王城のマリナイア

若島まつ

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二十一、ひとつの決心 - una decisione -

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「ドナと会ったのはそれが最後」
 アルテミシアは軽めの食事を終え、サゲンの執務室のソファに身を預けながら言った。
「でも、卒業試験が終わる前に手紙をくれた。‘卒業試験の最終日にベルージ家から迎えの馬車が来るらしいから、お嬢様は自分で手配しなくても大丈夫ですよ’って。ドナって頭のいい人なの。周りの人が見ても不審に思われないように、文面は普通の連絡みたいにしてくれる。だから、夜のうちに荷物をまとめて…その後のことは、前に話したでしょ」
 サゲンは静かに頷いた。
「役人に賄賂を渡してベルージ家と縁を切り、船に乗ったんだったな」
「…実は、続きがあるの」
 アルテミシアは隣に座るサゲンの手を握り締めた。サゲンも手を握り返すと、アルテミシアは少しだけ緊張を解いたように息を吐いた。
「船に乗ったあと二年くらい経って、ルメオの商船の船乗りたちと酒を飲む機会があったんだ。それが、偶然、母の実家の商船だったの。勿論わたしの身元はバレなかったけど、わたしが船に乗った後にベルージ家と母の実家で何が起きたか知ることができた」
 アルテミシアは言葉を切り、ひどく困難なことに臨む様子で深呼吸をした。サゲンは無言で手を握ったままアルテミシアを見つめた。
「あいつ、エンリコ・ベルージ、わたしの代わりに母の兄の娘を差し出した。…ほんの十三歳だったわたしの従妹を」
 アルテミシアは奥歯を噛んだ。語調が激しくなるのをどうしても止められない。
「その話を聞くまで従妹がいるなんて知らなかった。でも、その子が嫁いだ後どうなったかわかる?一年も経たないうちに死んじゃったの。十三歳の女の子が、むりやり結婚させられたところで」
 サゲンは全てを理解した。
 アルテミシアが何故あの海賊にあれほど激しい怒りを見せたのか、何故エラの処遇にあれほど感情的になったのか。――エラに自分を重ねていたのではなく、犠牲になった従妹の存在を重ねていたのだ。それに、どことなく自分を卑下し、責めている様子が垣間見える理由も、これで納得できた。
「自分を責めるのはやめろ」
 アルテミシアはもはや感情を隠さなかった。生温い涙が頬を伝って落ちていく。
「君のせいじゃない」
「わたしが逃げたせいで従妹が死んだ」
「君は自分を守っただけだ。あの時ヒディンゲルに嫁いでいたら、君が死んでいた」
「わたしならそいつと戦えたかも。どちらにせよ従妹が死ぬことはなかった」
「十五歳の君にできることはなかった。それに、逃げたんじゃないだろう。君はただ逃げ出すために船に乗ったのか?」
「違う」
 アルテミシアはかぶりを振った。
「違う。船に乗ったのは、広い世界で自分に何ができるか試したかったから」
「そうだ。君は戦った。今も――」
 アルテミシアがサゲンの胸に飛び込み、しがみつくようにしてサゲンの背に手を回した。
 サゲンは少し躊躇した後、アルテミシアの身体を腕の中にすっぽりと収めた。過去の例え話など意味のないことは考えるべきではないが、どうしても考えてしまう。当時アルテミシアのそばにいて、自分が彼女を助けてやれていたら、彼女がこんな風に心に傷を負うことはなかったかもしれない。
 しかし、そんなことは絶対に有り得ない。アルテミシア・リンドが今自分の腕の中にいるのは、彼女が傷付きながらも苦難に満ちた人生と戦って来たからだ。このまま服を剥ぎ取り、裸で抱き合って彼女の頭を空にしてやれたらどんなにいいだろう。でもだめだ。それではアルテミシアの脆い部分につけ込むことになる。
