誰と寝ても、俺はいなかったー性のどこにも属せなかった俺が、たった一人にだけ愛された夜

中岡 始

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触れることを“訊かないで”と言った

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歩道を濡らす雨は、細いまま止む気配がなかった。
金曜の夜、傘の下で足並みを揃えるふたりは、喧騒から少しだけ外れた脇道に差しかかっていた。
駅前の明かりが背後に遠ざかり、街灯の灯りは徐々に数を減らし、歩道には雨粒の音がよく響くようになっていく。

前を歩く楷が、ふと歩幅をゆるめた。
芳樹は無意識に合わせる。
ほんのわずか、傘が内側に傾いた。
その動きが何を意味するかを考えるより先に、楷が言った。

「予約、してあります」

小さな声だった。
ふたりの間を吹き抜けるように通り過ぎていく言葉。
抑揚がなく、ただ事実だけを伝えるような口調だった。
その直後、芳樹の足が止まった。

「……ホテルの、ってことか」

問い返す代わりに、確認のように言葉を投げた。
楷は横を向かない。
傘の奥、濡れたアスファルトを見つめたまま、ただ頷いた。
その動きは小さくて、雨音にかき消されてしまいそうだった。

芳樹は、一歩後ろへ引いた。
ふたりの間に空気の層ができる。
そして言った。

「……理由を訊いても、いいか」

声に感情を込めたつもりはなかったが、ほんのわずか掠れた。
楷はその一言に、やっと顔を上げた。
真正面を向いたその目は、どこか遠くを見ているようで、それでも確かに芳樹を見ていた。

長い睫毛の奥に影が落ちている。
唇がかすかに動き、息を吸って、そして静かに答えが返された。

「……訊かないでくれたら、嬉しいです」

その言葉は、拒絶ではなかった。
けれど、受け入れでもなかった。
ただの“願い”だった。
それだけが、まっすぐに響いた。

芳樹はしばらくその顔を見つめていた。
何かを読み取ろうとしていたのかもしれない。
しかし、言葉の裏側に踏み込むことをやめて、ただ頷いた。

「わかった」

それだけを残して、ふたたび歩き出す。
傘の下、ふたりの距離はもう少し近づいていた。
肩が触れることはなかったが、歩調は自然に揃っていた。

ホテルまでの道のりは、それほど遠くなかった。
繁華街の喧騒を避けるように、一本奥の通りを選ぶ。
足元に広がる照り返しが、ビルのネオンを濁して映していた。
雨に濡れた舗道の上を、ふたりの影が重なったり離れたりを繰り返す。

信号待ちの間、ふと横顔を見た。
楷は変わらず前を向いたまま、何も言わなかった。
傘を持つ手に余計な力は入っていない。
だがその反対の手は、ポケットの中で静かに握られているように思えた。

手を伸ばすことはできなかった。
触れたい、という衝動ではなかった。
それでも今この瞬間、同じ歩幅で隣にいることに、確かな意味があるような気がしていた。

灯りがにじむアスファルトを踏みしめながら、
ふたりは何も語らずに歩き続けた。
傘の下にある静けさだけが、互いの呼吸を包んでいた。

ホテルの看板が、遠くに見え始めた。
その文字が、ゆっくりと滲んでいく。
雨はなお止まなかったが、不思議と濡れることが怖くなかった。

訊かないで、と言われた言葉の意味が、胸の奥でゆっくりと広がっていた。
理由がないのではなく、言葉にしたくなかっただけなのだろう。
言葉にした瞬間、壊れてしまう何かがあることを、芳樹も知っていた。

その夜のはじまりは、たった一つの沈黙からできていた。
その沈黙を壊さないまま、ふたりはホテルの明かりのもとへと進んでいった。
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