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主任補佐と新入社員と、距離感ゼロの恋未満
濡れないように、傘をずらした
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空が暗くなり始めたのは、定時の一時間ほど前だった。
オフィスの窓際を打つ雨音が、最初は遠慮がちに、やがて急に厚みを増す。
風も出てきたのか、ブラインドの隙間が時折かすかに揺れる。
PCに向かっていた佐倉は、ふと立ち上がり、窓際に目をやった。
「……マジかよ。降るん早すぎるやろ」
言いながらスマホの天気アプリを開く。
予報は“曇りのち夜間一時的に雨”。
だが、現実の空は、すでにびっしりと雨粒で埋め尽くされていた。
「傘……持ってきてへんわ」
天気予報を信用した自分を悔やみつつ、机に戻ったところで、背後から声がかかった。
「佐倉さん、帰りますか」
振り返ると、瀬戸がコートを着て立っていた。
傘を手に持ち、その濃い紺色が窓からの灰色の光に浮かび上がっている。
「……この雨で帰るんか。お前、用心深いタイプやと思ってたけど、攻めるなあ」
「いえ、僕は傘持ってるので」
そして一拍置いて、静かに言い添えた。
「佐倉さんが持ってないと思って」
その声に、佐倉は言葉を詰まらせた。
予想してた。
じゃあ、これを持ってきたのは――
言いかけて、やめた。
「……しゃあないな。送ってくれるんか、俺を」
「はい。駅まで」
ふたりでビルを出る。
エントランスの屋根の下で、瀬戸が傘を開く。
すっと開いた傘が、どこか優雅に感じられるのは、雨のせいだろうか。
瀬戸はためらいなく、佐倉の左隣に立ち、傘を持つ腕をわずかに右へずらした。
雨が吹き込まないように。
濡れないように。
その動作が、あまりにも自然で、
佐倉は“言うまでもない”という優しさのかたまりに、少しだけ呼吸が浅くなった。
「……ありがとな」
「いえ」
会話はそれきりだった。
濡れたアスファルトを踏む音と、頭上を打つ雨の音だけが続く。
ビルの影、街灯の明かり、車の音、信号の点滅。
そのどれもが、ふたりを包む雨音に吸い込まれていた。
佐倉は少しだけ上を向いた。
傘の内側、瀬戸の持つ手、骨組みに沿って揺れる水滴。
そして……自分より少し背の高い瀬戸の肩が、やや濡れていることに気づく。
「おい、お前、濡れてんで」
瀬戸はちらりとこちらを見て、何でもないことのように答えた。
「佐倉さんが濡れないようにしてるので」
「お前な……そんなことせんでも、俺はいいって」
「でも、僕は嫌なんです。佐倉さんが濡れるの」
その言葉は、あまりにも静かだった。
強くもない。押しつけでもない。
ただ、そこに本音だけがあった。
佐倉は言葉が出なかった。
思考が一瞬、止まった。
そんなふうに思われたことなんて、あったか。
傘を差すだけの行為に、こんな温度があるなんて。
気づけば、ふたりの肩の間は十数センチ。
それなのに、なぜかその距離が、妙に近く、鮮明だった。
傘の中という密室。
そのわずかな空間で、ふたりは確かに“同じ場所”にいた。
歩幅を合わせるでもなく、自然と同じ速さで歩いている。
肩が触れないように、けれど離れすぎないように。
心のどこかで、佐倉は考えていた。
これって、ただの優しさなんやろか。
俺が風邪引いたら、瀬戸は困るから?
