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夢見鳥(ゆめみどり)
若葉の子(1)
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刃物を向けられている。
いますぐ逃げなくてはならないのに、気が遠くなりそうだ。
はっはっと息切れして、体が震えてくる。
予期せず、手から鍵がすり抜ける。
コン、と音がした瞬間、アイスホッケーのような勢いで床を滑り、鍵はまっすぐ少年に向かう。
革のブーツの爪先に当たる寸前、それまでのスピードが嘘かと思うほど、ぴたりと止まった。
「お赦しください!」
少年はすばやく納刀したあと、両膝をついた。そして足元の鍵を避けるように膝を使って下がり、短剣を床に置いた。
なぜ謝るのか。この少年が誘拐犯なのだろうか。
少なくとも、敵意はないらしい。顔を伏せ、こちらの出方を待っている。ペンダントトップの牙が、床に当たりそうだ。
息を整えてから、鍵の手前まで歩み寄り、毛先からぽたぽたと雫がこぼれる緑の頭に対し、質問を投げかける。
「あなたが、私をさらったんですか」
「……と、尊き御身に否定をお返しする不敬を、謹んで、お詫び申し上げます。俺では……わたくしめでは、ございません」
十二、三歳くらいに見える少年は、床を見つめたまま、丁寧すぎる敬語で答えた。一部、ビジネスでもなかなか聞かない単語が混ざっていた。
「だったら、私を誘拐した人を知っていますか」
「重ねての不敬を、懺悔いたします。……恐れながら、存じ上げません」
「ここは、どこなんでしょうか」
「死なずの島の近海でございます」
「死なずの島?」
インパクトがある、知らない地名だ。ついオウム返しに繰り返すと、少年はびくっとして両手をつき、床に打ちつけかねない激しさで頭を下げた。
「痴かなことを申し上げました! どうか、どうか、お赦しを!」
「えっ、はい。別に怒ってませんので……」
「あ、あやに畏き御身のご寛容さに、しゃ、謝し奉り……」
この怯えよう。敬語がランクアップしていないか。横暴な貴族か王族だと思われているのだろうか。
問い詰める口調だったかもしれない。脅したいわけではないので、落ち着いた話し方を心がける。
「あの……ここは死なずの島ではないんですか?」
「はい、いえ、いや、はい……」
「ど、どっちですか」
「はい! ここは、春の島の、近くでございます! 死なずの島とは……お、御身がお隠れあそばされ、わたくしどもが死を賜れなくなったことから、……その……冒涜に等しい所業ではございますが、そう呼ぶように……」
どんな情報を得ても、まったく理解につながらず、視線の下にある緑の頭がどうにもじれったい
「そうなんですか……」
「は、はい……」
「……」
「……」
「……日本語、お上手ですね……」
「ニ、ニフォンゴ……?」
考えあぐねて漏らした言葉は、自分の疑問の的を射ていた。
少年が日本語話者だとは思えない。見た目で判断するのはよくないが、この少年に日本語で話しかけられたら、まずそのことに驚くはずだ。そのはずなのに。実際は、まったく気にかけなかった。
矛盾している。
堰を切って、疑問が次々に押し寄せてくる。
どうして、ぐしょ濡れのまま畏まる子供を前にして、偉そうに突っ立っているのだろうか。
この少年は、武器を差し出して、度を越した礼儀正しさで接してくる。ふつうは、せめて土下座をやめさせるものだろう。
どうして、誘拐犯の可能性がある相手に、やすやすと近づいたのだろうか。
短剣以外の武器を隠しているかもしれない。犯人が罪を認めないのは当たり前だ。その場しのぎの誠意を示すこともありうる。
──だったら、もう少し離れた場所で、顔を上げさせてから尋ねるのが私? ほんとうに?
パニックを起こしかけた時、遠くから歌が聞こえてきた。
男性の声。合唱。場違いなほど陽気な響き。
「こちらを!」
少年が鍵を拾って、両手で捧げ持つ。思わず鍵を受け取ると、少年は立ち上がり、歌の方向へ向き直った。
歌はあっという間に迫り寄り、船が大きな衝撃を受けた。横っ腹から、別の船が突っ込んできたのだ。
抉られた場所から木片が散った。
「女神様!」
とんでもない二人称に驚く余裕はもうなかった。転びかけた体を、少年が全身を使って支えてくれた。
痩せ気味の、ほっそりした体だ。しかし、激しい横揺れにびくともしない。
「行け! 狂え! 熊の血を滾らせろ!」
女性の怒鳴り声に、角笛と雄叫びが呼応する。武装した髭面の男たちが、次から次に乗り込んでくる。十人──いや、もっと多い。全員が全員、緑の髪だ。とはいえ、明るさや鮮やかさはそれぞれなので、ふぞろいにも見える。
男たちは好き放題に物色し、略奪していく。
「こんなところに樽? げっ、水じゃねえか! いるかよ、こんなモン!」
「水ぅ? 酒はねえのかよ、酒は!」
「このバカ! 水がかかるだろうが!」
「中はりんご? しけてんなァ」
「武器はどれも錆びてそうだな。手入れの仕方も知らんのか」
「期待できね~。家で寝てりゃよかった……」
「ン~? ありゃ女じゃねえか?」
「おおーっ! 染めてやがる! ひっさしぶりに見た!」
「鴉に売っぱらおうぜ!」
「お頭、犬だ。あいつ、沈んでなかったみてえだ」
樽の中身が水であることを知り、腹立ち紛れに斧を振り下ろす男がいた。水たまりでバシャバシャと足踏みし、周囲の反感を買う男もいた。一口かじったりんごを海に投げ捨てる男も、武器の状態に文句を言いつつ品定めする男も、他人の容姿を大きな声で言い立てる男も、嫌悪の表情で少年を見る男もいた。
「あいつら……!」
うなり声と共に少年の体に力がこもったのを、腰に回された手を通して感じた。
横を見ると、少年も同じタイミングで振り向いていた。
視線を交わす。
ようやくまともに顔を合わせた気がする。
少年は苦しそうに眉根を寄せていた。緑の目は気遣わしげな色をしていた。
その色をなぜだか見続けることができなくて、うつむいてしまう。太ももに添えられた手が目に入った。革の小手に触《ふ》れると、冷たく湿った革が皮膚に吸いつく。構わず、てのひらに力を込めて──すぐに離した。
少年はぐっと息を飲み、心残りを振り切るようにして、前に出た。
いますぐ逃げなくてはならないのに、気が遠くなりそうだ。
はっはっと息切れして、体が震えてくる。
予期せず、手から鍵がすり抜ける。
コン、と音がした瞬間、アイスホッケーのような勢いで床を滑り、鍵はまっすぐ少年に向かう。
革のブーツの爪先に当たる寸前、それまでのスピードが嘘かと思うほど、ぴたりと止まった。
「お赦しください!」
少年はすばやく納刀したあと、両膝をついた。そして足元の鍵を避けるように膝を使って下がり、短剣を床に置いた。
なぜ謝るのか。この少年が誘拐犯なのだろうか。
少なくとも、敵意はないらしい。顔を伏せ、こちらの出方を待っている。ペンダントトップの牙が、床に当たりそうだ。
息を整えてから、鍵の手前まで歩み寄り、毛先からぽたぽたと雫がこぼれる緑の頭に対し、質問を投げかける。
「あなたが、私をさらったんですか」
「……と、尊き御身に否定をお返しする不敬を、謹んで、お詫び申し上げます。俺では……わたくしめでは、ございません」
十二、三歳くらいに見える少年は、床を見つめたまま、丁寧すぎる敬語で答えた。一部、ビジネスでもなかなか聞かない単語が混ざっていた。
「だったら、私を誘拐した人を知っていますか」
「重ねての不敬を、懺悔いたします。……恐れながら、存じ上げません」
「ここは、どこなんでしょうか」
「死なずの島の近海でございます」
「死なずの島?」
インパクトがある、知らない地名だ。ついオウム返しに繰り返すと、少年はびくっとして両手をつき、床に打ちつけかねない激しさで頭を下げた。
「痴かなことを申し上げました! どうか、どうか、お赦しを!」
「えっ、はい。別に怒ってませんので……」
「あ、あやに畏き御身のご寛容さに、しゃ、謝し奉り……」
この怯えよう。敬語がランクアップしていないか。横暴な貴族か王族だと思われているのだろうか。
問い詰める口調だったかもしれない。脅したいわけではないので、落ち着いた話し方を心がける。
「あの……ここは死なずの島ではないんですか?」
「はい、いえ、いや、はい……」
「ど、どっちですか」
「はい! ここは、春の島の、近くでございます! 死なずの島とは……お、御身がお隠れあそばされ、わたくしどもが死を賜れなくなったことから、……その……冒涜に等しい所業ではございますが、そう呼ぶように……」
どんな情報を得ても、まったく理解につながらず、視線の下にある緑の頭がどうにもじれったい
「そうなんですか……」
「は、はい……」
「……」
「……」
「……日本語、お上手ですね……」
「ニ、ニフォンゴ……?」
考えあぐねて漏らした言葉は、自分の疑問の的を射ていた。
少年が日本語話者だとは思えない。見た目で判断するのはよくないが、この少年に日本語で話しかけられたら、まずそのことに驚くはずだ。そのはずなのに。実際は、まったく気にかけなかった。
矛盾している。
堰を切って、疑問が次々に押し寄せてくる。
どうして、ぐしょ濡れのまま畏まる子供を前にして、偉そうに突っ立っているのだろうか。
この少年は、武器を差し出して、度を越した礼儀正しさで接してくる。ふつうは、せめて土下座をやめさせるものだろう。
どうして、誘拐犯の可能性がある相手に、やすやすと近づいたのだろうか。
短剣以外の武器を隠しているかもしれない。犯人が罪を認めないのは当たり前だ。その場しのぎの誠意を示すこともありうる。
──だったら、もう少し離れた場所で、顔を上げさせてから尋ねるのが私? ほんとうに?
パニックを起こしかけた時、遠くから歌が聞こえてきた。
男性の声。合唱。場違いなほど陽気な響き。
「こちらを!」
少年が鍵を拾って、両手で捧げ持つ。思わず鍵を受け取ると、少年は立ち上がり、歌の方向へ向き直った。
歌はあっという間に迫り寄り、船が大きな衝撃を受けた。横っ腹から、別の船が突っ込んできたのだ。
抉られた場所から木片が散った。
「女神様!」
とんでもない二人称に驚く余裕はもうなかった。転びかけた体を、少年が全身を使って支えてくれた。
痩せ気味の、ほっそりした体だ。しかし、激しい横揺れにびくともしない。
「行け! 狂え! 熊の血を滾らせろ!」
女性の怒鳴り声に、角笛と雄叫びが呼応する。武装した髭面の男たちが、次から次に乗り込んでくる。十人──いや、もっと多い。全員が全員、緑の髪だ。とはいえ、明るさや鮮やかさはそれぞれなので、ふぞろいにも見える。
男たちは好き放題に物色し、略奪していく。
「こんなところに樽? げっ、水じゃねえか! いるかよ、こんなモン!」
「水ぅ? 酒はねえのかよ、酒は!」
「このバカ! 水がかかるだろうが!」
「中はりんご? しけてんなァ」
「武器はどれも錆びてそうだな。手入れの仕方も知らんのか」
「期待できね~。家で寝てりゃよかった……」
「ン~? ありゃ女じゃねえか?」
「おおーっ! 染めてやがる! ひっさしぶりに見た!」
「鴉に売っぱらおうぜ!」
「お頭、犬だ。あいつ、沈んでなかったみてえだ」
樽の中身が水であることを知り、腹立ち紛れに斧を振り下ろす男がいた。水たまりでバシャバシャと足踏みし、周囲の反感を買う男もいた。一口かじったりんごを海に投げ捨てる男も、武器の状態に文句を言いつつ品定めする男も、他人の容姿を大きな声で言い立てる男も、嫌悪の表情で少年を見る男もいた。
「あいつら……!」
うなり声と共に少年の体に力がこもったのを、腰に回された手を通して感じた。
横を見ると、少年も同じタイミングで振り向いていた。
視線を交わす。
ようやくまともに顔を合わせた気がする。
少年は苦しそうに眉根を寄せていた。緑の目は気遣わしげな色をしていた。
その色をなぜだか見続けることができなくて、うつむいてしまう。太ももに添えられた手が目に入った。革の小手に触《ふ》れると、冷たく湿った革が皮膚に吸いつく。構わず、てのひらに力を込めて──すぐに離した。
少年はぐっと息を飲み、心残りを振り切るようにして、前に出た。
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