やさしいキスの見つけ方

神室さち

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やさしいキスの見つけ方

4-1 キス

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 夏清が頷くのを見て、そっと、井名里の顔が降りてくる。自然と目を閉じてしまった。唇に触れるだけの軽い口付け。

 目をぎゅっと閉じれば、必然的に口も引き結ばれてしまう。けれど固く閉じた夏清の唇を無理に開けるような事はなく、井名里の薄い乾いた唇が、額やまぶた、涙の筋、頬、鼻の頭……顔中に降り注ぐ。その唇が離れるたびに次はどこにキスされるのかと夏清の心臓がどきどきする。


 長い指が、耳に触れる。ゆっくりとやさしく。



「ん……」

 体の芯が、びりびりする。

 再開されない口付けに、夏清が薄く目を開けると、井名里が微笑んでいる。いつもみたいに人を馬鹿にしたような、そんな笑いではなく、本当に、幸せそうに。



 どうしてそんな顔をするのだろう。



 夏清の知っている井名里は、こんな顔をしない。いつもイライラしている様子で、近づいたら切られそうなくらい鋭角な空気をまとっている。そんなイメージと、目の前の井名里が、夏清の中で重ならない。一体どっちの彼が本物なのだろう?


「先……せ………」

 言葉が途中で殺される。再び夏清の唇に戻ってきた。井名里の唇が熱いくらいの吐息と一緒に。

「ふ、ん、ぁ」

 やっぱり熱い舌が、夏清の咥内を這い回る。歯茎をなぞるように動いたかと思えば奥から夏清の舌を絡めるように吸い上げる。


 懸命に鼻で息をしながら、されるまま必死でキスに応じる。

 いつしか時計の音さえも、卑猥に響くぴちゃぴちゃと言う音にかき消されて聞こえなくなる。

 キスと同時に指が耳を愛撫する。

 たったそれだけなのに、脳みそがとろけそうだ。



 無意識に夏清が足をすり合わせる。知識として「濡れる」事を知っていても、夏清は一度も「濡れた」事がない。


 店で働く同僚にはフェラするだけで自分も濡れる、と言う人もいたが、夏清にはその行為もにおいも味も、苦痛でしかなかった。

 どうしよう……キス、してるだけなのに。


 ズズッと言う、唾液を吸い上げる音がして、井名里の唇が離れていく。目を開けると唾液の糸が二本、唇をつなぐように渡っている。


 切れて、そのまま開きっぱなしの口の端から、唾液が流れ落ちるのも、今日はなぜかぜんぜん苦にならない。体がふわふわしていて、温かい。


 ぼぅっと井名里の顔を見つめる。唾液にまみれた己の唇を、井名里が舐める姿が、たとえようもなく妖艶に映る。

 視線が、その唇から離せない。

 なにも考えられずただ井名里を見ているとやっぱり幸せそう、と言うのが一番ぴったりする笑顔で井名里が自分を見つめている。



 井名里の手が、髪の中に入ってくる。

 固い床から開放されて、夏清は思わずその手に頬をすり寄せた。





「夏清……」

 そんな夏清を見て、井名里が、名前を呼んだ。

 高くもなく、低くもない心地よい声が夏清の心に染みた。



 そう言えば、記憶のなかで最後に、誰かに名前を呼んでもらたのはいつだろう?

 祖母が亡くなる日も、夏清は祖母の家に行っていた。夏清にとって「家」は祖母がいる場所であり、祖母が唯一の「家族」だった。



 最後に自分の名を呼んだのは祖母。



 今、目の前にいる井名里のようにやさしい瞳で夏清を見つめながら、祖母が呼んでくれた名前。


 とたんに、涙が溢れ出す。けれどその涙は、これまでの冷たい涙ではなく、暖かくて切なくて、幸せな涙。

 突然ぼろぼろ泣き出した夏清に、井名里がどうしようかとおろおろしているのが分かってまた泣けてくる。

 井名里は、なにも聞かずに夏清を抱き起こし、あぐらをかいた足の上に座らせてその胸に抱く。



 徐々に声を上げて、子供のように泣く夏清の髪をなでて、背中をなでてくれる大きくて暖かい手。


 そうだ。祖母が亡くなったとき、夏清はショックで声も出なかった。知らせてくれたのは隣のおじいさんだった。叔父達は、夏清に祖母の死を知らせてくれなかったのだ。結局夏清は、祖母のひつぎに近づくこともできないまま、一番遠くから見送った。



 涙は一粒も出なかった。泣くことすら忘れるくらい、祖母の死は夏清にとって大きな衝撃だった。






 ひとしきり泣くと、妙にすっきりした。

 頭と目は泣きはらしたせいで重いけれど、心が軽くなった気がする。

 そっと頭を井名里の胸から離す。

「落ち着いたか?」

 そう聞かれて頷く、なぜだか、顔を上げて井名里の顔を見ることができない。



「あの、ごめんなさい……」

「なんで謝るんだ?」

 涙が伝ってぱりぱりになった頬にやさしく触れた井名里の指は、そのまま顎に向かってそっと夏清の顔を引き上げる。

「だって、いきなり泣いたし……先生、訳分からなかっただろうし……」

 しどろもどろで夏清がそう言うと井名里は満足そうに笑う。

「ねえ、先生」

「なんだ?」

「どうして先生、そんなにやさしいの?」

 夏清の中に生まれた純粋な疑問。



 風俗店で夏清を見つけた井名里には、もっと別の選択肢がたくさんあったはずだ。

 そのなかで、一番卑劣だけど、一番井名里がやりそうだと思ったのが「言うことを聞かなければ学校にばらすぞ」と言う脅迫。

 夏清の体が目的で、しかも小銭を稼がせようと思えば、なにもあんなに必死の顔をして店まで辞めさせる必要などない。一緒に住んで毎晩させろと言ったほうが、よほど手っ取り早いだろう。


「考えてみな、学年主席」

 からかうようにそう言って、ひざから夏清を降ろして立ちあがる井名里。夏清も手をひかれて、立ちあがろうとしたのだがどうにも腰から下に力が入らない。


「どうした? 腰が抜けたか? そんなに気持ちよかったか? キスが」

 あっという間に体中の血が顔に集まった気がした。かーっと、顔が熱くなる。

「ちがっ! 急に名前、呼ばれたから……」

 必死で言い訳をする夏清を面白そうに井名里が見ている。

 これだけ顔が赤ければ、そうだと答えているも同然だ。

「ほら、抱えてやるよ」

 井名里の腕が、夏清の腰にかかる。夏清を抱き上げるためにしゃがんだ井名里に、もう一度夏清が問う。



「ほんとに……なんでそんなにやさしいの?」


 聞いて、夏清はまた泣きそうになった。自分はどんな答えを求めているんだろう。


 すがるように、夏清が井名里を見つめる。思いつめたように自分を見つめる夏清に、井名里が困ったように苦笑した。

「ほんとに分からないのか?」

 しばらく考えた。けれど分からない。



「分からない。他人(ひと)の心なんて、わからない」


 搾り出すようにそう言った夏清に、井名里が肩をすくめるような仕種をした。

 視線を泳がせた後、夏清が、でも……と言葉を続ける。



「でも……誰かにやさしくしてもらうのが、こんなにうれしいことだって、思わなかった。おばあちゃんと居た頃は、それが当たり前すぎて、誰かに心をこめて名前を呼んでもらうのが、こんなに幸せな事だって、やっとわかったの」


 やっとそれだけ言って、夏清はまたうつむいた。うっすらと頬が赤くなっている。うつむいた顔を、井名里の手がまた上げさせる。瞳が合う。


「そうか」

 唇が触れる。自然に舌が絡む。顔の角度を何度も変えて、ひたすらキスを繰り返す。引けば追われる。遠退いたらすがってしまう。


 柔らかい舌を追いかける。ネコがミルクを飲むような、そんな音が耳朶(じだ)に届く。うっとりとむさぼるように、お互いの全てが口移しで伝わるようなキスを交わす。



「んぁ、くん」

 キスをしながら、肩に置かれていた井名里の手が夏清の背中に回る。

「あ」

 唐突に、唇が離れた。なぜかそれだけで悲しくなる。胸が痛い。どうしてこんなに切ないのだろう?

 訳がわからない夏清を、井名里が抱き上げた。そのまま立ちあがって、リビングから続くドアを足で開ける。

 薄暗い室内の大半を占める、セミダブルサイズのベッドが目の前に見えた。

 心臓が、跳ねあがったような気がした。

 夏清がすぅ、と息を呑む音が、井名里にも届く。程よく力が抜けていた体が強張っていくのが、腕を通じてダイレクトに伝わった。顔を覗くと力いっぱい目を閉じている。


 夏清に分からないように、苦笑した後ため息に半歩及ばない息をついて、井名里はベッドの上に、そっと夏清を横たえる。


 これから起こることを想像しないように、体を固めている夏清の額にかかった髪が、そっと払われて、現れた額に唇が触れるのが分かる。

 心臓はとっくに壊れているのかもしれない。

 いや、もう体の中になくて、耳のすぐ横でばっくばっくと鳴っている。

 しばらくそのまま、なにも変わらない。



 いつまで経ってもなにも起こらないことに夏清が恐る恐る、と言った風でまぶたを上げたら、今日何度目に見ただろう、井名里が困ったような、それでいてどこか大人の余裕を感じさせる苦笑を浮かべている。


「せん、せい?」

 起きあがろうとした夏清に、乱暴にふとんをかぶせて、井名里が言う。

「明日も学校あるだろう、もう寝とけ」

 寝ろ、と言われても、イマイチ状況がよく分からない。

「添い寝が必要なら、いくらでもするけど? 期待には応えないとな」

 ふとんから顔を出して、目をしばたく夏清に、学校で見る井名里と、ここにいる井名里を足して二で割ったようないたずらっぽい瞳をして、井名里がからかう。



「いっ! いいです!! 一人で寝ます」

 再び頭までふとんをかぶる。



「そりゃ残念」

 大して残念そうでもない口調でそれだけ言うと井名里はふとんの上からぽんぽん、と叩き、そのままドアが閉められた。

 暗い室内。自分のものと違う匂いのするふとん。けれどそれは決して不快なものではなくそれまでと同じように井名里がそばにいるような、とても安心できる匂いだ。



 なんだかまだ興奮しているような気がしたが、ほどなくして、夏清はゆっくりと、久しぶりにいやな夢も見ずに眠った。


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