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濡れた髪と、肌にまとった沈黙
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バスルームのドアが静かに開く音に、芳樹はとっさに目を閉じた。
眠っているふりをしたわけではない。
ただ、見てはいけない気がした。
あるいは、見ることで何かが変わってしまいそうだった。
部屋の灯りはベッドサイドの小さな間接照明だけで、柔らかな橙色が空間に滲んでいた。
壁のクロスが淡く影を落とし、その影に浮かぶ気配だけが、芳樹の視界の裏側を満たしていく。
足音は軽かった。
水気を含んだ素足が絨毯を踏む音は、ほとんどしない。
けれど、濡れた空気が微かに漂ってきて、確かに誰かがそこにいることを知らせていた。
シャワーの蒸気をまだまとったその気配が、ゆっくりと部屋の奥へと移動していく。
香水ではない、けれどどこか柔らかな匂いが、鼻の奥をかすめた。
石けんの香りと、濡れた髪に含まれる微かなシャンプーの残り香。
そのどれもが、芳樹の五感を刺激して、眠りかけていた思考をゆっくりと引き戻していく。
まぶたを閉じたまま、微かに目の裏に浮かぶ残像のようなイメージが現れた。
水滴の伝う鎖骨。
首筋に張りつく、乾ききっていない黒髪。
ライトに照らされた肌は、汗ではなく湯気で濡れている。
乾いた寝巻きに着替えたばかりのはずなのに、布地の向こうにかすかに感じる湿度。
触れていないのに、触れてしまったような感覚。
楷が着ているのは、ホテル備え付けのルームウェアだった。
誰が着ても変わらないはずの服が、彼の体に触れると、どこか違って見えた。
布のゆるみが、肩から胸元にかけてふわりと落ちていて、その隙間から見える肌が、濡れたまま呼吸しているように感じられた。
いや、実際には見ていない。
ただ、気配だけが伝わってきて、それが映像として脳内で組み立てられてしまう。
「濡れた髪が、男のものじゃない。でも女でもなかった」
そう心のなかで呟いた自分の声が、やけに冷静だった。
分析するように、観察するように、それでも何かを否定できないまま続ける。
「無防備なのに挑発じゃない。ただ、その姿が…俺の目を奪う」
どこにも攻撃的な意図はない。
意識して魅せようとしているわけではない。
それなのに、否応なく惹き寄せられるものがあった。
そしてそのことに、自分が動揺しているのが分かっていた。
楷は、何も言わなかった。
いつものことだ。
必要のないことは言葉にしない。
ただ静かにベッドの方へと歩いていき、布団の端を軽くめくり、すべるように横になる。
その動作ひとつひとつが静かすぎて、逆に意識に残る。
音がないのに、空気が揺れたことだけが、身体の奥に響いてくる。
横になった楷の呼吸は浅く、静かだった。
だが、眠っているわけではない。
分かっていた。
きっと楷も、芳樹の気配を感じている。
目を閉じていることも、たぶん知っている。
それでも何も言わず、何も問わないまま、布団に身を沈めていった。
芳樹の心臓が、わずかに脈打った。
緊張ではなかった。
ただ、意味もなく呼吸のリズムが乱れた。
なぜだろう。
見たわけではない。
何も起きていない。
なのに、あの濡れた髪と水滴を伝った肌の輪郭だけが、やけにくっきりと残っている。
まるで、目に焼きついてしまったようだった。
触れていないのに、指先に熱が残っている気がする。
こんな感覚を抱いたのは、いつぶりだろう。
それが好意なのか欲なのか、自分でも分からない。
ただ確かなのは、楷を“見た”ということだった。
言葉にならない何かを、自分のなかで確かに掴んでしまったことだった。
隣のベッドにいるその人は、今も変わらず静かだった。
何も言わず、ただそこにいる。
