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22 眼鏡騒動2

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「……分かりました。やってみます」

「本来の業務じゃないのにすまん。そのお客さん、作法にもうるさい人みたいだから気をつけてくれ」

「はい。お任せください」

 私は母の教えもあってお茶の作法を身につけており、会社でも何回かお茶出しをしたことがあった。だから課長は頼んだのだろう。
 内心ではややこしそうなお客様に相当な恐れを感じていたものの、それを顔には出さないまま広報部のフロアを出た。強がるのは得意だから何とかなると思う。

 給湯室に行き、最初に人数分の湯呑みをお湯で温めておく。給湯室から会議室までは少し距離があるので、その間に冷めないようにするためだ。
 お茶を淹れたら湯呑みをお盆にのせ、会議室まで移動する。入室のノックは三回。

「失礼いたします」

 声を掛けてから入室した途端、長方形のデスクの上座に陣取るお爺さんの視線が私に突き刺さった。他の座席の社員たちも、顔を動かすことなく目だけで私を追っている。確かに何らかのトラブルがあった様子だ。室内の空気が少し重い。

 サイドテーブルに湯呑みがのったお盆をおき、茶托に湯呑みをのせてお客様にお出しする。今どき珍しい和装のお爺さまだ。羽織の背の中心に一つ紋が入っている。銀糸を使った縫い紋――略礼装で来たようだ。商談の席だからきちんとした格好を選んだのだろう。確かに作法を気にしそうなタイプだ。

 お爺さんは気難しそうな顔で腕を組み、一挙一動を見逃すまいとでも言うかのように私を見ている。明らかにご機嫌斜めな様子で、やはり課長の保証は当てには出来なかったのではないかと不安を感じた。失敗したら減俸だろうか。

 ふと視線を上げると、上座のお爺さんの真向かいに綾太さんが座っている。彼は目を丸くして私を凝視しており、何かを伝えたいのを必死で我慢している様子だった。多分、眼鏡がないことで驚いているのだろうけど、今はそれを説明する余裕はない。

 他の席には私の眼鏡を踏んだ山川さんもいて、少しばつの悪そうな顔をしている。彼が今回のお茶出しを依頼したのだろうか。恨む気持ちはないけど、どうして私に頼んだのかが不思議でならない。

「美人のお嬢さん」

「………………はい」

 お茶を一口飲んだお爺さんが話しかけてきた。一瞬だれに声を掛けたのか分からず反応が遅れたが、会議室にいる女性は私だけだ。なにを言われるのだろう。お茶が口に合わなかったのだろうか。

「儂の和装について、あなたの意見を訊きたい」

 和装について? お茶ではなく?
 予想外な質問に頭の中が真っ白になりかけたが、ようやく謎が解けたような気分でもあった。

 恐らく木崎さんはこのお客さまが来るたびに、お召し物について何かコメントを伝えていたのだろう。でも彼女の後輩はそれを知らなかったため、お茶を出しただけで無言のまま退室したに違いない。だからお爺さんは不満を感じ、いつもの人が良かったなとゴネたのだ。

 お爺さんの着物をざっと拝見させてもらう。略礼装の羽織袴はおりはかまで、長着ながぎと羽織は同素材だ。賭けになるけど、生地について意見を言えば何とかなるのではないだろうか。

「お客様の長着と羽織は西陣にしじんのおしでしょうか。よく似合っておいでです」

 着物の生地には羽二重はぶたえつむぎなど様々あるが、お爺さんが着ているものは子供の頃に何度も見た西陣のお召しだった。地元で作られた生地だからよく覚えている。間違ってはいないはずだ。

 しかしお爺さんは腕を組んだまま何も言わず、鷹のように鋭い目で私を見ている。他の席についた社員たちもハラハラと不安そうだ。やはり駄目だったのか、減俸かもしれないと絶望を感じたとき、お爺さんがふいに破顔した。

「素晴らしい、よく分かったもんだ。木崎さんもいいが、あなたもなかなかいい」

 その瞬間、急に部屋の空気が軽くなったように感じた。このお爺さんは普段しかめっ面をしているだけに、笑うと印象が変わる人のようだ。社員たちもほっと安堵している様子で、ようやく自分が無事に役目を終えたことを知る。

 私はお盆を持ったまま軽く会釈して会議室を後にした。最後まで綾太さんは何か言いたげだったが、あの場では説明できないのでそのまま広報のフロアに戻った。

 フロアに入ると千穂先輩のデスクに青木課長がいて、二人は何か話し込んでいる。私に気づいた課長が声をかけてきた。

「お疲れ。どうだった?」

「うまくやれたと思います。あのお客様は、お召し物について褒めて貰いたかったみたいです」

「そういう事だったのか……。総務に伝えておいた方がいいな。よく頑張ってくれた、ありがとう。でもとりあえず眼鏡は今日中に買いに行けよ?」

「そうそう。早めの方がいいと思うよ。きっと例の人も心配すると思う」

「……そうですね。他の社員さんも驚いた顔をしてましたし……申し訳ないことをしました」

 会議室にお茶を運んだとき、座っていた社員たちはみな私の顔を見てギョッとしていたように思う。社員証と顔を見比べ、唖然とする人までいた。やっぱり私の芋くさい眼鏡は必要不可欠な存在なのだ。綾太さんもハラハラしている様子だったし、これ以上社内の空気を乱すべきではない。

「前から思ってたが、恩田はちょっと鈍いとこがあるな。仕事は出来るし、度胸もあるんだが」

「そうでしょ。ちょっと危なっかしいんですよね。見てるとひやひやするって言うか」

 青木課長と千穂先輩の言葉に、私は少しばかりムッとした。これでも二十五歳の成人した大人なのに。

「危なくなんかないですよ。見ててください、お二人の度肝を抜くような見事な眼鏡を買ってきますから」

 私の返答に二人は生ぬるい微笑を浮かべる。何なんだろうか、あの笑顔は。私は不満を感じつつ仕事を続けた。

 今日の分の仕事を終えたのは午後六時で、眼鏡を買いに行くには充分余裕のある時間帯だった。綾太さんの帰宅は八時ぐらいだと聞いているから、買い物後すぐにマンションへ戻れば夕飯の支度は間に合うはずだ。

 まだ残っている社員たちに挨拶してから席を立ち、化粧室に寄って身だしなみを整える。化粧道具のポーチの横でスマホのライトが点滅しており、メッセージを確認すると綾太さんからだった。

「えっ?」

 メッセージを目にした瞬間、ひとり言を漏らしてしまう。他の女性社員たちの怪訝そうな視線をかいくぐって廊下の端に移動し、改めて彼からの連絡を見た。

『眼鏡が壊れたんだってね。一緒に買いに行かないか? 七時に社のロータリーで待ち合わせよう』

 私は首をかしげた。どうして綾太さんが眼鏡の事件を知っているのか。山川さんから事情を聞いたのだろうか?

 しかも帰りは八時だったのに、一時間も早まっている。眼鏡が割れたことを知って、急いで仕事を終わらせてくれたのかもしれない。心配性だなと思いつつも、優しくされるのはやっぱり嬉しい。

 私は了承の返事をして、会社の近くのカフェに入った。待ち合わせの時間まであと一時間ある。ラテでも飲みながら待っていよう。
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