 アルテミシアはサゲンの背にしがみつきながら、何度かゆっくり深呼吸をした。崩れ落ちそうだった心の一画が、徐々に再構築されていく。
「…軽蔑されると思ってた」
 サゲンはアルテミシアの背をぽんぽんと優しく叩いた。ドレス越しに背骨と肩甲骨の感触が手のひらに伝わった。腹が立つほど気丈なこの女が、やけに頼りなく感じる。
「俺をその程度の男だと思っていたのなら、残念だ」
 アルテミシアは声を出さなかったが、サゲンには彼女が笑みを漏らしたのがわかった。
「君は、俺が部下や同輩を作戦中に死なせたと知ったら軽蔑するか」
 アルテミシアはハッとして顔を上げた。慰めで言っているのではなく、実際にあったことだろう。目の前の顔が物語っている。眉間に刻まれた皺が、その辛苦を物語っている。多分、一度ではないはずだ。アルテミシアの心までキリキリ痛んだ。
「しないよ。バルカ将軍の力量は何となく知ってるから、その手に負えないんじゃ、どうしようもなかったんでしょう。…まあ、状況にもよるけど」
 サゲンの唇が僅かに弧を描いた。やはりアルテミシアの遠慮のない物言いは好ましい。
「今回のことで、ひとつ思い出した」
 アルテミシアは静かに言った。
「何だ」
「わたしを攫いに来たやつ、わたしのことが‘予定より早く必要になった’って言った。どうしてわたしが卒業するのを待たずに、わざわざ手の込んだことをしてユルクスまで攫いに来たのか、ずっと不思議だった」
 言いながら、背筋がゾッとした。サゲンも同じように不快感を抱いたようだ。アルテミシアの言葉を受けて険しい表情になっている。
「ヒディンゲルは海賊から女を買って客に売る汚らしい女衒だった。わざわざ大金を払って良家の若い娘を娶る理由は、自分が楽しむためだけじゃないはず。多分、わたしの前にも若い妻がいたんだと思う。わたしが予定よりも早く必要になった理由は…」
 アルテミシアは言葉を切り、唾を飲み込んだ。吐き気がする。その先をサゲンが引き取った。
「君の前に嫁いだ娘が死んだから。同感だ」
「そうだとしたら、従妹の後にも多分誰か女の子が嫁がされてる。それに、そんなのと繋がって娘を売ろうとしたエンリコ・ベルージも、多分違法な商売に手を出している」
「十分有り得る話だ」
 ヒディンゲルが高い金でアルテミシアを買おうとしたのは、貴族の娘だからだろう。血統の確かな貴族の若い娘に客を取らせれば、かなりの儲けが出るはずだ。エンリコ・ベルージが実子ではないことを承知の上でアルテミシアを実の娘として家中に置いておいたのは、そういう類の利用価値を見越してのことだったに違いない。結果、それは失敗した。血統書付きの娘を売り損ねたことが原因でベルージのヒディンゲルに対する立場は悪くなったはずだ。ヒディンゲルがベルージを更なる深みに嵌めていたとしても、不思議ではない。
 サゲンは心中に沸き起こるエンリコ・ベルージとヒディンゲルへの殺意を止めることができなかった。もしアルテミシアが船に乗る前に捕まっていたら、ガラテアに武術を教わらなかったら、彼女は今サゲンの目の前にいなかっただろう。出会う前に二人の男たちによって人生も命も奪われていたかもしれない。
 サゲンはアルテミシアを抱く手に力を込めた。
「君が賢く育ってくれてよかった」
 アルテミシアは思わずフッと吹き出した。
「何それ」
 サゲンは、アルテミシアの笑い声を聞くのがずいぶん久しぶりに感じた。安堵感が心に広がっていく。
「…折を見て、パタロアに行って探りを入れてみようと思う。ルメオ軍と共同で動くことってできる?イサ・アンナ様、頼めば許してくれるかな」
 今度はサゲンが失笑した。
「ずいぶん簡単に言ってくれるな。どれほどの大事か分かっているのか」
 まるで親に小遣いを無心するような気軽さだ。今まで頑なに過去の出来事から距離を置きたがっていたというのに、すっかり態度を変えてしまった。驚嘆すべき切り替えの早さだ。
