまった。その日のそんな背中がやけに淋しそうだったのを忘れない。
「何処に行くの?」
そんなお父さんに声をかけた。
「何処がいい?」
僕は答えられなかった。
僕らは車に乗り、しばらくは座席のシートに凭れ掛け、黙って外を見ていた。
「ショッピングモールでいいか?」
僕は頷いた。別に何処かに行きたいわけでもなかった。ただお父さんと一緒にいたかっただけだ。車はゆっくりと走りだした。道は日曜の午後ということもあり、混んでいた。
それでも僕とお父さんは口を噤み、何も喋らなかった。喋りたいことはいくらでもあった。だけど、その日はそれをさせない何かが、この二人の仲にはあった。
同じクラスの最後部に座る体の大きな男の子に、僕の知らない所で鉛筆を折られていたこと。そして、後からそれを問い質すと、否定され、殴られたこと。掃除当番で、僕だけ教室の掃き掃除をさせられたこと。
それから僕の右斜め前に座る女の子のことが気になること。それらの学校であったことを、本当は喋りたかったし、聞いてもらいたい、と思ったことは否定できないことで、でも、それを言えない状況であることは間違いなかった。
きっと、お父さんは無口の分類に入るだろう。でも、その日は特に喋らなかったように思う。
ようやくショッピングモールに着き、立体駐車場に車を停め、モールの中に二人で入っていった。二階の子供服売り場を二人で見て、僕が気に入ったTシャツを手にした時。
「それが欲しいのか?」
と言ったので、僕は、大きく首を振ったが、本当は欲しかった。
「お母さんから買ってもらうんじゃないぞ、って言われてるんだろ」
初めてそんなことを言われた。今まではそんなことなど言われなかったのだが・・・・・・。
何かが違う。いつもと。
その日のお父さんは辛そうで、悲しそうで、何かを、大切な何かを無くしてしまったかのような、終始その表情を見せていた。とんかく暗かった。
その日も同じように夕食の前に、家まで送り届けてくれた。勿論玄関先までくることはない。
「今日で最後だな、俺たちがこんな風に会うことは・・・・・・」
僕が背中を見せた時に、お父さんが絞り出すような声でそう言った。
泣いているのか、そんなことを思わせるような上ずった声だった。
「え?」
僕はお父さんを見た。
その目は悲しそうで、今にも壊れてしまいそうだった。
お父さんは首を振った後、痛々しい笑顔を浮かべた後、手を振って、いつまでも眺めていた僕に、居たたまれず、ついには背中を見せてしまった。
そして、歩き出した。
いつもの大きな背中が、今日はやけに小さかった。
僕は、小さくなったその背中をずっと見ていた。
お父さんは自分の車に乗り込み、そして、エンジンをかけ、アクセルを踏み、この場から走り出していった。
僕は、いつまでもその残像を追うように眺めていた。
いつも、こんな風にいいお父さんだったらよかったのに・・・・・。でも、今日のお父さんは何処となく元気もなかった。
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