誰と寝ても、俺はいなかったー性のどこにも属せなかった俺が、たった一人にだけ愛された夜

中岡 始

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雨と休日と、交差点の偶然

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雨は朝から降っていた。
粒の細かい、けれど途切れることのない静かな雨。
気温はそれほど低くないが、空気には湿気とともにどこかくぐもったような重さが漂っていた。
駅前のロータリーは、傘を差した人々が行き交うなか、濡れた舗道が光を反射して、薄く靄がかかったように見える。
車道の先にあるショッピングモールのガラス壁も、水滴で曇り、内部の人影はぼんやりとしか映らない。

芳樹は、駅前の広場の端に立ち、スマートフォンを開いてメッセージを確認していた。
「ごめん、少し遅れるかも」
そう表示された友人からのメッセージは、数分前に届いていた。
画面をスリープに戻し、ポケットに仕舞いながら、視線を辺りに移す。
傘を持つ手が少しだけだるく、濡れた革靴の中がじんわりと不快だった。

昼過ぎの時間帯、駅周辺は人で混み合っている。
週末の買い物客、雨に濡れないように急ぐカップル、家族連れ、独り歩く学生風の男。
どの顔も知らない人間たちの中に、ふと、視線の先に引っかかる何かがあった。

遠くない距離、信号を渡った先。
その人は、静かに傘をさして立っていた。
姿勢はまっすぐで、動きはなく、まるで時間の流れから少しだけ切り離されているようだった。
人混みに紛れていても、目が自然とそこに向かってしまう。
白いシャツの布地が、やわらかく身体の線に沿って落ちている。
下には淡いブルーグレーのワイドパンツ。くるぶしが少し覗くそのシルエットは、どこか浮いていた。
街に馴染まないという意味ではなく、むしろ、ありふれた風景のなかで美しすぎた。

芳樹は、目を細めてその顔を見た。
ほんの一瞬、視線が合ったような気がした。
次の瞬間には確信に変わる。
楷だった。

職場で見るときとは違う。
第一印象としてそう思ったのは、シャツやパンツのせいではない。
細かく言えば、目元にわずかに施された影、睫毛の際をなぞるように引かれたアイライン、血色の良さを足すように塗られた唇の色。
そして、小さなシルバーのピアスが左右の耳に揺れていた。

それは華美でも奇抜でもなかった。
けれど、“誰かに見せるため”に着飾ったというより、
“誰にも見せない自分”として整えた外見に見えた。
まるで、自分だけが自分を知っていればいい、というような。
その姿は、芳樹の中にわずかなざわめきを生んだ。

口を開こうとしたが、声が出なかった。
いや、声を出す前に、身体が固まっていた。
理由は分からない。
ただその瞬間、何かを“見てはいけない”と感じた。
職場で接する楷ではなく、目の前にいるのは、“生活の中の楷”だった。
その人に、今、何を言えばいいのかが分からなかった。

なのに、目を逸らせなかった。
人波が間を通り過ぎていっても、雨が強まっても、
傘を握る手に力が入り、目はその姿を捉え続けていた。
何を見ているのか、何を見てしまったのか。
自分でも説明できないまま、ただその佇まいの中に吸い寄せられていった。

楷は、こちらに気づいた素振りを見せた。
正面を向いたまま、ほんの少し眉を動かし、視線を正確に芳樹に向けた。
その顔に驚きはなかった。
むしろ、どこか諦めにも似た、受け入れるような静けさがあった。
職場でよく見る穏やかな表情と似ていたが、それとは違った。
誰にも感情を預けないまま、表面だけを整えたような無表情。

芳樹は、思ったより近くにいた自分の位置に気づく。
信号が変わったとき、無意識に足を進めていたらしい。
気づけば、五、六歩の距離だった。
互いに相手の顔を識別できるくらいには、近かった。

傘の縁から雫が落ちる音が、妙に大きく響く。
周囲の喧騒がぼやけて、二人だけが雨に包まれているようにさえ思えた。

楷は、わずかに首を傾けて、口を開いた。

「こんにちは」

いつもの声だった。
どこにも感情の起伏がない、営業で使う声に似ていた。
だがそれでも、芳樹の胸には妙な鼓動が生まれていた。

「…ああ、こんにちは」

それ以上の言葉が出てこなかった。
気まずいわけではない。
でも、普段とは違う何かを目の当たりにして、声が出せなかった。

楷は、笑いもせず、視線を逸らすこともなく、静かに立っていた。
ただそこに在るだけで、周囲の景色を変えてしまうような存在感だった。

芳樹は、自分の中に渦巻くものの正体を探していた。
違和感ではない。戸惑いでもない。
それは、罪悪感に似ていたが、たぶんもっと別のものだった。
「この人のことを、自分は何も知らなかった」
そう思い知らされることへの、後ろめたさ。

…何かを見てはいけない気がした。だけど、もう目を逸らせなかった。

自分の中にある、まだ名前のつかない感情だけが、ずっと残っていた。
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