「わかってるよ。見習いでも外交官なんだから」
 と、アルテミシアはサゲンの身体から離れ、唇を尖らせた。
「まあ、自国の大物が違法な奴隷売買に関わっているとなれば、ルメオも迅速に動くだろうな。国益の大部分が貿易の彼らにしてみれば、他国からの信頼や評判が落ちるようなことは何としても避けたいはずだ。…だが」
 サゲンの青灰色の瞳が柔らかい翳りを帯びてアルテミシアの目を覗き込んだ。アルテミシアの心臓がキュッと縮んだ。その先を聞かなくても、アルテミシアには分かる。サゲンが彼女をひどく気遣い、心を砕いていることが。
「君が行く必要はないだろう。ルメオ軍に任せれば済む話だ」
「ルメオ軍はあの屋敷に裏口がいくつあるのか知らないでしょう。勝手を知っているわたしが行った方が合理的だし、誰も何も話したがらなくても、顔見知りの使用人がまだいれば、わたしになら何か話してくれるかも。それに…」
 アルテミシアはサゲンに向かってにっこり笑い、そっと手の甲に触れた。
「わたしは大丈夫。あなたが一緒にいれば。…バルカ将軍」
 サゲンは思わず眉間に皺を寄せ、目を閉じた。
(これは――)
 わざとか?と思わず問い詰めたくなった。サゲンは以前、「次は襲う」と明言し、アルテミシアはそれに対して動揺を見せた。それなのに、この安心しきったしどけない仕草はどうであろう。
(いや、無自覚なのか)
 いずれにせよ、今日はだめだ。サゲンは崩れそうになる自制心を何とか押しとどめ、やけに脚が重く感じるのを無視して立ち上がった。
「今日はもう屋敷へ帰って休め」
「もう大丈夫だってば。仕事も山積みだし…」
「だめだ」
 サゲンはにべもない。
「さっき君は何でも言うことを聞くと言ったな。今日はもう休め。聞き分けないなら厩まで担いで行くぞ」
 アルテミシアはぐうと唸って押し黙り、大人しく従った。サゲンが厩まで付いてくるのでまさかと思ったが、案の定サゲンは馬丁にデメトラではなくティティの轡を取らせた。
「送る」
「一人で帰れるよ」
「だ」
「だめだ、ね。わかった、わかった」
 サゲンが言うよりも、アルテミシアの方が早かった。アルテミシアはぐるりと目を回しながら辟易したようにやれやれと首を振り、さっさとティティの艶やかな黒い背に跨った。
「冗談で言っているのではないぞ」
 サゲンもその後ろに跨ったが、アルテミシアの反抗的な態度を受け、自然と不機嫌な声色になった。
「わたしだって子どもじゃないんだから、保護者みたいな態度はやめてよ」
 アルテミシアも同じくらい不機嫌になる。サゲンは鼻で笑った。
「保護者?保護者だと」
「何よ」
 アルテミシアは背後を振り返って応戦した。サゲンの瞳が剣呑に光る。
「君に手が掛かるのは事実だが、保護者になったつもりはない」
「へえ。そう?」
「君は俺の気持ちを知っていると思っていたが」
「知ってる。今聞いたもの。手が掛かるって」
「それは君に関する事実であって、俺の感情とは別のものだ」
 サゲンが大真面目に反論してきたので、アルテミシアは今までの苛立たしさも忘れて失笑した。
「たしかに。正論」
 サゲンは溜め息をついた。
 アルテミシアの警戒心が薄いのは、両親から大切にされなかった生い立ちのせいなのだろうか。いかにユルクスが安全な街だとしても、十四歳の少女が大勢の人間がごった返す祭の日に一人で露店を巡ろうとするなど、あまりに無謀だ。おまけに、思春期真っただ中の男子学生だらけの寮で三年間も暮らしていたとは。
(馬鹿な)
 この先を考えるのはやめた。過去の寮生たちに嫉妬心を抱くなど、あまりに幼稚過ぎる。

 屋敷に着いてからも、サゲンはアルテミシアの寝室の前までついてきた。
「ちょっと心配し過ぎじゃない?わたしってそんなに信用ない?」
「こと君自身のことにかけては、そうだな。君には自重という概念がない」
「馬鹿にしないでよね」
 アルテミシアは頬を膨らませて憤慨した。
「俺は城へ戻るが、君は今日一日寝ていろよ。退屈だからって身体を動かすな」
(やっぱり保護者みたいじゃない)
 サゲンの口ぶりにまたしても目をぐるりとさせたくなったが、我慢した。その代わりに、別の方法で意趣返ししてやろうと決めた。
「夕刻には部下たちが戻るから――」
 アルテミシアは不意をついた。
 サゲンの唇の端に、アルテミシアの柔らかい唇がそっと触れた。サゲンは驚いて言葉を失い、動くのも忘れてしまった。アルテミシアはサゲンの手が腰へ伸びてくる前に俊敏な動作で後ろへ下がり、扉を閉め始めた。
「じゃあね、バルカ将軍」
 パタン、と控えめな音をたてて扉が閉まると、滑稽にも突っ立ったままのサゲンは敗北感に襲われた。
(してやられた)
 たった今扉を閉める直前に見せたアルテミシアの悪戯っぽい笑顔が妙に脳裏に焼き付いた。
 心を許し、サゲンを相手に安心しきった顔。――
(本当に俺を保護者か何かと思っているんじゃないだろうな)
 だとしたら、打開策が必要だ。アルテミシアはここのところサゲンに心を許しているようだし、雰囲気も悪くない。しかし、これがいい兆候なのかどうか、いまひとつ判断できない。サゲンが彼女に近付き過ぎないよう必死で自制心を働かせていることを、アルテミシアは承知しているのだろうか。こちらは顔を見ればその肌に触れたくて仕方がないというのに。
(男女のことに関しては、まだ子供なのだ)
 そう結論付けることにした。彼女の生い立ちでは色恋などとは無縁だっただろうし、男たちと暮らしていた時も父親代わりのバルバリーゴがそういった害悪から彼女を守っていたに違いないから、結果としてアルテミシアは男女の機微を理解しないまま大人になってしまったのだろう。
(いや、あるいは計算づくなのか)
 だとすればますますとんでもない女だ。千人を率いる指揮官たる自分が、十余りも年下の女に手玉に取られるとは、あまりにも滑稽ではないか。
 サゲンは苛立ちとも焦燥ともつかない気分のまま、城に向かって馬を駆った。

 ――パタロアへ行く。
 心を決めてしまえば簡単だ。アルテミシアはベッドの上に横たわり、幾何学模様の格天井をじっと見つめた。
「はっ」
 無意識のうちに笑い出した。肺の中の空気が勝手に笑い声となって出ていったようだった。何年も澱のように心の底にわだかまっていたものが流れ出し、浄化していく。
 最悪な人生の一部をサゲンが受け入れてくれたことで、過去との繋がりを自分でも受け入れることができた。不思議なほどあっさりと。
 それに、頭が冴えた。
 上手くエンリコ・ベルージにヒディンゲルへ渡りをつけさせることができれば、カノーナスの居所を掴めるかもしれない。
(母様は知っているのだろうか)
 既に親子の繋がりなどは無くなってしまったが、それでも母親のことが気掛かりだった。ベルージがヒディンゲルに娘を嫁がせようとした時、母はどうしたのだろう。幼い娘によく見せた、あの全て諦めたような顔で受け入れたのだろうか。ヒディンゲルがどのような人物なのか、知っていたのだろうか。今ではもう生きているのかも分からない。
(もし既に死んでいたら、わたしは涙を流すだろうか)
 アルテミシアにとって母親と言えば、物心つく前から愛情をもって育ててくれたドナのことだが、実の母親に対してどういう感情を抱いているのか、よくわからない。怒っても、恨んでもいない。母親として愛していると言えば、そうかもしれない。ただ、それを実感できるほどの時間を共に過ごしていないのだ。
 イノイル軍とルメオ軍がパタロアのベルージ邸へ行けば、エンリコ・ベルージは間違いなく人身売買の罪で投獄されるだろう。そうなれば、ベルージ家には恐らくまだ跡取りがいないから共和国に僅かな領地を没収されることになる。その時、母はどうなるのだろう。
(ちがう。わたしが、母をどうするか…)
 当事者であるアルテミシアが「母はわたしの売買に関わっていない」とはっきり証言すれば、恐らく罪に問われることはないだろう。問題はその後だ。家もなくなり、実家にも帰れないとなれば、尼寺か貧民街へ行くしかない。
(それとも、オアリスで一緒に暮らす?今更…)
 一緒に暮らしていたのは六歳までで、母親と生活を共にした記憶など全くと言っていいほど残っていない。引き離された寂しさも、既に忘れてしまった。
 アルテミシアはオアリスへ来て初めて未来のことをあれこれと考え始めた。そして、母親やパタロアのことよりも先に考えるべきことに思い当たると、思考がぱったりと止まってしまった。――サゲン・エメレンスだ。
 冷たい色の瞳が時折燃えるような視線を投げかけてくる。そのたびに、大きな手の温度や形の良い唇が肌に触れたときの感触が甦り、身体の内側で何かが暴れ出すのだ。誰かに対してこういう気持ちになったのは初めてで、どう対処していいのかわからない。時にはひどく腹が立つこともあるが、サゲンの側は居心地が良い。それなのに、時々全力で逃げ出したくなる。矛盾だらけだ。
 これまでのアルテミシアの人生には、そういう類の相手は登場しなかった。幼少期は山の屋敷が世界の全てで、異性として認識できるほどの男性がいなかったし、ユルクス大学に通い始めてからは、年上の男子学生たちと共通の議題に関して意見を交わし合う友人にこそなったが、彼らは勉学に燃えるアルテミシアにとって、憧れではなく競争の相手だった。彼らに軽く見られないために、アルテミシアは猛勉強して誰よりも優秀な成績を取ったし、振る舞いにも気を付けた。ドナが厳しく教えた淑女らしい歩き方や話し方は、上流階級の集う社交界では武器になるが、平民から貴族まで、様々な身分の男子学生が集う学びの場では逆効果だ。だから歩くときは背筋をピッと伸ばして両足を四十五度に広げ、笑う時は大口を開けて思い切り声を出し、女の子っぽい話し方もやめた。どちらもドナが見たら大いに嘆いただろうが、この習慣は男たちの中で上手く立ち回るのに大いに役立ってくれた。船に乗ってからも同じだ。
 ところが、サゲン・エメレンスはアルテミシアの女性としての自意識を目覚めさせた。あの目で見つめられると、今まで鎧のように纏ってきた男でも女でもない強い自分を脱ぎ捨てたくなってしまう。アルテミシアもサゲンに惹かれているからだ。それは自覚している。それでもまだ一歩踏み出せないのは、自分に価値を見出せないでいるからだ。
 サゲンは海軍司令官で、名家の生まれで、法務官の父親と世話焼きな母親に育てられた。女性に人気があって、忘れられない昔の婚約者がいる。一方自分は、家族に愛された経験がほとんどない上、父親が誰かも分からない。帰る家もない。持っているのは必死な思いで磨いてきた才覚だけ。
 仕事のことや自分の才覚に関しては自信に満ちているのに、人間としての自分には全く自信を持てない。これも矛盾している。
 ただひとつ確かなのは、容易に忘れることができないほど、サゲンとのキスが心地よかったことだ。時折思い出すあの温度と低く優しい声は、今まで知ることのなかった安らぎを与えてくれた。それから、篝火の下で味わったあの――。
 アルテミシアはぎゅっと目をつむって考えるのをやめた。これ以上思い出してはだめだ。本当ならすべてを思い出して甘い気持ちに浸りたいが、それをしてしまったら明日からサゲンと顔を合わせるたびに防御壁のない孤城で籠城戦をするような思いに悩まされることになる。
(ああ、これも、矛盾…)
 寝返りを打って窓の方へ顔を向けると、涼しい風が顔を撫でた。既に雨が上がっている。この感情に名前を付けるべきだろうか。
 アルテミシアは考えを巡らせながら、いつの間にか眠りに落ちた。
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