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第一章 王道的転生

混沌の目覚め 2/2

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 俺の妻が——ナサティヤが、吐血している。

 ナンダカは嫁の背中をさすり、「大丈夫か?」と無意味な質問を投げた。カオスシェイドが泣く声がして、一瞬、耳に意識が向かう。

(この音、蜂か……!?)

 ようやく状況に理解が追いついた。自宅の居間に羽の音が響いていた。ろうそくの灯りに照らされた黄と紫の胴体。ナンダカの胸に激しい殺意が沸いた。

「——お前か!」

 剣を抜き、蜂に斬りかかる——が、憎らしい蜂はわけもなく剣を回避した。

「この……」

 殺す、殺す、殺す、殺す——ナンダカの心は殺意に染められていた。

(最悪だ……どうして刺さなかった!?)

 刺すなら自分を刺してほしかったし、なんなら息子が被害者でも良かった。嫁を溺愛しているだとか、そういう話ではない。

(吐血している——ナサティヤは「詠唱」できない!)

 Dランク冒険者として、ナンダカは状況のまずさを理解していた。

(毒を治せるのはナサティヤだけなのに——殺してやる、蜂のくせに——あの虫!)
「治癒、を……ムリアフバよ……かみ、さ、ま……」

 ナサティヤが血を吐きながら「詠唱」しようとしたが、ナンダカは無意味だと知っていた。それがツキヨ蜂——古代語で「月夜蜂」と呼ばれているあの虫の厄介な所なのだ。といっても、普段は巣に近づかなければ人を襲うことはない。連中が人を襲うのは「月食」とかいう時期だけで、その時だけは巣を離れてヒトを襲う。

 ナンダカは「月食」の意味を知らない。

 七歳の頃だ。村を訪れた旅人に聞いた話によると、はるか神話の昔、この世界の夜空には〈月〉という星が浮かんでいたのだが、あるとき〈月〉は牙を剥き、この世界に襲いかかった。

 偉大なる女神ファレシラは〈月〉に立ち向かったが、敗北し……力を大きく失う代わりに、その力をかろうじて封じ込めたという。それ以来〈月〉は見えなくなったが——魔物は〈月〉を忘れなかった。むしろ、古代を忘れていない獣のことを「魔物」と呼ぶ。

 そしてヒトにはわからない「月食」の時期に、魔物はその凶暴さを増す。

(星辰祭——月食の祭りがあるのを知っていたのに!)

 ナンダカは雄叫びを上げながら剣に力を込めた。

〈——むくろ細剣術:飛燕の太刀——〉

 視界の端にテロップが浮かび、ナンダカは剣神に授かったスキルを発動した。刀身が青白く輝き、人の動きとは思えない、剣を振るためだけに作られた傀儡のような動きでナンダカは剣を振り抜いた。が、ツキヨ蜂は軽やかに回避してみせる。

「——逃がすか!」

〈——ニノ太刀:燕返し——〉

 連携スキルを発動する。ナンダカはほとんど人間離れした動作で剣を切り返してみせたが、その攻撃も外れてしまった。

(くそ、不利だな。あいつは小さすぎる。ナサティヤを解毒してやれるはずだが……)

 ——ツキヨ蜂に刺されたら、刺した蜂を殺せ。毒が消えて無くなる。

 昔、ウユギワ村のギルドマスターから買ったこの情報は、値段のわりにこれまで活用する機会が無かった。あの蜂は通常群れで行動するので、刺されても、「群れのどの蜂が刺したか」がわからない。治癒スキルや毒消しを使うほうが確実だし速かった。

 まったく無意味な情報だった。ギルドに騙されたと思ったが、まあ、そうしたことはよくある。無駄な情報を買ってバカを見るというのは冒険者あるあるのひとつだ。

(マジで意味ねえ情報だったな。相手が一匹でも殺すのは無理だ……)

 剣で切るにはあまりに小さな敵だった。範囲魔法なら楽に殺せるが、ここでは嫁と子供を巻き込んでしまう。ナサティヤが血の塊を床に吐き出し、ナンダカは強い不安に駆られた。

(落ち着け。解毒だ。まずは解毒を——あとどれくらい持つ!?)

 ——戦うのをやめよう。長年冒険者として活動し、現在はリーダーを務める彼は、冷静に判断した。

(薬屋にナサティヤを連れて行こう。ムサの話じゃ、一昨日リュッケが死んでいる。今頃薬屋は解毒剤を用意しているはずだ。カネは無いけど俺はDランクだ。後払いでも許してもらえるだろう。問題は——連れて行くまで持ってくれるか?)

「ナサティヤ!」

 ナンダカは剣を戻し、妻を抱きかかえようとした。

「まだ平気か? お前を薬屋に連れて行く。それまでどうにか耐えて……」

 ——と、その時だ。

 ナンダカはようやく異変に気がついた。

「あぇあうあー!」

 幼い子供の声がする——俺の息子だ。さっき名前をもらったばかりのカオスシェイドだ。

 我が子が床を這っていた。息子はナンダカがスキルを使ったときのように何度も全身を青白く発光させていて、

「うぬあー!」

 苛ついたように叫んだかと思うと、今度は椅子に這い上がり、机に置いたヤギのミルクや豆を睨んだ。

(——スキルを使っている……?)

