誰と寝ても、俺はいなかったー性のどこにも属せなかった俺が、たった一人にだけ愛された夜

中岡 始

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欲望を向けなかった、ただひとり

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部屋の灯りがすべて落ちると、空気の密度が変わったように感じた。
視界の中にあった輪郭が闇に溶けていき、芳樹はそっと体を横たえた。
ツインのベッドは、壁に対して並行に置かれている。
間には小さなナイトテーブルがひとつ。
そこに置かれたスマートフォンの充電コードが、かすかに揺れていた。

耳を澄ませば、空調の低い風音と、どこか遠くの部屋の水音。
それ以外、何も聞こえなかった。
ベッドに体を沈めた楷は、呼吸の音すらほとんど立てない。
眠っているのか、それとも目を閉じているだけなのか。
その判別さえつかないほど、気配が薄い。

芳樹はベッドの端に背中を向けたまま、視線だけを天井へ向けた。
カーテンの隙間から漏れる街灯の光が、天井の隅にかすかにゆれている。
心が妙に落ち着かなかった。
眠気がないわけではない。
けれど、まぶたを閉じる気にもなれず、意識はどこか漂ったままだ。

「この距離なら、手を伸ばせば触れられる」
思わず浮かんだ言葉に、自分で驚いた。
いや、驚いたのは、その発想ではなく、
“それが選択肢として浮かんだ自分”だった。

確かに、距離は近い。
横になれば、手のひらひとつ分もない。
ただ腕を伸ばせば、隣のベッドの布団の端くらいには触れるかもしれない。
そしてその奥に、楷がいる。

けれど、動けなかった。
実際に触れるという行為が、今この夜を壊してしまう気がした。
その静けさを乱すには、あまりにも空気が繊細すぎた。
ただの沈黙ではなかった。
これは、互いに“何も言わない”ことを選んでいる沈黙だった。

芳樹は目を閉じた。
闇のなかで、瞼の裏にうっすらと浮かぶ楷の姿は、濡れた髪と静かな横顔のままだった。
明かりの下では何も語らず、濡れた肌をタオルでぬぐう様子も、ただ静かで。
目を引かれる要素ばかりだったのに、本人は何も見せようとしていなかった。
ただそこにいるだけなのに、美しさがありすぎた。

「欲望を持たなかったこと。それが正しいはずなのに、なぜか、心に残っている」

何もしていない。
言葉をかけたわけでも、手を伸ばしたわけでもない。
ただ、黙って同じ空間にいた。
それだけの夜なのに、なぜこんなに胸に残っているのか。

これまでにも、誰かと同じ部屋に泊まることくらいはあった。
終電を逃した夜。打ち上げのあとの雑魚寝。
けれど、今夜のように、こんなにも“何も起こらなかった”ことが深く沈んでいく感覚はなかった。

ふと、布団の端がわずかに揺れた気がして、耳を澄ます。
楷の寝返りか、もしくは体が沈んだだけかもしれない。
それでも、今どんな顔をしているのかが気になった。
眠っているのか、起きているのか。
もし起きていたら、この沈黙をどう思っているのか。
そのどれもが、知りたくて、けれど怖かった。

触れなかったことが、間違っていたとは思わない。
むしろ、何かを守った気がした。
楷の輪郭なのか、自分の感情なのか、
それとも、ただの“ふたりの距離”なのか。

だがその“何も起きなかったこと”が、
まるで“なにか”を確かに抱きしめたような気がしてならなかった。
言葉では説明できない感覚が、胸の奥に静かに広がっていく。

目を閉じたまま、芳樹はそっと呼吸を深くした。
隣にいる人の眠りを壊さないように。
そして、自分の鼓動が響きすぎないように。

部屋のなかは、まだ沈黙していた。
けれどその沈黙は、どこかあたたかく、触れられない何かを確かに包んでいた。
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