28 / 66
触れることを“訊かないで”と言った
しおりを挟む
歩道を濡らす雨は、細いまま止む気配がなかった。
金曜の夜、傘の下で足並みを揃えるふたりは、喧騒から少しだけ外れた脇道に差しかかっていた。
駅前の明かりが背後に遠ざかり、街灯の灯りは徐々に数を減らし、歩道には雨粒の音がよく響くようになっていく。
前を歩く楷が、ふと歩幅をゆるめた。
芳樹は無意識に合わせる。
ほんのわずか、傘が内側に傾いた。
その動きが何を意味するかを考えるより先に、楷が言った。
「予約、してあります」
小さな声だった。
ふたりの間を吹き抜けるように通り過ぎていく言葉。
抑揚がなく、ただ事実だけを伝えるような口調だった。
その直後、芳樹の足が止まった。
「……ホテルの、ってことか」
問い返す代わりに、確認のように言葉を投げた。
楷は横を向かない。
傘の奥、濡れたアスファルトを見つめたまま、ただ頷いた。
その動きは小さくて、雨音にかき消されてしまいそうだった。
芳樹は、一歩後ろへ引いた。
ふたりの間に空気の層ができる。
そして言った。
「……理由を訊いても、いいか」
声に感情を込めたつもりはなかったが、ほんのわずか掠れた。
楷はその一言に、やっと顔を上げた。
真正面を向いたその目は、どこか遠くを見ているようで、それでも確かに芳樹を見ていた。
長い睫毛の奥に影が落ちている。
唇がかすかに動き、息を吸って、そして静かに答えが返された。
「……訊かないでくれたら、嬉しいです」
その言葉は、拒絶ではなかった。
けれど、受け入れでもなかった。
ただの“願い”だった。
それだけが、まっすぐに響いた。
芳樹はしばらくその顔を見つめていた。
何かを読み取ろうとしていたのかもしれない。
しかし、言葉の裏側に踏み込むことをやめて、ただ頷いた。
「わかった」
それだけを残して、ふたたび歩き出す。
傘の下、ふたりの距離はもう少し近づいていた。
肩が触れることはなかったが、歩調は自然に揃っていた。
ホテルまでの道のりは、それほど遠くなかった。
繁華街の喧騒を避けるように、一本奥の通りを選ぶ。
足元に広がる照り返しが、ビルのネオンを濁して映していた。
雨に濡れた舗道の上を、ふたりの影が重なったり離れたりを繰り返す。
信号待ちの間、ふと横顔を見た。
楷は変わらず前を向いたまま、何も言わなかった。
傘を持つ手に余計な力は入っていない。
だがその反対の手は、ポケットの中で静かに握られているように思えた。
手を伸ばすことはできなかった。
触れたい、という衝動ではなかった。
それでも今この瞬間、同じ歩幅で隣にいることに、確かな意味があるような気がしていた。
灯りがにじむアスファルトを踏みしめながら、
ふたりは何も語らずに歩き続けた。
傘の下にある静けさだけが、互いの呼吸を包んでいた。
ホテルの看板が、遠くに見え始めた。
その文字が、ゆっくりと滲んでいく。
雨はなお止まなかったが、不思議と濡れることが怖くなかった。
訊かないで、と言われた言葉の意味が、胸の奥でゆっくりと広がっていた。
理由がないのではなく、言葉にしたくなかっただけなのだろう。
言葉にした瞬間、壊れてしまう何かがあることを、芳樹も知っていた。
その夜のはじまりは、たった一つの沈黙からできていた。
その沈黙を壊さないまま、ふたりはホテルの明かりのもとへと進んでいった。
金曜の夜、傘の下で足並みを揃えるふたりは、喧騒から少しだけ外れた脇道に差しかかっていた。
駅前の明かりが背後に遠ざかり、街灯の灯りは徐々に数を減らし、歩道には雨粒の音がよく響くようになっていく。
前を歩く楷が、ふと歩幅をゆるめた。
芳樹は無意識に合わせる。
ほんのわずか、傘が内側に傾いた。
その動きが何を意味するかを考えるより先に、楷が言った。