 ナンダカは問いかけたかったが、ツキヨ蜂がそれを許さなかった。羽音が息子に迫っている!

「——殺すぞ!?」

 ナンダカは怒鳴り、むちゃくちゃに剣を振った。妻ばかりか子供を奪われてたまるか。

「——死ぬぞ!? 殺すぞ!」

 その剣筋にはスキルもなにもなかったが、妻子を思う気迫は羽虫を怯えさせた。ツキヨ蜂が妻や息子や——ナンダカから距離を取る。

(——今だ、絶対に殺してやる!!)

 ナンダカは剣を握りしめた。再び剣が青白く発光する。

「死ね!」

〈——骸細剣術:流浪の剣閃——〉

 視界の端でテロップが踊り、鋼鉄の剣が波打ち際のように揺らめいた。剣筋を読まれにくくするこのスキルはナンダカの必殺技で、MPを大量に消費するものの、高レベルのオークさえ一撃で殺す——そして、まさにその「命中率」こそがこの剣技の売りだ。

 横薙ぎに振り抜いた剣が蜂に迫る。そしてナンダカは、時間が遅くなったかのような——かつて経験したことのない、奇妙な感覚に襲われた。

(ファレシラ様……?)

 冒険者の間で噂される伝説のひとつに、〈思考加速〉という奇跡がある。

 この惑星に生まれた冒険者は、自身が命を賭けて戦ったとき、生命を賭して戦ったときのみ、そのわずかな一瞬にだけ星の女神たるファレシラの加護を預かることがある。

 惑星を覆うリズムがその瞬間だけゆるやかに調され、その勇者は、どれほど素早い敵を相手にしても剣筋を整え、攻撃を必中させられるのだという……。

 ナンダカは戸惑っていた。これまでに経験したどのような修羅場でも〈思考加速〉を経験したことはない。自分自身の命が危うくなったときはもちろん、ナサティヤやラヴァナ、ポコニャやムサが死にかけた瞬間ですら、こんな体験をしたことはなかった。

 ——でも、この攻撃は

 ナンダカはほとんど確信した。

 ——当たるに

 彼の視界はすでにコマ送りのようになっていた。

 思考が加速され、憎たらしい蜂が羽を上げ下げする一挙手一投足まで認識できる。

(これが、調速された歌の女神の世界か……!)

 ナンダカは感激した。俺は今、神の世界を見ている。

(蜂め、俺の剣筋を上に逃げるつもりか……!!)

 コマ送りの世界の中、ナンダカは上空へ逃げようとする蜂を視認し、剣を持つ手首に微修正をかけた。

 素早かった蜂がナメクジに見える。憎たらしい敵に、当たるに決まっている斬撃をゆったりと押し当てに行くのは愉快だった。

 ナンダカの剣は蜂に迫り、白い刃が蜂の羽の先端に触れようとして…………。

〈——飛翔技:緊急避難。魔石が消費されました。敏捷が倍化されます——〉

 蜂の体が発光と共に消え、剣は無情にも外れた。

「——はあ!?」

 怒鳴った瞬間、ナンダカは〈調速〉が解除されて行くのを感じた。

(外した!? なんだよあのスキル。普通のツキヨ蜂はあんなの……)

 毒づきながらも逃げた蜂を探す。

 遅くなっていた時間が少しずつ元に戻っていくのを感じる。早く見つけて、次の一撃を! 焦り、混乱する中で——彼はゆったりと蜂を見据える「猛獣」を発見した。


 それは彼の息子だった。


 あれは本当に、つい数秒前と同じ子だろうか。そもそも、あれは昨日までの息子と同じ人間なのか……?

 昨日までのわが子は籐カゴの中でよだれを垂らし、自分や妻がどんな言葉をかけても「あー」しか言わない「普通の子供」だったはずだ。

 しかし、我が子は——カオスシェイドは今、獣のような目で蜂を睨みつけていて、蜂も蜂で、忌々しい尻の針を突き出した。

 針が、幼児に——息子に迫っている。

「やめてくれえーーーーーー!!」

 ナンダカは身を挺して子供を庇おうとしたが、それは徒労だった。青白い光の壁が唐突に現れ、1HPと引き換えに、毒針から息子を「完全に防御」する。

「へ……?」

 呆然とする父親をよそに、幼児の目は宙を舞う蜂を見据え、その姿を決して見失わず、まだ前歯しか生えていない口を開いて言った。

「……あうあう(調速)」

 四つん這いの幼児が青白く光り輝き、直後にブレて、人間の目では到底追えないような速度で飛びあがる。

 実際、ランクDの冒険者ですらその動きを追うことはできなかった。

 我が子がなにかつぶやいて、青白く光った——ナンダカに見えたのはそこまでで、次の瞬間にはトンという着地音。居間のテーブルが揺れているのに気づいた。

「……え? おい、おまえ、それ……」
「あーーーー! やーーーー!」

 息子はテーブルの上で四つん這いになり、右手を高らかに挙げていた。父親に自慢するように、あうあうと叫んでいる。

 ナサティヤが「う……?」とうめいた。吐血が止まっている。毒が消えたらしい。

「……おまえ、蜂を……素手で倒したのか?」
「だッ、あうあーーーー☆」

 夕暮れに「カオスシェイド」の通名あざなを預かった彼の子は、いつの間にか右手で蜂を握りつぶしていた。


  ◇


〈——レベルが一気に6上がりました。幼い勇者の偉業を讃え、偉大なるファレシラ様から3SPが授与されました——〉

 右手で蜂を握りつぶした瞬間、俺の脳内に叡智の女神の楚々とした声が響いた。思考加速状態が解除され、時間が通常の速さに戻る。

〈ていうか調速のLv2ってやべぇな。ワタシもここまで強いとは思わなかったよ。これでも全知たる叡智の女神なのに。これが世にいうチートってやつかい?〉

 と思いきや、口調が急にフランクになる。

〈……まあいいや。それよりファレシラ様からの伝言がある〉
(伝言……?)

 心の中で聞き返すと女神アクシノは頷くように言った。

〈そうだ。おまえにわかりやすく言うと「メール」を預かっていて、今からそれを読み上げる——あの人のヤバさはわかったと思うし、伏して拝聴したまえよ?〉

 俺の返事を待たず、彼女はウザ女神の伝言とやらを読み上げた。

〈おぉ勇者、ワンパンしてしまうとは情けない……☆
 強敵ってのはもっとこう、苦戦しながら倒した方が良いのだぞ♪〉

 序文を聞いた時点で俺は「ステータス」を念じ自分のステータスを確認し始めたのだが……マジかよクソッ。耳を塞いでも叡智のアクシノさんが邪神のスパムを朗読する声が聞こえるし、視界の端に同じ内容のテロップまで出やがる。目を閉じても文字は見え続けた。

〈蜂を一回わざと取り逃してみるとか。見てる人への演出が大事ですよ、演出☆ そうしてもらわないとわたしが困るのです♪〉
「——おいカオスシェイド、無事か!?」
「あう(無事)」
〈でもまあ……☆〉
「よし!」

 アクシノさんがファレシラの口調を真似して語る声に親父の声が混ざった。新生児の無垢な聴覚が邪悪な女神と親父の声にかき回される。ぶっ壊れたラジオを聞いてる気分だ。

〈でもまあ、最初だし許してさしあげましょう♪〉
「ナサティヤ! 毒は……毒は消えたか!?」
「ええ、あなた……あなたが蜂を倒してくれたのね」
〈えへへー、女神ってのは寛大なのですよ☆ ……おい勇者、聞いてます?〉
「いや、俺は蜂を倒していない……」
〈よもや〈調速Lv2〉を一発クリアするとは思いませんでしたね☆ わたしはこれで、この星で一番偉い神様なんですけど、〉
「倒してないの? じゃあ、じゃあ……まだ家の中に蜂が!?」
〈さすが異世界の人ですね☆ あの裏切り者を思い出しちゃいますよ♪〉
「落ち着け! もういない!」
〈ともかく☆ これでカオスさん()も異世界に慣れたと思うし、この調子で明日の夜までにオークを倒してくださいね♪ クエストを受注したのに、今更「できない」なんてナシですぞー? わたしはあなたの「母ちゃん」を助けてあげたのだし、そもそも、オークすら殺せないような雑魚は必要ありません☆〉

 現実の言葉と邪神の伝言がごっちゃになったが、視界に浮かぶテロップが理解を助けてくれた。

 耳を傾けてやった結論としては、蜂を殺してもクソ女神はそのままだし——尊敬していたアクシノ様も、実はクソ類ダメ科のゴミ女神なんじゃねぇの? なにをノリノリで「☆」のニュアンスを再現してんだよ。

〈……だってさ。ファレシラ様からは以上だ〉

 声真似していたアクシノが素に戻った。怜悧な声だが、クールビューティなイメージだった叡智さんはすでに俺の中から消えている。コイツも邪神の一種だ。きれいな声に騙されてはいけない。

〈聞き取れたかい? 是非はともかく、これがファレシラ様の意思だよ〉

 両親が抱き合って泣いていた。俺は蜂の体液で汚れた右手を紺のベビー服で拭いながらステータス画面のMPを確認した——ゼロだった。

 そのせいだろう、肉体というより精神的な疲れを感じる。30時間くらいぶっ通しでオンラインゲームをしたときに似た、強烈な眠気を感じる。

〈きみは叡智たるワタシの眷属でもあるから、朧げながら理解してきただろう。あの偉大なる女神は、人々の歌声とこの惑星とを支配している〉

 アクシノが言葉を続けている。

〈せいぜいこの世に歌いたまえ、異世界から来た勇者よ。遠い異星の歌を聞くこと——畢竟ひっきょうそれがファレシラ様の望みだ〉

 俺は、その言葉と共に寝落ちした。


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