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実話に基づくSS『ブリューゲル展に行きそびれた日』
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2019年3月31日、東北某都市。
今上天皇(令和4年現在は上皇陛下)の生前退位により、5月1日から元号が変わるということで、何かと「平成最後の」のフレーズがもてはやされていた頃の話。
翌日4月1日付で、とある企業で働くことが決まっていたある少女がいた。
◇◇
高校を卒業し、免許も何とか取れたものの、通勤用に車かスクーターを買って…と考えると、いろいろな意味で尻込みしてしまったので、結局バスで通勤することになった。
ただでさえ何かと腰が重い少女は、初出社を前にバスで往復して様子を見たいと考えつつ、それを3月31日までズルズルと引きずってしまっていた。
そこで、何だかんだと娘に甘い少女の母親が、「じゃ、せっかくだから美術館に行こうか?」と提案して、同行することにした。
その頃市立美術館ではブリューゲル展を開催中だったが、期間がちょうど3月31日までだった。
少女は中高時代は美術部に所属していたこともあり、絵には大いに興味があったが、ブリューゲルのことはよく知らなかった。
ただ、ポスターやフライヤーの絵を見て、「割と好き」程度の感想は持っていた。
母親はもともと素朴な感じの絵が好きで、少し前は呉智英氏の本を愛読していた(**下記注)。
そして、全国巡回中だったブリューゲル展は、声優の石田彰の音声ナビゲートサービスが利用できるということでも話題になっていた。
といった要素がいい感じに重なり合い、2人は気候に合わせた装いで出かけることにした。
**
90年代~00年代に双葉社から出ていた呉さんの著書は、ブリューゲルの絵を表紙に使っていたのです。
◇◇
新元号が使われるのは5月1日からだが、あらかじめ4月1日に発表になるということも話題になっていた。
4月1日といえば新年度第1日だし、昭和から平成への移行のときは、発表されてすぐ使われたというのが記憶に新しい人も多い。
となると、「明日から新元号」という勘違いをする人たちが一定数あらわれるのは仕方がないところだ。
現に母親は行きのバスの車内で、とあるカップルのこんな会話を聞いた。
「ねえ、きょうお昼何に食べる?」
「何にすっかなあ。何しろ平成最後のランチだしなあ…」
(え…?平成最後って…)
その会話を聞いた人が何人いるかは分からないが、内心、母親と同じツッコミをした人も多いのではないだろうか。
すなわち(あんたこの先1カ月、昼飯食べないつもりなのかーっ?!)と。
◇◇
少女の駅から職場往復ルートの下見も無事済んだ。
そこで母親は、「ご飯食べてから美術館行く? それとも美術館のカフェで何か食べようか?」と少女に言った。
しかし、無気力で少し体の弱い少女は、「ナンカ疲れたから、お昼食べたら家に帰りたい」と言った。
美術館に行くには、また別の路線バスで、そこそこの距離を移動する。
体がというよりも、少し気疲れしてしまったのかもしれない。
2人は平成最後、ならぬ平成30年度最後のランチを、ミスタードーナツでとった。
甘くないパイと具沢山のスープの組み合わせで、意外と腹は膨れた。
そのミスドは、少女が高校時代の友人と、全然進まないテスト勉強やおしゃべりに利用した思い出の店舗である。
その友人はよその土地への進学が決まり、もう街を離れていた。
少女がこの店に来ることはまたしばしばあるにせよ、高校時代のように気ままには過ごせない。
「ストロベリーリングとカフェオレの組み合わせが好きだったんだよね」と、軽く感傷に浸るように言った。
◇◇
その後、少女は職場のいじめが原因で数カ月で離職した。
少女は仕事休憩中、「お母さん、仕事中に泣きたくなったことってある?」というメッセージを送ってきたことがある。
母親は在宅で音声を書き起こす内職を長年続けていたが、その問いに対して、冗談とも本気ともつかない調子でこう返した。
「そりゃ毎日だよ」
「インタビューなんか、エシカルだDXだ意識の更新だって、意識高い系のウザい話題ばっかりだもん」
しかし返して少し考えてから、心の底から後悔した。
それでいて、どう返すのが正解だったのかは、多分この先も分からない。
少女は多分、SOSを発していたのだろう。
そして母親は、自分の答えが「みんな辛いんだよ。我慢しな」という“あきらめ”を押し付けるみたいに響いたのではないかと、多分一生後悔し続けるだろう。
◇◇
あの日の記憶のせいか、少女はいまだに美術館に誘っても、「ちょっとね…」と積極的には行きたがらない。
直接の関係がないものでも、連想ゲームのように芋づる式に出てくるものには、嫌悪感やトラウマが付きまとうものだ。
平成31年4月1日、新元号「令和」が発表され、受け入れられ、もう4年目である。
母親はいまだに時々、「あーっ、耳元でささやく石田ボイス聞きたかった!」と、娘のせいではない、最後の日まで調整がうまくいかずに延び延びにしていた自分が悪いんだと言い聞かせながら、歯噛みして暮らしている。
そういえばあのカップルは、結局ランチに何を食べたのだろうか。
今上天皇(令和4年現在は上皇陛下)の生前退位により、5月1日から元号が変わるということで、何かと「平成最後の」のフレーズがもてはやされていた頃の話。
翌日4月1日付で、とある企業で働くことが決まっていたある少女がいた。
◇◇
高校を卒業し、免許も何とか取れたものの、通勤用に車かスクーターを買って…と考えると、いろいろな意味で尻込みしてしまったので、結局バスで通勤することになった。
ただでさえ何かと腰が重い少女は、初出社を前にバスで往復して様子を見たいと考えつつ、それを3月31日までズルズルと引きずってしまっていた。
そこで、何だかんだと娘に甘い少女の母親が、「じゃ、せっかくだから美術館に行こうか?」と提案して、同行することにした。
その頃市立美術館ではブリューゲル展を開催中だったが、期間がちょうど3月31日までだった。
少女は中高時代は美術部に所属していたこともあり、絵には大いに興味があったが、ブリューゲルのことはよく知らなかった。
ただ、ポスターやフライヤーの絵を見て、「割と好き」程度の感想は持っていた。
母親はもともと素朴な感じの絵が好きで、少し前は呉智英氏の本を愛読していた(**下記注)。
そして、全国巡回中だったブリューゲル展は、声優の石田彰の音声ナビゲートサービスが利用できるということでも話題になっていた。
といった要素がいい感じに重なり合い、2人は気候に合わせた装いで出かけることにした。
**
90年代~00年代に双葉社から出ていた呉さんの著書は、ブリューゲルの絵を表紙に使っていたのです。
◇◇
新元号が使われるのは5月1日からだが、あらかじめ4月1日に発表になるということも話題になっていた。
4月1日といえば新年度第1日だし、昭和から平成への移行のときは、発表されてすぐ使われたというのが記憶に新しい人も多い。
となると、「明日から新元号」という勘違いをする人たちが一定数あらわれるのは仕方がないところだ。
現に母親は行きのバスの車内で、とあるカップルのこんな会話を聞いた。
「ねえ、きょうお昼何に食べる?」
「何にすっかなあ。何しろ平成最後のランチだしなあ…」
(え…?平成最後って…)
その会話を聞いた人が何人いるかは分からないが、内心、母親と同じツッコミをした人も多いのではないだろうか。
すなわち(あんたこの先1カ月、昼飯食べないつもりなのかーっ?!)と。
◇◇
少女の駅から職場往復ルートの下見も無事済んだ。
そこで母親は、「ご飯食べてから美術館行く? それとも美術館のカフェで何か食べようか?」と少女に言った。
しかし、無気力で少し体の弱い少女は、「ナンカ疲れたから、お昼食べたら家に帰りたい」と言った。
美術館に行くには、また別の路線バスで、そこそこの距離を移動する。
体がというよりも、少し気疲れしてしまったのかもしれない。
2人は平成最後、ならぬ平成30年度最後のランチを、ミスタードーナツでとった。
甘くないパイと具沢山のスープの組み合わせで、意外と腹は膨れた。
そのミスドは、少女が高校時代の友人と、全然進まないテスト勉強やおしゃべりに利用した思い出の店舗である。
その友人はよその土地への進学が決まり、もう街を離れていた。
少女がこの店に来ることはまたしばしばあるにせよ、高校時代のように気ままには過ごせない。
「ストロベリーリングとカフェオレの組み合わせが好きだったんだよね」と、軽く感傷に浸るように言った。
◇◇
その後、少女は職場のいじめが原因で数カ月で離職した。
少女は仕事休憩中、「お母さん、仕事中に泣きたくなったことってある?」というメッセージを送ってきたことがある。
母親は在宅で音声を書き起こす内職を長年続けていたが、その問いに対して、冗談とも本気ともつかない調子でこう返した。
「そりゃ毎日だよ」
「インタビューなんか、エシカルだDXだ意識の更新だって、意識高い系のウザい話題ばっかりだもん」
しかし返して少し考えてから、心の底から後悔した。
それでいて、どう返すのが正解だったのかは、多分この先も分からない。
少女は多分、SOSを発していたのだろう。
そして母親は、自分の答えが「みんな辛いんだよ。我慢しな」という“あきらめ”を押し付けるみたいに響いたのではないかと、多分一生後悔し続けるだろう。
◇◇
あの日の記憶のせいか、少女はいまだに美術館に誘っても、「ちょっとね…」と積極的には行きたがらない。
直接の関係がないものでも、連想ゲームのように芋づる式に出てくるものには、嫌悪感やトラウマが付きまとうものだ。
平成31年4月1日、新元号「令和」が発表され、受け入れられ、もう4年目である。
母親はいまだに時々、「あーっ、耳元でささやく石田ボイス聞きたかった!」と、娘のせいではない、最後の日まで調整がうまくいかずに延び延びにしていた自分が悪いんだと言い聞かせながら、歯噛みして暮らしている。
そういえばあのカップルは、結局ランチに何を食べたのだろうか。
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