44 / 66
“訊かない”ことが、いちばんの理解だった
しおりを挟む
ドアが閉まる音が、乾いた空気のなかに静かに響いた。
外とは別の静寂が、この部屋にはあった。
壁に反射する照明のやわらかな灯りも、家具の輪郭も、すべてが整いすぎていて、生活の気配よりも“呼吸の音”の方が先に感じられた。
楷は玄関を抜けると、すぐにはキッチンにも、リビングの奥にも向かわなかった。
背中越しに芳樹の気配を感じながら、しばらくその場で足を止めていた。
靴を脱ぐ音。スーツの生地が擦れるかすかな気配。
視線は背後に向けなかったが、その気配だけで、芳樹がちゃんとそこにいることがわかった。
ソファのそばまで歩き、リビングの真ん中に立ち止まる。
水も用意していない。ジャケットもまだ脱いでいない。
けれど、それらより先に、楷は身体のどこかで決まっていた言葉を押し出すようにして口を開いた。
「何も言わなくていいので……隣、来てくれませんか」
思ったより、声は小さかった。
それでも、部屋の静けさがすべての音を受け止めてくれていた。
喉の奥に少しだけ引っかかったようなその響きには、わずかな躊躇と、確かな決意が同時に宿っていた。
振り返らずとも、その言葉が空気を変えたのがわかった。
目の前の空間が、少しだけ深く沈んだような感覚。
気圧ではない、湿度でもない。
それはきっと、楷が差し出した“なにも要求しないお願い”が持つ、重みだった。
しばらくの沈黙のあと、足音が近づいてきた。
その音も、楷には聞こえていた。
だが、顔は向けないまま、息をひとつ吸って整える。
ソファの隣に重みが加わったのは、それからほんの数秒後だった。
柔らかい座面が沈み、空気がゆるやかに楷の側へと動いた。
言葉はなかった。
それでも、それ以上の返事は必要なかった。
芳樹が、隣に“いてくれた”という事実だけで、楷の胸はじわりと満たされていった。
視線は交わさなかった。
それが、どれだけ救いだったか、楷は自分でも驚くほどはっきりと自覚していた。
正面から何かを訊かれたら、答えられなかった。
今夜どうして誘ったのか。何を求めているのか。
そういうことを、言葉で説明しなければならないとしたら、きっと楷はまた、自分のなかに言い訳を探してしまっただろう。
だが、芳樹は何も訊かなかった。
ただ隣に腰を下ろし、それ以上、踏み込むことも、遠ざかることもせずにいてくれた。
それだけで、充分だった。
楷はそっと身体を寄せた。
密着するほどの距離ではない。
けれど、肩がかすかに触れるような、ほんのわずかな傾きだけで、肌の表面に感覚が灯っていく。
この人の体温は、触れても触れなくても、わかる。
それがどこかで怖くて、でも、もう一度だけ確かめたかった。
右手をわずかに動かす。けれど、手は繋がなかった。
繋ぎたくなかったのではない。
繋いでしまったら、何かが壊れてしまいそうだった。
だから、そっと自分の膝の上に置いたままにして、ただ静かにその存在を感じ取ることにした。
この沈黙のなかにだけ、救われるものがある。
言葉で説明されないからこそ、守られている輪郭がある。
今まで、誰かといても、こういう時間はなかった。
何かを求められ、与える側になって、あるいは与えられるふりをして、
それでも本当は、ただ、こうして誰かに“触れられずに隣にいられること”を欲しがっていた。
欲しいのは、慰めでも、肯定でも、所有でもなかった。
ただ、訊かれないこと。
「なんで」
「どうして」
「どこまでいきたいの」
「俺のこと、どう思ってるの」
そのどれもを投げかけられないことでしか、自分の輪郭は守れなかった。
それは逃げかもしれない。けれど、それすらも自分の一部だった。
だから、いま。
芳樹が、何も言わずにいてくれるということが、どれほど楷にとって大きなことだったか。
それは、まるで見えない毛布のように、心の一番奥にやさしく重なっていく。
楷は静かに目を閉じた。
隣にある温度が、ほんの少しだけ、肌の表面をあたためる。
それだけのことで、涙が出そうになるのをこらえる。
身体が震えたわけではない。
ただ、まぶたの裏にうっすらと湿り気が生まれた。
それを拭おうとは思わなかった。
なかったふりもしなかった。
こうして、何も訊かれずにいられる時間のなかで、
楷はようやく、自分という存在を誰かに許されている気がしていた。
その感覚は、記憶のどこを探しても、見つけられなかったものだった。
外とは別の静寂が、この部屋にはあった。
壁に反射する照明のやわらかな灯りも、家具の輪郭も、すべてが整いすぎていて、生活の気配よりも“呼吸の音”の方が先に感じられた。
