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第6章:静かに横たわる傷
左遷、という名の静かな処刑
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社内の休憩スペースは、夕方の時間帯にしては珍しく静かだった。
ラウンジの照明はまだ落とされず、白い光が人工的なやさしさを空間に漂わせている。
陸は、紙コップを両手で包み込むようにして、じっとその湯気を眺めていた。
温かさが手のひらを通して伝わってくるが、それ以上の温もりは胸に届かないまま。
木原は、その隣に腰を下ろしていた。
何も言わず、無理に明るくしようとするでもなく、じっと同じ沈黙の中に身を置いている。
陸が口を開いたのは、それからしばらく経ってからだった。
「……木原さん。主任のこと、東京にいた頃から知ってますか?」
木原は顔を動かさず、視線だけを陸に向ける。
「ううん。私が知ったんは、大阪来てからやで。
でも……東京のときの話、少しだけ、聞いたことある」
言い終わったあと、彼女は少し間を置いた。
「誰かがよう話してたんよ。『如月さん、昔はもっと笑ってた』って。
でもな、ある時期から急に変わったって。感情、全部消したみたいに」
陸の手の中で、コーヒーの湯気がゆっくりと細くなっていく。
「事件って……何があったんですか?」
木原は息をひとつ整えるように吸ってから、ぽつりと語り出した。
「詳しい経緯までは、誰も話したがらんかった。
ただな、如月さんの部下が、大きなトラブル起こしたらしい。
クライアント絡みのプレゼンか、納品か……そこははっきりせえへん。
でも、その案件の責任を、如月さんが全部引き取ったらしい」
「引き取った、って……」
「謝罪も、対応も、ひとりで。
あげく、クライアント先で土下座までしたって噂もあった」
陸は眉を寄せた。
あの人が土下座する姿など、想像がつかない。
けれど、それを“やってしまう人”でもあることを、どこかで納得していた。
「当の部下の子は、数日後に退職。
突然、って聞いたよ。理由も何も言わんと。
そしたら、会社の中では“上が処理した”って空気になった。
誰もはっきり言わんけど、如月さんを『引かせる』ために、降格と大阪転勤が決まったって」
陸の手元がかすかに震えた。
「……誰も、それに反対せんかったんですか?」
木原は、少しだけ視線を落とした。
「しようとした人も、おったかもしれん。
でも声に出せるほど、皆、自分の身が安全じゃなかったんやと思う」
「処理された、んですね……全部」
その言葉が重たく響いた。
「左遷、ていう名前の、静かな処刑みたいなもんやったんちゃうかな。
本人は何も言わへんかったらしい。
ただ、決まったことやから、って言うて、黙って大阪に戻ってきたって」
木原の声が、少しだけ滲んだ。
「私な、会ったときびっくりしたもん。
笑わへんし、余計なこと一切言わへん。
でも、仕事は完璧。
そら“氷の主任”とか言われるわなって思ったよ」
「……氷の下に、火傷するくらい熱いもん抱えてる人ですよ、あの人」
陸の声は小さかった。
木原が少しだけ頷いた。
「うん。あの人、優しいよ。
でも、優しさって、自分が誰よりも傷つくってことでもあるやんか。
たぶん如月さん、あん時、ほんまにひとりやったんやと思う」
陸は、その言葉に唇を閉じた。
頭では理解していた。
玲が、何かをきっかけに自分を閉じたのだと。
けれどそれが、こうして具体的な形を持って語られると、想像よりずっと深い傷だったことが分かった。
責任感だけじゃない。
その人の人生に、確かに“裏切り”があった。
そしてそれを抱えたまま、誰にもぶつけずに生きてきたのだ。
陸は、ふっと口を開いた。
「誰も……誰も、あの人を守らんかったんやな」
絞り出すようなその言葉に、木原は何も返さなかった。
ただそっと、紙コップの縁をなぞるように指を動かしていた。
沈黙が、また戻ってきた。
けれど、それはさっきまでの無音とは違った。
今は、言葉がなくても何かが確かに共有されている。
それが分かる、あたたかさとは違う、でも消えない感触だった。
玲の沈黙の理由を知っても、気持ちは変わらなかった。
むしろ、それを知った今のほうが、よりはっきりしていた。