それとも、もっと……べつの意味があるんか。
わからない。
でも、どこかで知っている気がする。
雨音がふたりの沈黙をやさしく隠してくれていた。
駅が近づく。
屋根のある改札前で、ふたりは自然と立ち止まった。
「ここまでで大丈夫ですか?」
「……ああ。サンキュな」
「また、来週」
「うん」
それだけ言って、瀬戸は傘を畳んで改札へと入っていった。
その背中を、佐倉はしばらく見送っていた。
傘の中の距離。
あれが、心の距離なんやろか。
それとも――俺が、ただ、近づかれてるだけか。
どちらにしても、もう気づいてしまった。
この気配は、誰にでも向けるものじゃない。
優しさとは、違う。
傘の中でだけ、瀬戸は俺にまっすぐだった。
それが、たまらなく印象に残った。
オフィスの窓際を打つ雨音が、最初は遠慮がちに、やがて急に厚みを増す。
風も出てきたのか、ブラインドの隙間が時折かすかに揺れる。
PCに向かっていた佐倉は、ふと立ち上がり、窓際に目をやった。
「……マジかよ。降るん早すぎるやろ」
言いながらスマホの天気アプリを開く。
予報は“曇りのち夜間一時的に雨”。
だが、現実の空は、すでにびっしりと雨粒で埋め尽くされていた。
「傘……持ってきてへんわ」
天気予報を信用した自分を悔やみつつ、机に戻ったところで、背後から声がかかった。
「佐倉さん、帰りますか」
振り返ると、瀬戸がコートを着て立っていた。
傘を手に持ち、その濃い紺色が窓からの灰色の光に浮かび上がっている。
「……この雨で帰るんか。お前、用心深いタイプやと思ってたけど、攻めるなあ」
「いえ、僕は傘持ってるので」
そして一拍置いて、静かに言い添えた。
「佐倉さんが持ってないと思って」
その声に、佐倉は言葉を詰まらせた。
予想してた。
じゃあ、これを持ってきたのは――
言いかけて、やめた。
「……しゃあないな。送ってくれるんか、俺を」
「はい。駅まで」
ふたりでビルを出る。
エントランスの屋根の下で、瀬戸が傘を開く。
すっと開いた傘が、どこか優雅に感じられるのは、雨のせいだろうか。
瀬戸はためらいなく、佐倉の左隣に立ち、傘を持つ腕をわずかに右へずらした。
雨が吹き込まないように。
濡れないように。
その動作が、あまりにも自然で、
佐倉は“言うまでもない”という優しさのかたまりに、少しだけ呼吸が浅くなった。
「……ありがとな」
「いえ」
会話はそれきりだった。
濡れたアスファルトを踏む音と、頭上を打つ雨の音だけが続く。
ビルの影、街灯の明かり、車の音、信号の点滅。
そのどれもが、ふたりを包む雨音に吸い込まれていた。
佐倉は少しだけ上を向いた。
傘の内側、瀬戸の持つ手、骨組みに沿って揺れる水滴。
そして……自分より少し背の高い瀬戸の肩が、やや濡れていることに気づく。
「おい、お前、濡れてんで」
瀬戸はちらりとこちらを見て、何でもないことのように答えた。
「佐倉さんが濡れないようにしてるので」
「お前な……そんなことせんでも、俺はいいって」
「でも、僕は嫌なんです。佐倉さんが濡れるの」
その言葉は、あまりにも静かだった。
強くもない。押しつけでもない。
ただ、そこに本音だけがあった。
佐倉は言葉が出なかった。
思考が一瞬、止まった。
そんなふうに思われたことなんて、あったか。
傘を差すだけの行為に、こんな温度があるなんて。
気づけば、ふたりの肩の間は十数センチ。
それなのに、なぜかその距離が、妙に近く、鮮明だった。
傘の中という密室。
そのわずかな空間で、ふたりは確かに“同じ場所”にいた。
歩幅を合わせるでもなく、自然と同じ速さで歩いている。
肩が触れないように、けれど離れすぎないように。
心のどこかで、佐倉は考えていた。
これって、ただの優しさなんやろか。
俺が風邪引いたら、瀬戸は困るから?
それとも、もっと……べつの意味があるんか。
わからない。
でも、どこかで知っている気がする。
雨音がふたりの沈黙をやさしく隠してくれていた。
駅が近づく。
屋根のある改札前で、ふたりは自然と立ち止まった。
「ここまでで大丈夫ですか?」
「……ああ。サンキュな」
「また、来週」
「うん」
それだけ言って、瀬戸は傘を畳んで改札へと入っていった。
その背中を、佐倉はしばらく見送っていた。
傘の中の距離。
あれが、心の距離なんやろか。
それとも――俺が、ただ、近づかれてるだけか。
どちらにしても、もう気づいてしまった。
この気配は、誰にでも向けるものじゃない。
優しさとは、違う。
傘の中でだけ、瀬戸は俺にまっすぐだった。
それが、たまらなく印象に残った。
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