楷は玄関を抜けると、すぐにはキッチンにも、リビングの奥にも向かわなかった。
背中越しに芳樹の気配を感じながら、しばらくその場で足を止めていた。
靴を脱ぐ音。スーツの生地が擦れるかすかな気配。
視線は背後に向けなかったが、その気配だけで、芳樹がちゃんとそこにいることがわかった。
ソファのそばまで歩き、リビングの真ん中に立ち止まる。
水も用意していない。ジャケットもまだ脱いでいない。
けれど、それらより先に、楷は身体のどこかで決まっていた言葉を押し出すようにして口を開いた。
「何も言わなくていいので……隣、来てくれませんか」
思ったより、声は小さかった。
それでも、部屋の静けさがすべての音を受け止めてくれていた。
喉の奥に少しだけ引っかかったようなその響きには、わずかな躊躇と、確かな決意が同時に宿っていた。
振り返らずとも、その言葉が空気を変えたのがわかった。
目の前の空間が、少しだけ深く沈んだような感覚。
気圧ではない、湿度でもない。
それはきっと、楷が差し出した“なにも要求しないお願い”が持つ、重みだった。
しばらくの沈黙のあと、足音が近づいてきた。
その音も、楷には聞こえていた。
だが、顔は向けないまま、息をひとつ吸って整える。
ソファの隣に重みが加わったのは、それからほんの数秒後だった。
柔らかい座面が沈み、空気がゆるやかに楷の側へと動いた。
言葉はなかった。
それでも、それ以上の返事は必要なかった。
芳樹が、隣に“いてくれた”という事実だけで、楷の胸はじわりと満たされていった。
視線は交わさなかった。
それが、どれだけ救いだったか、楷は自分でも驚くほどはっきりと自覚していた。
正面から何かを訊かれたら、答えられなかった。
今夜どうして誘ったのか。何を求めているのか。
そういうことを、言葉で説明しなければならないとしたら、きっと楷はまた、自分のなかに言い訳を探してしまっただろう。
だが、芳樹は何も訊かなかった。
ただ隣に腰を下ろし、それ以上、踏み込むことも、遠ざかることもせずにいてくれた。
それだけで、充分だった。
楷はそっと身体を寄せた。
密着するほどの距離ではない。
けれど、肩がかすかに触れるような、ほんのわずかな傾きだけで、肌の表面に感覚が灯っていく。
この人の体温は、触れても触れなくても、わかる。
それがどこかで怖くて、でも、もう一度だけ確かめたかった。
右手をわずかに動かす。けれど、手は繋がなかった。
繋ぎたくなかったのではない。
繋いでしまったら、何かが壊れてしまいそうだった。
だから、そっと自分の膝の上に置いたままにして、ただ静かにその存在を感じ取ることにした。
この沈黙のなかにだけ、救われるものがある。
言葉で説明されないからこそ、守られている輪郭がある。
今まで、誰かといても、こういう時間はなかった。
何かを求められ、与える側になって、あるいは与えられるふりをして、
それでも本当は、ただ、こうして誰かに“触れられずに隣にいられること”を欲しがっていた。
欲しいのは、慰めでも、肯定でも、所有でもなかった。
ただ、訊かれないこと。
「なんで」
「どうして」
「どこまでいきたいの」
「俺のこと、どう思ってるの」
そのどれもを投げかけられないことでしか、自分の輪郭は守れなかった。
それは逃げかもしれない。けれど、それすらも自分の一部だった。
だから、いま。
芳樹が、何も言わずにいてくれるということが、どれほど楷にとって大きなことだったか。
それは、まるで見えない毛布のように、心の一番奥にやさしく重なっていく。
楷は静かに目を閉じた。
隣にある温度が、ほんの少しだけ、肌の表面をあたためる。
それだけのことで、涙が出そうになるのをこらえる。
身体が震えたわけではない。
ただ、まぶたの裏にうっすらと湿り気が生まれた。
それを拭おうとは思わなかった。
なかったふりもしなかった。
こうして、何も訊かれずにいられる時間のなかで、
楷はようやく、自分という存在を誰かに許されている気がしていた。
その感覚は、記憶のどこを探しても、見つけられなかったものだった。
17
あなたにおすすめの小説
余命半年の俺を、手酷く振ったはずの元カレ二人が手を組んで逃がしてくれません
ユッキー
BL
半年以内に俺は一人寂しく死ぬ。そんな未来を視た。きっと誰も悲しむ人は居ないだろう。そう思っていたから何も怖くなかった。なのにそんな俺の元に過去手酷く振り、今では世界的スターとなった元カレ二人がやってきた。彼らは全てを知っていた。俺がどうして彼らを振ったのか、そして俺の余命も。
全てを諦めた主人公と、主人公を諦めきれないイケメンサッカー選手とシンガーソングライターの再会が導く未来は?
