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“されなかった”ことに救われた人
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シャワーの熱がまだ肌の奥に残っていた。
乾いたルームウェアを身につけても、布地の裏側にはじっとりと湯気の余韻がこもっていた。
髪はタオルで拭いたものの、完全には乾いていない。
うなじを伝う水滴が、ひとすじ背中をなぞって落ちていく。
その感覚すらも、どこか現実味を帯びていなかった。
部屋は暗く、ただひとつのナイトライトが橙色の光を絨毯に落としている。
ふたつ並んだベッドの片方に身を沈めながら、楷は天井を見上げた。
何も見えなかった。
見えなくてもよかった。
むしろ、何も見えないことで、ようやく深く息を吐ける気がした。
横になる前に、隣のベッドに寝ている芳樹の背中を、ほんの一瞬だけ視界の端にとらえていた。
彼は動かなかった。
楷が出てきたとき、目を閉じていた。
たぶん眠っていた。
あるいは、眠ったふりをしていた。
どちらにせよ、その静けさが心地よかった。
楷はベッドの中でそっと丸くなった。
肩を布団にくるみ、胸のあたりまで掛け布を引き上げる。
湿った髪の毛先が首筋に貼りつくのを、そのままにした。
「何もされなかった」
心の中でそうつぶやいた。
それは責める言葉ではなかった。
どちらかといえば、安堵に近い響きだった。
期待していたわけじゃない。
むしろ、また“そうなるかもしれない”という構えは、どこかにあった。
これまでの経験がそうだったから。
同性でも異性でも、同じ部屋に泊まるというだけで、身体に向けられる視線の熱を感じてきた。
求められることが、役割になっていた。
自分からそう仕向けたこともあった。
その方が、分かりやすかったから。
身体のどこかに欲望が当てられていれば、関係の輪郭ははっきりする。
存在の理由がそこに固定されるから、簡単だった。
でも今夜は、違った。
「それだけなのに、安心した自分がいる」
その感情は思いがけず静かだった。
押し寄せるようなものではなく、ぬるま湯のようにじわりと満ちてくる。
不安の隙間を埋めていくのではなく、空っぽのままでいてもいいと許されたような気がした。
「この人だけは、“触れてこない”」
思った瞬間、少しだけ喉が熱くなった。
それがうれしいことなのか、悲しいことなのかは分からなかった。
けれど、それが“楷という存在”を壊さずにいてくれることだけは、確かだった。
性別を問われないことは少なかった。
男か女か。受けか攻めか。
セクシャルな文脈において、必ずどちらかに位置づけられる。
それが不自然ではない世界のなかで、楷はいつも選ばれる側だった。
求められた形にあわせて、自分を“当てはめる”ことで役割をこなしてきた。
でも今夜は、なににも当てはめられなかった。
ただ、隣に誰かがいて、何も起こらず、何も問われなかった。
その無言のままに許された空気が、静かに楷の内側を満たしていた。
「自分が“求められる体”じゃなくても、黙ってここにいられる気がした」
そのことに、救われた。
どれだけ綺麗だと言われても、それが“性的な意味で”だと気づくたび、どこかで心が削れていた。
欲望を向けられるほどに、心は遠ざかっていった。
抱かれることで“役に立てた”と錯覚する代わりに、自分の存在はいつも薄くなった。
でも今夜は違う。
何もされなかった。
何も言われなかった。
けれど、そのことで、今まででいちばん“ここにいていい”と感じられた。
布団の中で、楷はようやく目を閉じた。
眠れるかどうかは分からない。
けれどこの夜が、何も起こらなかったという事実が、
心のどこかで確かに体温として残っていた。
乾いたルームウェアを身につけても、布地の裏側にはじっとりと湯気の余韻がこもっていた。
髪はタオルで拭いたものの、完全には乾いていない。
うなじを伝う水滴が、ひとすじ背中をなぞって落ちていく。
その感覚すらも、どこか現実味を帯びていなかった。
部屋は暗く、ただひとつのナイトライトが橙色の光を絨毯に落としている。
ふたつ並んだベッドの片方に身を沈めながら、楷は天井を見上げた。
何も見えなかった。
見えなくてもよかった。
むしろ、何も見えないことで、ようやく深く息を吐ける気がした。
横になる前に、隣のベッドに寝ている芳樹の背中を、ほんの一瞬だけ視界の端にとらえていた。
彼は動かなかった。
楷が出てきたとき、目を閉じていた。
たぶん眠っていた。
あるいは、眠ったふりをしていた。
どちらにせよ、その静けさが心地よかった。
楷はベッドの中でそっと丸くなった。
肩を布団にくるみ、胸のあたりまで掛け布を引き上げる。
湿った髪の毛先が首筋に貼りつくのを、そのままにした。
「何もされなかった」
心の中でそうつぶやいた。
それは責める言葉ではなかった。
どちらかといえば、安堵に近い響きだった。
期待していたわけじゃない。
むしろ、また“そうなるかもしれない”という構えは、どこかにあった。
これまでの経験がそうだったから。
同性でも異性でも、同じ部屋に泊まるというだけで、身体に向けられる視線の熱を感じてきた。
求められることが、役割になっていた。
自分からそう仕向けたこともあった。
その方が、分かりやすかったから。
身体のどこかに欲望が当てられていれば、関係の輪郭ははっきりする。
存在の理由がそこに固定されるから、簡単だった。
でも今夜は、違った。
「それだけなのに、安心した自分がいる」
その感情は思いがけず静かだった。
押し寄せるようなものではなく、ぬるま湯のようにじわりと満ちてくる。
不安の隙間を埋めていくのではなく、空っぽのままでいてもいいと許されたような気がした。
「この人だけは、“触れてこない”」
思った瞬間、少しだけ喉が熱くなった。
それがうれしいことなのか、悲しいことなのかは分からなかった。
けれど、それが“楷という存在”を壊さずにいてくれることだけは、確かだった。
性別を問われないことは少なかった。
男か女か。受けか攻めか。
セクシャルな文脈において、必ずどちらかに位置づけられる。
それが不自然ではない世界のなかで、楷はいつも選ばれる側だった。
求められた形にあわせて、自分を“当てはめる”ことで役割をこなしてきた。
でも今夜は、なににも当てはめられなかった。
ただ、隣に誰かがいて、何も起こらず、何も問われなかった。
その無言のままに許された空気が、静かに楷の内側を満たしていた。
「自分が“求められる体”じゃなくても、黙ってここにいられる気がした」
そのことに、救われた。
どれだけ綺麗だと言われても、それが“性的な意味で”だと気づくたび、どこかで心が削れていた。
欲望を向けられるほどに、心は遠ざかっていった。
抱かれることで“役に立てた”と錯覚する代わりに、自分の存在はいつも薄くなった。
でも今夜は違う。
何もされなかった。
何も言われなかった。
けれど、そのことで、今まででいちばん“ここにいていい”と感じられた。
布団の中で、楷はようやく目を閉じた。
眠れるかどうかは分からない。
けれどこの夜が、何も起こらなかったという事実が、
心のどこかで確かに体温として残っていた。
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