やさしいキスの見つけ方

神室さち

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やさしいキスの見つけ方

5-1 体

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 ちょうど眠りが浅くなっていたのかもしれない。なにかが微かな音を立てた。その音に目を覚まして、見知らぬ空間に一瞬戸惑う。ああ、井名里の部屋だ。そう思うとなんだかくすぐったいような柔らかい気持ちになっていく。


 起きあがって見ると、リビングにつながるドアから、細く明かりが漏れている。

 サイドボードに置かれた時計は午前三時を回ったところだ。

 眠ったのは三時間ほどなのに、頭はすっかりクリアになっている。


 そっとドアを開けると、火をつけていない煙草のフィルターを噛み潰していた井名里が気づいてこちらを向く。リビングのテーブルにはノートパソコンと缶ビール、何本か吸殻の入った灰皿。

「悪い、起こしたか?」

「ううん。平気。久しぶりにすごく寝た気がする」


 夏清が寝ている間にシャワーでも浴びたのだろう、ゆったりとしたトレーナーとイージーパンツ。普段スーツを着た姿しか見ていなかったので、とても年上のように見えたのに、こう言う格好をして、まだ少し湿っている前髪を下ろした井名里に、三歳くらい若返ったような印象を受けた。


「いつもは眠れないのか?」

「んー……夢見るからかな。寝たのに、夢の中でものすごく走り回ったりするから、起きたらすごくつかれてたりする」

 井名里は、あえて夢の内容を尋ねようとはしなかった。そんな夢は、ろくでもないに決まっている。話してすっきりしたいのなら、夏清が自分から話すだろう。話さないのなら、無理に聞くことはない。


「茶でも飲むか?」

「うん」

 パソコンの電源を落として、井名里が立ちあがる。


「仕事、してたの?」

「そ」

「先生こそ、寝てないの? 明日つらいんじゃない?」

 がちゃがちゃとガスをひねって、湯を沸かしている井名里の背中に、夏清が問う。

「別に。三年の受け持ち時間が空いて三学期は前よりヒマだからな。授業二つしかないから、空いたときに寝る」

「うわ、卑怯だ」

「何を言う、教師はいろいろ多忙なんだよ」


 火をつけていない煙草をそのまま流しの三角コーナーに捨てて、井名里がそういう。


「私みたいな生徒もいるし?」

「そうだな」

 否定もせずに井名里が笑う。ちょっと腹が立ったのに夏清もつられて笑う。

「ねえ、先生」

「なんだ?」

「私、ほんとにここにいていい? 邪魔じゃない?」


 机の上で指を組む。無意味に指を動かして夏清が言葉を続ける。


「ばれたら、先生だって……タダじゃ済まないよ?」

「なに言って……うわッ!」

 がちゃん! と、やかんがシンクの中に転がって、猛烈な湯気が上がる。

「先生!!」

 慌てて夏清が立ちあがって、キッチンに駆け寄る。

「大丈夫? やけどとか、酷くしてない? ……アレ?」

 手元を見ようと身を乗り出した夏清も、さすがに気付く。湯がこぼれただけだ。井名里に怪我はない。


「よかっ……た」


 ほっと息をついた夏清が見上げると、井名里がひっかかったな、と言うような顔で笑っている。騙されたと思ったそのとき体が、一瞬浮いた。


 そのくらい突然で、強い抱擁。


「先生、ちょっと苦しい」

 息も出来ないくらい力の限り、ではないのだろうけれど今までと違う力で抱きしめられて戸惑う夏清。

 さすがに苦しい、と言われたら井名里も腕の力を緩めざるをえない。

 しばらく、爪先立ちになりながらただ抱きしめられている。腕まで一度に井名里に抱えられたら、夏清が井名里の背中に腕をまわすことは不可能になってしまう。


 ことん、と観念した夏清の額が井名里の肩に当たった。


「先生?」

「お前、ほんとにわかんないかね?」

 耳元で、ささやくような、心底呆れている様子の声にさらに夏清が混乱する。



「だって、私、その、バージンじゃないし、あんなとこでバイトしてるし……それに先生、私のこと嫌いでしょ?」

「は?」

 井名里が、思わず体を離して問いなおす。



「え、だって、学校でもなんか避けてるし、質問したら先生ほんとにいやそうな顔するし、当てられて答えても、ものすごーく、ほんとに本気でめちゃめちゃ不機嫌になるでしょ? がんばって満点取ったら、舌打ちするし、いつも睨んでるし」

 ここぞとばかりに普段言えなかったことを言ってみる。見詰め合いながら言う台詞ではないが、夏清が指折り数えて井名里がいかに自分にひどいことをしているか訴える。

「そりゃあ、なあ、あれだ」

「アレって、どれですか? 私絶対、先生に嫌われてる自信ある」

「まぁ最初はそうだな、なんてヤな生徒だろうって思ったよ」

「やっぱり」



「そりゃお前、こっちがあーでもない、こうでもないって難しすぎないように難しく見せかけようって文章から数字まで頭ひねって三時間かけて作った問題モノの三分で解かれたら、立つ瀬がないだろう?」

 言いにくそうにそう言って、井名里がそっぽを向く。

「それに、どんな難しいことやってもお前、ついてくるだろ? 授業に……だからまぁ……最初は意地だよ、絶対負かしてやるって。で、本気で難しく作ったつもりの期末で満点だぜ? そりゃあ舌打ちだってしたくなるってもんさ」

「じゃあ、なに? あのバカみたいに早いピッチの授業って……」



 夏清との戦いだったのだ。そんなことに目の前の男は、一学年三百人あまりを巻き添えにしたのだ。



「だんだんそれが面白くなってきてな、こうやったらお前がどう出るだろう、とか、これならわからないだろう、とか」

 ひどい話である。今年の一年生の三分の一が数学の補習を受けなくてはならない赤点組になってしまっているのだ。それが自分のせいだったとは、夏清は夢にも思わなかった。

「気がついたらお前ばっかり見てたよ」

「どおりで……いつも睨まれてるな、って思ってた」

「おいおい」


 素直に感想を述べる夏清に、苦笑して井名里がつっこむ。なんの事はない、小学生の男の子が好きな女の子に意地悪をするのと変わらないレベルだったのだ。ただし、大人がやっているので他人まで巻き込んでひどい事態になっている。


「ずっと言わないつもりだったんだがなぁ」

 大体、井名里は今年二十七になるし、夏清はこの間やっと十六になったばかりだ。自分でもこんな小娘にこんなにのめり込むとは思ってもいなかった。

 照れながら苦笑する井名里がなんだかとてもかわいかった。


「でも、じゃあそれこそ……嫌いにならなかった?」


 おずおずとそう聞く夏清。


「ならなかった。自分で賭けとか言っといてホントのとこ、もう必死だよ。気ぃ逸らすのに。嫌いにはならなかったけど、絶対辞めさせようと思ったから」

「それって、先生だからとかじゃなくて?」



 見上げる夏清の瞳が、きらきらしている。純粋に嬉しそうにされて、井名里が夏清を抱いていた両手を上げて降参のポーズを取る。



「俺が個人的に嫌だから」



 井名里がそう言い終わるより先に、夏清が無防備に晒されている井名里の胸にしがみつく。力の限り。

 小さな声だったけれど、はっきりと。

「うん、あんなことやめる」



 頷いて、夏清はそう言いきったあと、小さな声で一言だけ続ける。


「ありがと」



 耳を当てた胸の向うで、井名里の鼓動が早くなるのが、聞こえた。



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