「予約、してあります」
小さな声だった。
ふたりの間を吹き抜けるように通り過ぎていく言葉。
抑揚がなく、ただ事実だけを伝えるような口調だった。
その直後、芳樹の足が止まった。
「……ホテルの、ってことか」
問い返す代わりに、確認のように言葉を投げた。
楷は横を向かない。
傘の奥、濡れたアスファルトを見つめたまま、ただ頷いた。
その動きは小さくて、雨音にかき消されてしまいそうだった。
芳樹は、一歩後ろへ引いた。
ふたりの間に空気の層ができる。
そして言った。
「……理由を訊いても、いいか」
声に感情を込めたつもりはなかったが、ほんのわずか掠れた。
楷はその一言に、やっと顔を上げた。
真正面を向いたその目は、どこか遠くを見ているようで、それでも確かに芳樹を見ていた。
長い睫毛の奥に影が落ちている。
唇がかすかに動き、息を吸って、そして静かに答えが返された。
「……訊かないでくれたら、嬉しいです」
その言葉は、拒絶ではなかった。
けれど、受け入れでもなかった。
ただの“願い”だった。
それだけが、まっすぐに響いた。
芳樹はしばらくその顔を見つめていた。
何かを読み取ろうとしていたのかもしれない。
しかし、言葉の裏側に踏み込むことをやめて、ただ頷いた。
「わかった」
それだけを残して、ふたたび歩き出す。
傘の下、ふたりの距離はもう少し近づいていた。
肩が触れることはなかったが、歩調は自然に揃っていた。
ホテルまでの道のりは、それほど遠くなかった。
繁華街の喧騒を避けるように、一本奥の通りを選ぶ。
足元に広がる照り返しが、ビルのネオンを濁して映していた。
雨に濡れた舗道の上を、ふたりの影が重なったり離れたりを繰り返す。
信号待ちの間、ふと横顔を見た。
楷は変わらず前を向いたまま、何も言わなかった。
傘を持つ手に余計な力は入っていない。
だがその反対の手は、ポケットの中で静かに握られているように思えた。
手を伸ばすことはできなかった。
触れたい、という衝動ではなかった。
それでも今この瞬間、同じ歩幅で隣にいることに、確かな意味があるような気がしていた。
灯りがにじむアスファルトを踏みしめながら、
ふたりは何も語らずに歩き続けた。
傘の下にある静けさだけが、互いの呼吸を包んでいた。
ホテルの看板が、遠くに見え始めた。
その文字が、ゆっくりと滲んでいく。
雨はなお止まなかったが、不思議と濡れることが怖くなかった。
訊かないで、と言われた言葉の意味が、胸の奥でゆっくりと広がっていた。
理由がないのではなく、言葉にしたくなかっただけなのだろう。
言葉にした瞬間、壊れてしまう何かがあることを、芳樹も知っていた。
その夜のはじまりは、たった一つの沈黙からできていた。
その沈黙を壊さないまま、ふたりはホテルの明かりのもとへと進んでいった。
10
あなたにおすすめの小説
余命半年の俺を、手酷く振ったはずの元カレ二人が手を組んで逃がしてくれません
ユッキー
BL
半年以内に俺は一人寂しく死ぬ。そんな未来を視た。きっと誰も悲しむ人は居ないだろう。そう思っていたから何も怖くなかった。なのにそんな俺の元に過去手酷く振り、今では世界的スターとなった元カレ二人がやってきた。彼らは全てを知っていた。俺がどうして彼らを振ったのか、そして俺の余命も。
全てを諦めた主人公と、主人公を諦めきれないイケメンサッカー選手とシンガーソングライターの再会が導く未来は?
幼馴染がいじめるのは俺だ!
むすめっすめ
BL
幼馴染が俺の事いじめてたのは、好きな子いじめちゃうやつだと思ってたのに...
「好きな奴に言われたんだ...幼馴染いじめるのとかガキみてーだって...」
「はっ...ぁ??」
好きな奴って俺じゃないの___!?
