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何もされなかった夜のあと
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分かってはいた。
誰とも触れ合わなかった夜が、久しぶりだったことを。
楷は自分の体が隣にあるというだけで、多くの場合は相手の“欲情”と見られることに慣れていた。
それを不快だと思わないようにしてきたし、時にはむしろ、自分の存在価値をそれで測っていた部分さえあった。
あの夜。
ホテルのツインルームで、楷は芳樹と向かい合わなかった。
言葉も交わさず、ただ、黙って同じ空間にいた。
そして、何も起こらなかった。
横になったとき、楷は身構えていた。
意識していたわけではない。
でも、どこかで“触れられるかもしれない”という予感があった。
過去の記憶が、そうした予兆を読み取る癖をつけていたからだ。
一緒に泊まる、というだけで、身体は自動的に“何かがあるかもしれない”という想定のもとに準備を始めてしまう。
けれど、芳樹は何もしなかった。
ベッドに横になり、背を向けたまま、それきり動かなかった。
それが逆に、不自然に感じるほどだった。
“何か”をされなかったことで、最初は戸惑いがあった。
「…俺は、そういう対象にさえならなかった?」
思ったことの一つは、それだった。
求められなかった。
見られてもいたし、隣にいたのに。
それは、拒絶に近い意味かもしれないと、一瞬考えた。
けれど、眠りの浅い夜のなかで、時間がゆっくりと身体をほどいていくと、違う感覚が残った。
何もされなかったことが、奇妙なほど“嫌ではなかった”。
むしろ、布団の中で丸まったまま眠ることを許されたことに、
自分でも説明のつかない安堵があった。
その感覚は、あとからじわじわと染みてきた。
出張が終わって数日が経ち、通常の勤務に戻っても、ふとした瞬間に思い出してしまう。
あの夜のホテルの空気。
閉じられたカーテンの奥、聞こえるのはエアコンの送風音と、わずかな衣擦れ。
静かで、何もなかった空間。
けれど、なぜか“確かに誰かと一緒にいた”という感覚だけが残っている。
楷は、それを何度も自分の中で反芻した。
触れられないまま、隣にいた。
それだけのことが、なぜこんなにも心に引っかかるのか。
誰かと寝て、快楽を分かち合っても、
そのあとの空間はどこか虚しかった。
賑やかなはずの沈黙が、いつも早く終わってほしいと思っていた。
けれど、あの夜の沈黙は、どこか温度を持っていた。
「俺は、何かにならなくても、ここにいられたのかもしれない」
ふと思ったその言葉に、自分自身がいちばん驚いた。
“役割”を担わなくても、
“性的に期待される存在”でなくても、
そばにいられる関係が、あるのかもしれないと、
ほんの一瞬だけ信じそうになった。
それは、確信ではなかった。
ただの可能性だった。
けれど、楷にとっては、それだけでも十分だった。
自分の存在に何かを貼り付けなくてもいい夜が、
この人との間にはあったという、その記憶だけで。
それが、何日もあとになってから、
楷の心のなかで、あるひとつの衝動に変わっていく。
「…もう一度だけ、近づいてみたらどうなるんだろう」
身体を差し出すことではない。
与えるでも、与えられるでもなく、
ただ、存在をそっと隣に置くような。
そんな関係が、成り立つのだろうか。
楷は自分でも気づかぬうちに、
会社で芳樹のネクタイのゆるみを整えたり、
階段の踊り場で目が合ったときに、わずかに微笑み返したりしていた。
これまでなら、絶対にしなかったこと。
理由は説明できない。
けれど、それらの一つひとつが、
“もう少しだけ近づいてもいいかもしれない”という合図だった。
“触れられない”という事実が、
“守られた”という実感に変わったとき、
楷の中に、小さな予感が芽生えていた。
それが、この人となら、
触れ合ったあとでも“何かが残る”かもしれない──
