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ニ、心を強く持って
しおりを挟む小和田彩加と明を乗せた赤いパッソが潤堂寺駅に到着した。そのしばらく後に、刑事が運転するクラウンも到着する。
しばらくすると彩加と明が車から出てきた。前方に見える廃虚の旅館を二人して見上げていた。どんな心境だろう。
意を決したように、小さな子供と母親はしっかりと手を握り合い、歩き始めた。おぼつかない足取りの明の手をしっかりと握り、胸を張って前を歩く母親。何と逞しい女であろうか。
しかし、本当の所は、その背中は、大きな不安に、今にも押し潰されようとしているに違いない。一緒に行ってやりたい、のはやまやまだ。だが、それができない苛立ちが、二人の刑事の背中に重く伸し掛かっている。
刑事は車から降りることなく、その二人を見守ることしかできないのだから。一度彩加が振り返ってから頷いたので、西嶋も頷き返した。
しっかりとした女性だ。あの小さな体で、自分の子供を、それから新しい家族を守ろうとしているのだから。目頭も熱くなってくる。
ようやく彩加が潤堂寺駅を後にする。山を少し登った所に、朽果てた、昔旅館であった陽炎旅館がある。彩加は、聞きしに勝るその荒れように、少しばかり抵抗を感じたが、その彼女の意思を曲げることはできなかった。
肝試しとして有名なそのスポット。背中がソワソワと悪寒が走っていくのを感じたが、彩加は、明の手を引き、前へと進んでいった。明の足取りもしっかりとしたものになってきた。
ようやく玄関先にやってきた。やはりこんな人気のない暗闇の中では、ちょっとした物音でも敏感に察知できるのであろう。
彩加たちの気配に気づいたのか、はや、目の前に藪押が立っていた。
目の色が常人ではないのを感じた。背後には割れたガラス扉がある。
「また、呑んでるの?」
「こんな状況だ。呑まなけばやっていられれない。わかるだろ、俺の性格が」
彩加は返事をしなかった。同調、理解してもらいたいであろう質問には、答えるべきではない、そう思ったからだ。
もう、この人とは縁を切ったのだから。金輪際、関わりたくはないし、関わるつもりもない。これからは。
「君は、分かってるはずさ。俺のことが」
「分からないわ。あなたとは、他人だから」
彩加はそう言って、声を張り上げた。
「海人! 海人! 海人は何処にいるの?」
「あいつは、客間で寝てるさ」
その言葉が異様なまでに恐ろしさを含んでいた。それは人間の感情を持った言葉ではなく、まるで壊れたAIロボットが口にしたセリフのように、危険を孕んだ言葉でもあった。
「あなた、裁判所から言われたでしょ」
彩加が重い口を開いた。
「酒を呑んだら、子供との接触を認ない、と」
「そんなことを、言われたかもしれないな」
薮押は、首を大きく振った。ポキポキと関節の音が鳴る。
「でも、覚えがない」
「いい加減にして!」
彩加がヒステリックに叫んだ。
「信じられない。こんな所で、明に隠れてお酒を飲んでいたなんて。もし、この状況を知っていれば、明とは会わせなかったわ。明と会うことなんか絶対に認めなかったからー」
「そうだと思ったよ。だから家に酒を置くことはなかった。不便だがこの場でしか呑まなかった。行きつけの店には、もう出入禁止になっているし・・・・・・。一人で、新たに店を見つける気力もない。だから、俺の呑める所は、この場でしかなかったんだ」
藪押には、若い時から足しげく通っていたバーがあった。だが離婚をし、消沈し、一人で酒を呑んでいると、最初は些細なことだったのだ。
でも、その些細なことが重なると、酒のせいもあり、性格が豹変してしまった。
ある時、隣で楽しく呑んでいたカップルがいた。最初は小さな声で喋り合っていたが、酒が進むにつれ、カップルの声も大きくなり、やがて、藪押の肩に、男の肘が何回も当たるようになって、それに突然、キレたのだ。
男の顔面を殴りつけ、。挙げ句の果てには、投げ飛ばしてしまったのだ。