恋とか、保護とか、そんな言葉ではもう足りなかった。
陸の胸には、ゆっくりと、でも確かに熱が宿り始めていた。
ラウンジの照明はまだ落とされず、白い光が人工的なやさしさを空間に漂わせている。
陸は、紙コップを両手で包み込むようにして、じっとその湯気を眺めていた。
温かさが手のひらを通して伝わってくるが、それ以上の温もりは胸に届かないまま。
木原は、その隣に腰を下ろしていた。
何も言わず、無理に明るくしようとするでもなく、じっと同じ沈黙の中に身を置いている。
陸が口を開いたのは、それからしばらく経ってからだった。
「……木原さん。主任のこと、東京にいた頃から知ってますか?」
木原は顔を動かさず、視線だけを陸に向ける。
「ううん。私が知ったんは、大阪来てからやで。
でも……東京のときの話、少しだけ、聞いたことある」
言い終わったあと、彼女は少し間を置いた。
「誰かがよう話してたんよ。『如月さん、昔はもっと笑ってた』って。
でもな、ある時期から急に変わったって。感情、全部消したみたいに」
陸の手の中で、コーヒーの湯気がゆっくりと細くなっていく。
「事件って……何があったんですか?」
木原は息をひとつ整えるように吸ってから、ぽつりと語り出した。
「詳しい経緯までは、誰も話したがらんかった。
ただな、如月さんの部下が、大きなトラブル起こしたらしい。
クライアント絡みのプレゼンか、納品か……そこははっきりせえへん。
でも、その案件の責任を、如月さんが全部引き取ったらしい」
「引き取った、って……」
「謝罪も、対応も、ひとりで。
あげく、クライアント先で土下座までしたって噂もあった」
陸は眉を寄せた。
あの人が土下座する姿など、想像がつかない。
けれど、それを“やってしまう人”でもあることを、どこかで納得していた。
「当の部下の子は、数日後に退職。
突然、って聞いたよ。理由も何も言わんと。
そしたら、会社の中では“上が処理した”って空気になった。
誰もはっきり言わんけど、如月さんを『引かせる』ために、降格と大阪転勤が決まったって」
陸の手元がかすかに震えた。
「……誰も、それに反対せんかったんですか?」
木原は、少しだけ視線を落とした。
「しようとした人も、おったかもしれん。
でも声に出せるほど、皆、自分の身が安全じゃなかったんやと思う」
「処理された、んですね……全部」
その言葉が重たく響いた。
「左遷、ていう名前の、静かな処刑みたいなもんやったんちゃうかな。
本人は何も言わへんかったらしい。
ただ、決まったことやから、って言うて、黙って大阪に戻ってきたって」
木原の声が、少しだけ滲んだ。
「私な、会ったときびっくりしたもん。
笑わへんし、余計なこと一切言わへん。
でも、仕事は完璧。
そら“氷の主任”とか言われるわなって思ったよ」
「……氷の下に、火傷するくらい熱いもん抱えてる人ですよ、あの人」
陸の声は小さかった。
木原が少しだけ頷いた。
「うん。あの人、優しいよ。
でも、優しさって、自分が誰よりも傷つくってことでもあるやんか。
たぶん如月さん、あん時、ほんまにひとりやったんやと思う」
陸は、その言葉に唇を閉じた。
頭では理解していた。
玲が、何かをきっかけに自分を閉じたのだと。
けれどそれが、こうして具体的な形を持って語られると、想像よりずっと深い傷だったことが分かった。
責任感だけじゃない。
その人の人生に、確かに“裏切り”があった。
そしてそれを抱えたまま、誰にもぶつけずに生きてきたのだ。
陸は、ふっと口を開いた。
「誰も……誰も、あの人を守らんかったんやな」
絞り出すようなその言葉に、木原は何も返さなかった。
ただそっと、紙コップの縁をなぞるように指を動かしていた。
沈黙が、また戻ってきた。
けれど、それはさっきまでの無音とは違った。
今は、言葉がなくても何かが確かに共有されている。
それが分かる、あたたかさとは違う、でも消えない感触だった。
玲の沈黙の理由を知っても、気持ちは変わらなかった。
むしろ、それを知った今のほうが、よりはっきりしていた。
恋とか、保護とか、そんな言葉ではもう足りなかった。
陸の胸には、ゆっくりと、でも確かに熱が宿り始めていた。
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