それだけの存在が、どうしてこんなにも気になるのか。
芳樹は答えのない問いを胸に残したまま、まだ目を開けずにいた。
眠っているふりをしたわけではない。
ただ、見てはいけない気がした。
あるいは、見ることで何かが変わってしまいそうだった。
部屋の灯りはベッドサイドの小さな間接照明だけで、柔らかな橙色が空間に滲んでいた。
壁のクロスが淡く影を落とし、その影に浮かぶ気配だけが、芳樹の視界の裏側を満たしていく。
足音は軽かった。
水気を含んだ素足が絨毯を踏む音は、ほとんどしない。
けれど、濡れた空気が微かに漂ってきて、確かに誰かがそこにいることを知らせていた。
シャワーの蒸気をまだまとったその気配が、ゆっくりと部屋の奥へと移動していく。
香水ではない、けれどどこか柔らかな匂いが、鼻の奥をかすめた。
石けんの香りと、濡れた髪に含まれる微かなシャンプーの残り香。
そのどれもが、芳樹の五感を刺激して、眠りかけていた思考をゆっくりと引き戻していく。
まぶたを閉じたまま、微かに目の裏に浮かぶ残像のようなイメージが現れた。
水滴の伝う鎖骨。
首筋に張りつく、乾ききっていない黒髪。
ライトに照らされた肌は、汗ではなく湯気で濡れている。
乾いた寝巻きに着替えたばかりのはずなのに、布地の向こうにかすかに感じる湿度。
触れていないのに、触れてしまったような感覚。
楷が着ているのは、ホテル備え付けのルームウェアだった。
誰が着ても変わらないはずの服が、彼の体に触れると、どこか違って見えた。
布のゆるみが、肩から胸元にかけてふわりと落ちていて、その隙間から見える肌が、濡れたまま呼吸しているように感じられた。
いや、実際には見ていない。
ただ、気配だけが伝わってきて、それが映像として脳内で組み立てられてしまう。
「濡れた髪が、男のものじゃない。でも女でもなかった」
そう心のなかで呟いた自分の声が、やけに冷静だった。
分析するように、観察するように、それでも何かを否定できないまま続ける。
「無防備なのに挑発じゃない。ただ、その姿が…俺の目を奪う」
どこにも攻撃的な意図はない。
意識して魅せようとしているわけではない。
それなのに、否応なく惹き寄せられるものがあった。
そしてそのことに、自分が動揺しているのが分かっていた。
楷は、何も言わなかった。
いつものことだ。
必要のないことは言葉にしない。
ただ静かにベッドの方へと歩いていき、布団の端を軽くめくり、すべるように横になる。
その動作ひとつひとつが静かすぎて、逆に意識に残る。
音がないのに、空気が揺れたことだけが、身体の奥に響いてくる。
横になった楷の呼吸は浅く、静かだった。
だが、眠っているわけではない。
分かっていた。
きっと楷も、芳樹の気配を感じている。
目を閉じていることも、たぶん知っている。
それでも何も言わず、何も問わないまま、布団に身を沈めていった。
芳樹の心臓が、わずかに脈打った。
緊張ではなかった。
ただ、意味もなく呼吸のリズムが乱れた。
なぜだろう。
見たわけではない。
何も起きていない。
なのに、あの濡れた髪と水滴を伝った肌の輪郭だけが、やけにくっきりと残っている。
まるで、目に焼きついてしまったようだった。
触れていないのに、指先に熱が残っている気がする。
こんな感覚を抱いたのは、いつぶりだろう。
それが好意なのか欲なのか、自分でも分からない。
ただ確かなのは、楷を“見た”ということだった。
言葉にならない何かを、自分のなかで確かに掴んでしまったことだった。
隣のベッドにいるその人は、今も変わらず静かだった。
何も言わず、ただそこにいる。
それだけの存在が、どうしてこんなにも気になるのか。
芳樹は答えのない問いを胸に残したまま、まだ目を開けずにいた。
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