薮押は、それだけで終わらず、止めに入った店のママにまで、暴力を振ってしまった。
店は一時期騒然となり、警察沙汰にもなった。それから、出禁となってしまったのだ。
「人もいないし、ここは静かでいい。そして、広い。何よりお前の住まいの近くだ。何かと様子を見るにも可能なエリアだ。わかってくれないか。俺はお前と明と、一緒に、繋がっていたいんだよ」
彩加は、藪押の目を見ていた。彼が何を考えているのか、それを推し量るような目で。だが分からなかった。ただ分かったことは、きっと常人では理解ができないものがあることを。
それ程までに、異質な人間に豹変してしまったのだ。この男は。
彩加は、明の手をしっかりと握り、中へと入っていった。
「おい、何処に行くんだ? 嘘だろ。あいつのことが心配なんて。どうでもいだろ。なぜ、久しぶりに会う俺たちの時間をも差し置いて、奴のことが気になる、というんだ。まったく理解に苦しむよ、お前のその行動には」
藪押は彩加の肩を掴んだ。
「掴まないで」
彩加は、その手を振り払い、廊下を歩いた。もう、戻れない。あの時の生活にはー。
この人の暴力に耐え、この人の顔色を窺う、あの暮らしには。
鼻を刺激するこの刺激臭に足を捕らわれそうになるが、先を急いだ。ただ事ではない、そう実感した。私の声が聞こえていないわけはない。なぜ出てこないのだろう。出られないわけでもあるのかもしれない。
二つ目の部屋に入ると、奥の方で大の字になり、寝ている男の姿があった。その男の顔に視線がいくと、それは酷いものであった。
右目の上に青痣が出来ていて、大きく腫れていた。そして、唇を切っており、血が流れていた。それがどす黒いものとなっている。
「海人、海人。大丈夫?」
近づいて、坂戸の肩を揺らしてみた。少しずつではあったが目が開いてきた。
坂戸が呻き声を発した。
「あ、彩加・・・・・・」
ようやく坂戸が意識を取り戻したようだ。
彩加の顔を見た途端に涙腺に変化を感じた。一人ではない、んだと思うと同時に、一種の団欒のようなものを存分に味わいたい、と願った。だが、後ろにいる藪押の姿を認識すると、急速にその思いも萎えていった。
「あなた、一体何をしたの?」
彩加は、背後から付いてきた藪押を見た。
「何もしてないさ。ただ、一つ、二つこついただけだ。そいつが大袈裟なだけさ」
「なぜ、あなたはそうやって暴力に頼るの?」
「こいつがいうことを訊かないからだ。いうことさえ聞いていれば、こうはならなかっただろう」
(いうことを訊く、訊かないの問題じゃないよ。まったく意味が分からないんだ。分からないうちに殴られたんだから)
坂戸が小声で囁く。
(分かってるわ。あの人の恐ろしさは)
「何を二人でこそこそ喋ってるんだ?」
藪押は、二人の傍まで歩いてきた。
「刑事が付いてきてはいないか?」
坂戸が彩加を見た。
「いえ、私と明の二人だけよ」
「お前、」
藪押が、意識の朦朧な状態の坂戸の髪の毛をむんずと掴み、立ち上がらせた。
頭皮がピリピリと刺激を受け、痛みを感じた。朦朧としていた頭もそれでしっかりとしてきた。
「今から外に行き、本当に刑事がいないか見てくるだ。駅の方、それから山の周辺に潜んでいないか、ちゃんと確認してくるんだぞ。分かったな。
よし。今から二十分やろう。七時五十分までにこの場に戻って来なければ、まずは明の命がないと思え。それと、俺がお前のおかしな行動を確認したら、勿論のこと、二十分が経っていなくとも明の命はない。わかったな」
立ち上がった坂戸は、今だ足元が覚束なく、フラフラとしていた。頭も重く、はっきりとしない。
「早くいけ」
藪押は、ナイフの柄の部分で頭をこつき、急かした。
「ここからお前の行動を見張っているからな。逃げたりするんじゃないぞ」
縛られている。そんな風に思った。体は縛られていないが、心が縛られている。
もしかしたら、俺はこの男から、逃れられないのではないか・・・・・・。
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