誰と寝ても、俺はいなかったー性のどこにも属せなかった俺が、たった一人にだけ愛された夜

中岡 始

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“訊かない”ことが、いちばんの理解だった

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ドアが閉まる音が、乾いた空気のなかに静かに響いた。
外とは別の静寂が、この部屋にはあった。
壁に反射する照明のやわらかな灯りも、家具の輪郭も、すべてが整いすぎていて、生活の気配よりも“呼吸の音”の方が先に感じられた。

楷は玄関を抜けると、すぐにはキッチンにも、リビングの奥にも向かわなかった。
背中越しに芳樹の気配を感じながら、しばらくその場で足を止めていた。

靴を脱ぐ音。スーツの生地が擦れるかすかな気配。
視線は背後に向けなかったが、その気配だけで、芳樹がちゃんとそこにいることがわかった。

ソファのそばまで歩き、リビングの真ん中に立ち止まる。
水も用意していない。ジャケットもまだ脱いでいない。
けれど、それらより先に、楷は身体のどこかで決まっていた言葉を押し出すようにして口を開いた。

「何も言わなくていいので……隣、来てくれませんか」

思ったより、声は小さかった。
それでも、部屋の静けさがすべての音を受け止めてくれていた。
喉の奥に少しだけ引っかかったようなその響きには、わずかな躊躇と、確かな決意が同時に宿っていた。

振り返らずとも、その言葉が空気を変えたのがわかった。
目の前の空間が、少しだけ深く沈んだような感覚。
気圧ではない、湿度でもない。
それはきっと、楷が差し出した“なにも要求しないお願い”が持つ、重みだった。

しばらくの沈黙のあと、足音が近づいてきた。
その音も、楷には聞こえていた。
だが、顔は向けないまま、息をひとつ吸って整える。

ソファの隣に重みが加わったのは、それからほんの数秒後だった。
柔らかい座面が沈み、空気がゆるやかに楷の側へと動いた。

言葉はなかった。
それでも、それ以上の返事は必要なかった。
芳樹が、隣に“いてくれた”という事実だけで、楷の胸はじわりと満たされていった。

視線は交わさなかった。
それが、どれだけ救いだったか、楷は自分でも驚くほどはっきりと自覚していた。

正面から何かを訊かれたら、答えられなかった。
今夜どうして誘ったのか。何を求めているのか。
そういうことを、言葉で説明しなければならないとしたら、きっと楷はまた、自分のなかに言い訳を探してしまっただろう。

だが、芳樹は何も訊かなかった。
ただ隣に腰を下ろし、それ以上、踏み込むことも、遠ざかることもせずにいてくれた。

それだけで、充分だった。

楷はそっと身体を寄せた。
密着するほどの距離ではない。
けれど、肩がかすかに触れるような、ほんのわずかな傾きだけで、肌の表面に感覚が灯っていく。

この人の体温は、触れても触れなくても、わかる。
それがどこかで怖くて、でも、もう一度だけ確かめたかった。

右手をわずかに動かす。けれど、手は繋がなかった。
繋ぎたくなかったのではない。
繋いでしまったら、何かが壊れてしまいそうだった。
だから、そっと自分の膝の上に置いたままにして、ただ静かにその存在を感じ取ることにした。

この沈黙のなかにだけ、救われるものがある。
言葉で説明されないからこそ、守られている輪郭がある。

今まで、誰かといても、こういう時間はなかった。
何かを求められ、与える側になって、あるいは与えられるふりをして、
それでも本当は、ただ、こうして誰かに“触れられずに隣にいられること”を欲しがっていた。

欲しいのは、慰めでも、肯定でも、所有でもなかった。

ただ、訊かれないこと。

「なんで」
「どうして」
「どこまでいきたいの」
「俺のこと、どう思ってるの」

そのどれもを投げかけられないことでしか、自分の輪郭は守れなかった。
それは逃げかもしれない。けれど、それすらも自分の一部だった。

だから、いま。
芳樹が、何も言わずにいてくれるということが、どれほど楷にとって大きなことだったか。
それは、まるで見えない毛布のように、心の一番奥にやさしく重なっていく。

楷は静かに目を閉じた。
隣にある温度が、ほんの少しだけ、肌の表面をあたためる。
それだけのことで、涙が出そうになるのをこらえる。

身体が震えたわけではない。
ただ、まぶたの裏にうっすらと湿り気が生まれた。
それを拭おうとは思わなかった。
なかったふりもしなかった。

こうして、何も訊かれずにいられる時間のなかで、
楷はようやく、自分という存在を誰かに許されている気がしていた。

その感覚は、記憶のどこを探しても、見つけられなかったものだった。
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