ただのいじめっ子×勘違いいじめられっ子
ーーーーーー
主人公 いじめられっ子
小鳥遊洸人
タカナシ ヒロト
小学生の頃から幼馴染の神宮寺 千透星にいじめられている。
姉の助言(?)から千透星が自分のこといじめるのは小学生特有の“好きな子いじめちゃうヤツ“だと思い込むようになり、そんな千透星を、可愛いじゃん...?と思っていた。
高校で初めて千透星に好きな人が出来たことを知ったことから、
脳破壊。
千透星への恋心を自覚する。
幼馴染 いじめっ子
神宮寺 千透星
ジングウジ チトセ
小学生の頃から幼馴染の小鳥遊 洸人をいじめている。
美形であり、陰キャの洸人とは違い周りに人が集まりやすい。(洸人は千透星がわざと自分の周りに集まらないように牽制していると勘違いしている)
転校生の須藤千尋が初恋である
Candy pop〜Bitter&Sweet
義井 映日
BL
完結済み作品。全6話。番外編1本追加!
「185cmの看板男」が、たった一人の恋人の前で理性を失う。
――三ヶ月の禁欲を経て、その愛は甘く、激しく、暴走する。
「あらすじ」
大学の「看板男」こと安達大介は、後輩の一之瀬功(いちのせ こう)を溺愛している。
ついに迎えた初めての夜。しかし、安達の圧倒的な「雄」の迫力に、功は恐怖して逃げ出してしまう。
「――お前は俺を狂わせる毒だと思ってた」
絶望した安達と、愛しているのに身体が竦む功。
三ヶ月の育みを経て、到達した二人の「じれったい禁欲生活」の行方は?
看板男の仮面が剥がれるとき、世界で一番甘い夜が始まる。
お話が気に入った、面白かった、と思ってくださったら、お気に入り登録、いいね、をお願い致します!
作者の励みになります!!
脱落モブ男が人気アイドルに愛されるわけがない
綿毛ぽぽ
BL
アイドルを夢見るも、デビューできずオーディション番組に出演しても脱落ばかりの地味男、亀谷日翔はついに夢を諦めた。そしてひょんなことから事務所にあるカフェで働き始めると、かつて出演していた番組のデビューメンバーと再会する。テレビでも引っ張りだこで相変わらずビジュアルが強い二人は何故か俺に対して距離が近い。
━━━━━━━━━━━
現役人気アイドル×脱落モブ男
表紙はくま様からお借りしました
https://www.pixiv.net/artworks/84182395
【完結・BL】俺をフッた初恋相手が、転勤して上司になったんだが?【先輩×後輩】
彩華
BL
『俺、そんな目でお前のこと見れない』
高校一年の冬。俺の初恋は、見事に玉砕した。
その後、俺は見事にDTのまま。あっという間に25になり。何の変化もないまま、ごくごくありふれたサラリーマンになった俺。
そんな俺の前に、運命の悪戯か。再び初恋相手は現れて────!?
僕の恋人は、超イケメン!!
八乙女 忍
BL
僕は、普通の高校2年生。そんな僕にある日恋人ができた!それは超イケメンのモテモテ男子、あまりにもモテるため女の子に嫌気をさして、偽者の恋人同士になってほしいとお願いされる。最初は、嘘から始まった恋人ごっこがだんだん本気になっていく。お互いに本気になっていくが・・・二人とも、どうすれば良いのかわからない。この後、僕たちはどうなって行くのかな?
思い出して欲しい二人
春色悠
BL
喫茶店でアルバイトをしている鷹木翠(たかぎ みどり)。ある日、喫茶店に初恋の人、白河朱鳥(しらかわ あすか)が女性を伴って入ってきた。しかも朱鳥は翠の事を覚えていない様で、幼い頃の約束をずっと覚えていた翠はショックを受ける。
そして恋心を忘れようと努力するが、昔と変わったのに変わっていない朱鳥に寧ろ、どんどん惚れてしまう。
一方朱鳥は、バッチリと翠の事を覚えていた。まさか取引先との昼食を食べに行った先で、再会すると思わず、緩む頬を引き締めて翠にかっこいい所を見せようと頑張ったが、翠は朱鳥の事を覚えていない様。それでも全く愛が冷めず、今度は本当に結婚するために翠を落としにかかる。
そんな二人の、もだもだ、じれったい、さっさとくっつけ!と、言いたくなるようなラブロマンス。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる