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清涼の桜
104.
しおりを挟む視線を受けた沖田が、どうしたと微笑んで。
冬乃はどんな形容でさえも表しきれない、その胸奥から込み上げてくる強烈な情感に圧され、咄嗟に顔を伏せた。
「冬乃?」
沖田を千代との運命から引き離す
冬乃に課された、その使命は。
無き罪への贖罪を請う千代・・冬乃が、
その祈りを叶え、
果てなき苦しみから自ら解き放たれるが為に。
他でもない"彼" から、課された使命だった。
統真が、たしかに沖田の二世先の生まれ変わりであるならば。
(総司さん・・)
だけどいったい、
千代と天界で再逢しなかった彼の魂は、代わりにどこへ向かい、どれほどの修行に投じたのなら、
更なる次の世で、千代を救いだせる究竟の存在にまで成りえるというのだろう。
冬乃はおもわず沖田に手を伸ばし。
返ってくる硬い温かな肉体の感触、息遣い。
いま人として沖田が存在している実感に、ほっと息をついてしまって。
ますますどうしたのかと覗きこむ沖田へ、冬乃は只々どうしようもなく、手に触れたままの着物をぎゅっと掴む。
(・・・きっと)
これが本当なら、
千代と冬乃の魂が救われるための、奇跡だったのなら。
冬乃の願いもまた、叶うのだろうか。
冬乃は感染してはいなくて、
沖田の望む最期を見届けられる未来を、迎えることが。
さわさわと流れる風を頬に、冬乃は目を閉じた。
それでも、沖田の命の長さを変えたい
その願いのほうはきっと叶わない
漠然と、そんな想いを懐きながら、
「その力は」
返されるであろう答えを覚悟しながら。冬乃は瞼を擡げる。
「歴史を大きく変えることも、できるのでしょうか・・?」
一縷の期待すら持てずに、
それでも尚、確かめないままではいられず。
「そして・・人々の死期も」
僧が、冬乃の怯えた瞳を静かに見返してきた。
「・・・それらを大きく変えることは」
できるのなら。
冬乃が願った時から、とっくに変えられていたはず。
「できぬ、と答えるより他ありませぬ」
冬乃は、諦念の内に小さく息を吐いた。
「歴史を大きく変えるということは、」
僧は、言葉を選ぶように、
「そこに関わる天変地異から、無数の人々の無数の想いまでを、大きく変えるということでございます」
一語一語。ゆっくりと続けた。
「歴史というものは、それら無数の作用に縁って、成るべくして成ってゆくもの」
「・・言い換えますれば、どんな天変地異を防いだとて尚、その大きな歴史の流れに関わり合う無数の人々が違う道を自ら望まぬかぎり、どんな御仏にも、"究竟の御存在" の御仏であってさえも・・変えるすべはございませぬでしょう」
それは決して
と僧は継ぎ足した。
「御仏に変える御力が無いということではなく、変えようとは為さらない、のでございます。人の想いを・・それがたとえどんなに邪悪な意思であってさえも、御仏は"其の儘" に為さられ、無理に捻じ曲げることは決して為さいませぬ。関わり合う縁のひとすじに至るまで・・」
少し悲しげに、僧は小さくかぶりを振った。
「これは、人の身である私たちにとって認めがたき事ではございましょうが・・善悪は、あくまで人の世の概念でございます故。
正しき義が何たるかは、各人の心が各々で定めしもの」
「そのような中で多くの人々によって支持される善悪の基準は、人が人を律し、そうして人が人を護るために、人類の歴史の長きにわたり培ってきた知恵と言えましょう・・
仏教の戒律でさえ、人の世において律する必要が生じて作られしものでございます」
また少々話が逸れてしまいました
と僧は力なく呟き。
「人の死期も、また」
一呼吸置くと、更に継いだ。
「ときに天変地異の諸々に加え、縁の関わり合う人々の様々な意思と行動、勿論のこと本人の生き様や、あらゆる選択の積み重ね、望む死に様に至るまで・・・全ての万象との縁が、其々大きくも小さくも作用したうえで定まるものでございますれば、
往々にして、その万象に導かれし死期を変えることは到底、困難なことなのでございます」
「・・・もしも、死期に関わる特に重要な事柄の縁に対し、変更を及ぼすことが小さくとも叶ったとしますれば、それによって少しの時期のずれが生じることもあるやもしれませぬが・・」
安藤や山南、そして千代の死期は、冬乃の働きかけによって少しの変更を受け入れた。その事を改めて冬乃は思い起こし。
冬乃は、自分が僧の話を全て理解できているかは分からないものの、これまでの経験をもって想像していた事と違わぬ僧の回答に、静かに目を伏せて。
「教えていただき有難うございます・・」
それでもこみ上げそうになる涙を隠し、頭を下げた。
「・・今お尋ねになられたことは叶えられずとも」
僧の、気遣うような声が降りてきた。
「貴女様をこの世へ送られた慈悲の御力は、おそらく貴女様の御魂を救うために、何か大変に重要な物事を叶えられたはずでございます。・・もしかすると、すでに貴女様はそれにお気づきなのではありませぬか」
沖田が再び冬乃を見やる気配がした。
彼に明かすことはできない、その"何か" を。わからぬふりで冬乃は、そっと首を横へ振って見せる。
「では、いつかお気づきになる時が参りましょう」
僧が柔らかに微笑んだ。
「はい・・」
何を叶えられたか、以前に。
たとえば何故、その究竟の存在が、これほどの奇跡を起こして冬乃の魂を救うのか、
きっと沖田や僧からしたら、そこからして不思議だろう。
冬乃は顔を上げた。
「尋ねたわけは、近い未来にどうしても変えたい歴史があるからなんです」
話の矛先を逸らすべく、
「もしかしたら私が想像している以上に、大きく変えることなのかもしれなくて・・それでも」
もとより後押しが欲しかった事。
それは僧の話を聞いた時から、確信しはじめた希望だった。
(・・そう、)
もし伊東一派も近藤達も、確かに同じ方向を本当は目指していたのなら、
向かう歴史が、もし誤解から始まった悲劇だったのなら。
それなら、彼らの向かった歴史は、彼らの本来の望みではないから。
「・・・もしも、そこに関わる"多くの人達" が違う道を望んだ場合には・・その歴史を変えられる可能性はあるってことなのですよね・・・?」
誤解さえ、無ければ。
彼らが本当は向かいたかった未来へと、
歴史の行先を変えることも、望めるはずだと。
僧が静かに頷いた。
「可能性が全く無いとは、決して申しませぬ」
ただそれでも
と僧は慎重に冬乃の目を見据えた。
「元の歴史が、結果として在るということは・・多くの縁がその方向へ導いたという事でございます。
つまり、その歴史に関わった多くの人々の意思もまた、直接的ないし間接的にその結末へ向かうものであったという事でございます故」
「それらを覆すことは、その関わり合う縁の範囲・・規模が大きくなればなるほど、非常に困難になってくるという事は・・申し上げておきます」
冬乃は頷いてから。
つと生じた不安感に息を呑んだ。
(関わり合う縁の範囲・・)
もし当事者の伊東達や近藤達以外にも、実はそのような存在が多くいたのだとしたら、
そして、その人達の意思が、
元の歴史の通りを望んでいる場合は・・・
(どうしたって覆せない・・・ていうこと・・・?)
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