幼馴染がいじめるのは俺だ!
むすめっすめ
BL
幼馴染が俺の事いじめてたのは、好きな子いじめちゃうやつだと思ってたのに...
「好きな奴に言われたんだ...幼馴染いじめるのとかガキみてーだって...」
「はっ...ぁ??」
好きな奴って俺じゃないの___!?
ただのいじめっ子×勘違いいじめられっ子
ーーーーーー
主人公 いじめられっ子
小鳥遊洸人
タカナシ ヒロト
小学生の頃から幼馴染の神宮寺 千透星にいじめられている。
姉の助言(?)から千透星が自分のこといじめるのは小学生特有の“好きな子いじめちゃうヤツ“だと思い込むようになり、そんな千透星を、可愛いじゃん...?と思っていた。
高校で初めて千透星に好きな人が出来たことを知ったことから、
脳破壊。
千透星への恋心を自覚する。
幼馴染 いじめっ子
神宮寺 千透星
ジングウジ チトセ
小学生の頃から幼馴染の小鳥遊 洸人をいじめている。
美形であり、陰キャの洸人とは違い周りに人が集まりやすい。(洸人は千透星がわざと自分の周りに集まらないように牽制していると勘違いしている)
転校生の須藤千尋が初恋である
Candy pop〜Bitter&Sweet
義井 映日
BL
完結済み作品。全6話。番外編1本追加!
「185cmの看板男」が、たった一人の恋人の前で理性を失う。
――三ヶ月の禁欲を経て、その愛は甘く、激しく、暴走する。
「あらすじ」
大学の「看板男」こと安達大介は、後輩の一之瀬功(いちのせ こう)を溺愛している。
ついに迎えた初めての夜。しかし、安達の圧倒的な「雄」の迫力に、功は恐怖して逃げ出してしまう。
「――お前は俺を狂わせる毒だと思ってた」
絶望した安達と、愛しているのに身体が竦む功。
三ヶ月の育みを経て、到達した二人の「じれったい禁欲生活」の行方は?
看板男の仮面が剥がれるとき、世界で一番甘い夜が始まる。
お話が気に入った、面白かった、と思ってくださったら、お気に入り登録、いいね、をお願い致します!
作者の励みになります!!
脱落モブ男が人気アイドルに愛されるわけがない
綿毛ぽぽ
BL
アイドルを夢見るも、デビューできずオーディション番組に出演しても脱落ばかりの地味男、亀谷日翔はついに夢を諦めた。そしてひょんなことから事務所にあるカフェで働き始めると、かつて出演していた番組のデビューメンバーと再会する。テレビでも引っ張りだこで相変わらずビジュアルが強い二人は何故か俺に対して距離が近い。
━━━━━━━━━━━
現役人気アイドル×脱落モブ男
表紙はくま様からお借りしました
https://www.pixiv.net/artworks/84182395
【完結・BL】俺をフッた初恋相手が、転勤して上司になったんだが?【先輩×後輩】
彩華
BL
『俺、そんな目でお前のこと見れない』
高校一年の冬。俺の初恋は、見事に玉砕した。
その後、俺は見事にDTのまま。あっという間に25になり。何の変化もないまま、ごくごくありふれたサラリーマンになった俺。
そんな俺の前に、運命の悪戯か。再び初恋相手は現れて────!?
僕の恋人は、超イケメン!!
八乙女 忍
BL
僕は、普通の高校2年生。そんな僕にある日恋人ができた!それは超イケメンのモテモテ男子、あまりにもモテるため女の子に嫌気をさして、偽者の恋人同士になってほしいとお願いされる。最初は、嘘から始まった恋人ごっこがだんだん本気になっていく。お互いに本気になっていくが・・・二人とも、どうすれば良いのかわからない。この後、僕たちはどうなって行くのかな?
思い出して欲しい二人
春色悠
BL
喫茶店でアルバイトをしている鷹木翠(たかぎ みどり)。ある日、喫茶店に初恋の人、白河朱鳥(しらかわ あすか)が女性を伴って入ってきた。しかも朱鳥は翠の事を覚えていない様で、幼い頃の約束をずっと覚えていた翠はショックを受ける。
そして恋心を忘れようと努力するが、昔と変わったのに変わっていない朱鳥に寧ろ、どんどん惚れてしまう。
一方朱鳥は、バッチリと翠の事を覚えていた。まさか取引先との昼食を食べに行った先で、再会すると思わず、緩む頬を引き締めて翠にかっこいい所を見せようと頑張ったが、翠は朱鳥の事を覚えていない様。それでも全く愛が冷めず、今度は本当に結婚するために翠を落としにかかる。
そんな二人の、もだもだ、じれったい、さっさとくっつけ!と、言いたくなるようなラブロマンス。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる