【完結】それより俺は、もっとあなたとキスがしたい

佑々木(うさぎ)

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ep.11 好きの代わりに

(2)

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 土曜日は、朝から落ち着かなかった。
 昨日出席したパーティーのせいで身体が怠いというのもあるが、なかなか寝付けなかったからだ。
 普段はベッドに入れば5分もせずに眠れるというのに。

 このまま部屋にいたところで、何かできるとは思えない。
 私は、身支度を整えてすぐに、待ち合わせ場所の公園に向かった。
 時間よりもかなり早く着いたが、公園の傍にはカフェがある。
 そこはオリジナルブレンドが美味しいところではあるのだが、寝不足な上に食事を摂らないとなると、さすがにブラックはきつい。私は少し考えてからカプチーノを頼み、持ってきた本を開く。
 ここの所多忙を極めていたため、なかなか読み進められていない経済論の本だ。
 コーヒーが運ばれてきたところで開いて目を落としたが、文字は追えても内容が頭に入ってこない。最終手段で指で辿ってみたが、それでも目が滑る。

 これではまるで、初めての恋に狼狽える、思春期の子どものようだ。

 私は諦めて本を閉じ、代わりに手帳を開いた。
 手持ち無沙汰でも、思考をまとめることはできるに違いない。
 そう思って始めたのだが、浮かんでくるのはやはり一ノ瀬のことだ。

 なぜ私はこうも一ノ瀬のことが好きなのだろう。

 始まりは、3年前のあの日だ。
 とても暑い日で、私は内々に決まっていた辞令を受けて、次の仕事に取り掛かっていた。
 噂があることも批判されていることも知ってはいた。
 それでも、新商品のプロジェクトを進めなければならず、プレゼンの日も近かった。

 廊下を歩きながら考えていると、ふと人だかりを目にした。
 どうやら貼り出された辞令を見ているのだとわかり、私は足を止めた。
 口々に噂に花を咲かせ、耳に痛いことばかり聞こえてくる。
 私は踵を返して執務室へ戻りかけ、そこで一ノ瀬の言葉を聞いた。

「何を言ってんだか。これは、正当な評価だ」

 それまでざわついていた廊下が、いきなりしんと静まり返る。
 大きな声ではなかったが、発言の内容のせいだろうか。
 誰もが口を閉じて、その人物を見ていた。

 その中心に、黒髪にシルバーのフレームの眼鏡をかけた人物がいる。
 その顔には見覚えがある。

 入社時に開発部の人間さえも噂していたからだ。

 トップ入社していながら、開発部ではなく営業を希望した奴がいるのだと。
 私はその年の人事は担当していなかったが、名前だけは知っていた。
 たしか、一ノ瀬けいという名だ。
 皆に注目される中、本人は気負った様子もなく続ける。

「確かに前例がないほどに、昇進は早いのかもしれない。でも、それを言ったらフリートム自体、前例がないほどに売れたじゃないか。なら、正当な評価だろ」

 つまらないことを言うなといった風に、冷めた目で周囲を見回す。

「おい、一ノ瀬。やめとけって」

 隣にいた人間が止めたが、一ノ瀬は動じることなく言い切った。

「あれだけの商品を作ったんだから、部長になるべくしてなったんだよ」

 私はそこまで聞いたところで一ノ瀬と目が合いそうになって、すぐに逸らしてその場を離れた。
 感情が高ぶって、一人になって落ち着けなければ、仕事も手に付きそうにない。

 執務室に戻り、パソコンの前に座っても尚、一ノ瀬の言葉が胸にこだましていた。
 私はそこから、雑念を振り切って、新商品「からり晴れ」のプレゼンの準備をした。
 

 あれから気になり出して、いつでも一ノ瀬を目で追っていた。
 噂を聞きつけては、売上データを確認し、どんな目覚ましい活躍をしているのか興味を持った。売り上げが伸び悩んでいる商品も、2課が加わると不思議と売れ出した。その成果を担っているのは、長門ではなく一ノ瀬だと私は見ていた。
 だから、2課がからり晴れの営業を担当することが決まった時にはとても期待していた。
 きっと一ノ瀬なら、からり晴れの商品力を理解し、売ってくれると思っていたからだ。
 しかし、1週目2週目の売り上げは想像以上に少なかった。
 一ノ瀬の成績はまずまずといったところだったが、他のメンバーの成果は酷いものだった。だからと言って、ミーティングの場で一ノ瀬だけを取り立てることはできない。
 そして、私は考えた末に賭けに出た。

「何だ、この数字は。話にならないな」

 そう言って、資料の束を長机に放ったのだ。
 あの瞬間の一ノ瀬の顔も目も、未だにはっきりと覚えている。
 敵愾心てきがいしん剥き出しの、険しい表情だ。
 私を睨みつけたまま、逸らそうともしない。
 私は、すぐさまミーティングルームを去り、走り出したい気持ちを抑えながら執務室に戻った。
 あんな顔をさせてしまったことも、自分に向けられた感情も、酷く辛かった。
 だが、ああしなければ、たるんだ空気を一掃することはできなかったに違いない。
 もし同じ状況が生じたとしても、私はきっと行動を変えない。
 だから、他にやりようはなかったと信じている。
 私は憎まれ役を買って出たことを後悔しなかったが、苦痛は感じていた。


 ミーティングの後も、からり晴れには逆風が吹き続けた。
 稀少ホップKAGURAの不足もだが、CMのその要因の一つだ。
 採用した俳優のスキャンダルから売り上げが伸び悩み、問題は大きくなる一方だったのだ。

 そんな時に、ふらりと入ったバーで、私は酔い潰れる寸前まで飲んだ。
 知っている人間には誰にも会いたくなくて、敢えてこれまで行ったことのない店にした。
 何人かに声を掛けられて面倒になり、私は酔ったまま店を出た。
 行先は特に考えておらず、とにかくふらふらとあてどなく歩いていた。
 バス通り沿いに歩き、ベンチに差し掛かったところで不意に後ろから声が聞こえてきた。

「ったく、どこだよここは!」

 その声だけで、私は後ろを歩く人物が誰なのかわかった。
 よく通る、張りのある声。

 一ノ瀬が、後ろを歩いている。

 それだけで胸が高鳴り、喉が干上がった。
 私は振り向かずに、すぐ先にあったベンチにさりげなさを装って座った。

 どうか、私に気付いて足を止め、声を掛けてきて欲しい。
 ここで話すきっかけを与えてくれ。

 少しずつ近づいてくる足音を聞きながら、私は祈る思いで待った。
 きっともう、気づいたはずだ。この距離で、私だとわからないはずがない。
 だが、一ノ瀬はこちらを一瞥することもなく素通りしていこうとしている。
 
 頼むから、足を止めてくれ。

 願いもむなしく遠ざかる足音に、私は絶望した。
 ここで無視するほどに、一ノ瀬に嫌われてしまったのか。
 やはり見捨てられるのかと、私は力なく横になった。
 もう、このまま凍ってしまってもいい。
 そのくらい、一ノ瀬の行動に哀しみを覚える。
 目を閉じて、意識的にゆっくり呼吸をして、高ぶる感情を落ち着ける。
 そうでもしないと、呻いてしまいそうなくらいに胸が痛い。
 私は、コートに頭を乗せて、そこでそのまま本当に眠ってしまったらしい。
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