そう思えてしまったことが、
すべての始まりだった。
誰とも触れ合わなかった夜が、久しぶりだったことを。
楷は自分の体が隣にあるというだけで、多くの場合は相手の“欲情”と見られることに慣れていた。
それを不快だと思わないようにしてきたし、時にはむしろ、自分の存在価値をそれで測っていた部分さえあった。
あの夜。
ホテルのツインルームで、楷は芳樹と向かい合わなかった。
言葉も交わさず、ただ、黙って同じ空間にいた。
そして、何も起こらなかった。
横になったとき、楷は身構えていた。
意識していたわけではない。
でも、どこかで“触れられるかもしれない”という予感があった。
過去の記憶が、そうした予兆を読み取る癖をつけていたからだ。
一緒に泊まる、というだけで、身体は自動的に“何かがあるかもしれない”という想定のもとに準備を始めてしまう。
けれど、芳樹は何もしなかった。
ベッドに横になり、背を向けたまま、それきり動かなかった。
それが逆に、不自然に感じるほどだった。
“何か”をされなかったことで、最初は戸惑いがあった。
「…俺は、そういう対象にさえならなかった?」
思ったことの一つは、それだった。
求められなかった。
見られてもいたし、隣にいたのに。
それは、拒絶に近い意味かもしれないと、一瞬考えた。
けれど、眠りの浅い夜のなかで、時間がゆっくりと身体をほどいていくと、違う感覚が残った。
何もされなかったことが、奇妙なほど“嫌ではなかった”。
むしろ、布団の中で丸まったまま眠ることを許されたことに、
自分でも説明のつかない安堵があった。
その感覚は、あとからじわじわと染みてきた。
出張が終わって数日が経ち、通常の勤務に戻っても、ふとした瞬間に思い出してしまう。
あの夜のホテルの空気。
閉じられたカーテンの奥、聞こえるのはエアコンの送風音と、わずかな衣擦れ。
静かで、何もなかった空間。
けれど、なぜか“確かに誰かと一緒にいた”という感覚だけが残っている。
楷は、それを何度も自分の中で反芻した。
触れられないまま、隣にいた。
それだけのことが、なぜこんなにも心に引っかかるのか。
誰かと寝て、快楽を分かち合っても、
そのあとの空間はどこか虚しかった。
賑やかなはずの沈黙が、いつも早く終わってほしいと思っていた。
けれど、あの夜の沈黙は、どこか温度を持っていた。
「俺は、何かにならなくても、ここにいられたのかもしれない」
ふと思ったその言葉に、自分自身がいちばん驚いた。
“役割”を担わなくても、
“性的に期待される存在”でなくても、
そばにいられる関係が、あるのかもしれないと、
ほんの一瞬だけ信じそうになった。
それは、確信ではなかった。
ただの可能性だった。
けれど、楷にとっては、それだけでも十分だった。
自分の存在に何かを貼り付けなくてもいい夜が、
この人との間にはあったという、その記憶だけで。
それが、何日もあとになってから、
楷の心のなかで、あるひとつの衝動に変わっていく。
「…もう一度だけ、近づいてみたらどうなるんだろう」
身体を差し出すことではない。
与えるでも、与えられるでもなく、
ただ、存在をそっと隣に置くような。
そんな関係が、成り立つのだろうか。
楷は自分でも気づかぬうちに、
会社で芳樹のネクタイのゆるみを整えたり、
階段の踊り場で目が合ったときに、わずかに微笑み返したりしていた。
これまでなら、絶対にしなかったこと。
理由は説明できない。
けれど、それらの一つひとつが、
“もう少しだけ近づいてもいいかもしれない”という合図だった。
“触れられない”という事実が、
“守られた”という実感に変わったとき、
楷の中に、小さな予感が芽生えていた。
それが、この人となら、
触れ合ったあとでも“何かが残る”かもしれない──
そう思えてしまったことが、
すべての始まりだった。
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