信長伝

夢酔藤山

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第一五話 都鄙和睦3

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               三


 寛正六年(1465)六月。
 足利成氏は武蔵国太田荘に出陣し、越後上杉民部少輔房定と戦った。
 越後上杉家は関東と一味した存在で、山内上杉家から分かれた一族である。そのため双方の血脈危ういときは養子を送り迎えしてきた。どの上杉支族のなかで、血縁的にはもっとも関東管領職の者に近く、濃い。房定はその越後家六代目である。
 上杉房定と成氏の因縁は深い。
 かつて鎌倉で上杉憲忠を討って以来、上杉房定は関東へと出馬した。かれこれと、もう一六年にわたり、上杉房定関東に踏みとどまり帰ろうとせず、成氏打倒の執念を燃やしているのだ。
「あれは、狂っている」
 成氏は嫌なものをみる目つきで、上杉房定のことを評する。
 上杉房定にも真っ直ぐな芯がある。幕府大事という、融通もない揺るがぬ心だ。後年、上杉謙信は関東長躯を重ねたが、その執念によく似ている。しかし、上杉謙信はちゃんと帰国した。この上杉房定は帰国することなく、関東に踏みとどまって転戦を続けたのである。
「あの執念は鬼神なり」
 足利成氏が房定を狂人と評したように、関東管領を軸とした関東上杉氏は上杉房定に最大の賞賛をした。
 このときの合戦は足利勢に有利だった。
 武田信長が脇にいなくとも、いまの成氏のもとには、戦さ上手の武将が世代交替で育っている。士気のうえでも、上杉方より勝っていた。
 苦戦を強いられた房定は、幕府へ救援を訴えた。
「これ以上、東国に目を向けられぬ」
 足利義政は一向に見通しのない関東への積極的な軍事関与を避け、伊豆に留まる堀越公方・足利政知に、こののちの一切を委ねた。つまり、まる投げだ。
「厄介は、みんなこちらに押し付けようってことか」
 腐りながらも、これは好機だと政知は考えた。
 関東に必要な足利の血、公方と呼ばれる存在。古き厄災たる呪われし末裔よりも、京都に近い新しい血こそが公方と称するにふさわしい。関東に知られていないなら、いまこのときこそ、名乗りを上げる絶好の機会だった。
「もう、古河公方など、忘れてしまえ。これよりは堀越から罷り越すあらたな公方が鎌倉に入りて、関東管領をも従え一統の秩序を描くこととなる。その美しき秩序こそ、誰もが望む流れでなければならぬ。もう、無益な戦さは矛に収めて然るべし」
 足利政知の言葉は優美で、甘美だ。
 誰もが、そうであって欲しい望みを表すものだった。それが、古河か堀越か、その違いだけのことだが、美しい言葉を操る者は、人を迷わす力がある。武力よりも口舌、それが力となることを足利政知は知っている。
「最初に」
と、足利政知は幕府からの命令だと称し、執事・犬懸上杉治部少輔政憲を武蔵の上杉陣営に派遣した。
 足利政知が癖者だとしたら、この上杉政憲もしたたかだ。
 武蔵へ行くにあたり
「与力の采配は、全権に任されたし」
という主張を、上杉政憲はとりつけた。丸腰で戦乱の渦中へ飛び込む馬鹿はいない。その護衛にあたる与力は、今川から調達するのが適格だ。
「好きにしろ」
 上杉政憲の意図は、幕府の先兵たる今川に弓退く馬鹿は古河公方にも上杉にもいないという先見による。もっとも安全な用心棒を伴う策は、手を汚さずに漁夫の利をかすめるという、足利政知の狙いにも一致する。
 駿府では足利政知の存在が迷惑らしい。上杉政憲と面会したのは、外孫で今川一族の小鹿範満だった。
「関東へ赴くは幕府の意。さりとて堀越公方様に独自の兵はなし。このこと、駿河探題の力をお借りしたい」
 十分な名目だ。
 しかし今川家にしてみれば迷惑極まりない。これまで頻繁に関東遠征を重ねてきた、今川家にとっても、実入りのない遠征は負担だった。そのことも上杉政憲は見越している。
「探題自らでなく、名目の立つ御方を立てて下されば」
 すなわち今川家と分かる者へ、弓を引く者は関東にいないという意味だ。実際、幕府の名代として今川家が出張れば、直接攻めるほどの強気な輩は、ほぼいない。
「名目はそれとして、あくまで小鹿の一存ということで発つべし」
 今川家の判断は冷淡だ、
 関東から距離を置いた決定である。
 これまでも今川家は
「関東に外部から侵攻することは、決してご当地の為ならず」
という考えを幕府に示してきた。鎌倉公方が存在していた頃から、今川家は常に幕府の先兵として東国を質す立場にあった。しかし東国の混沌は、その叱責に応じられる状況ではない。
「徒労は、もう御免だ」
というのが、今川家の本音だった。
 その建前も、上杉政憲ひいては足利政知にとって都合がいい。
 それを挫いたのが幕府というのも、滑稽だ。
 この少し前、扇谷上杉家宰・太田資長が上洛し、将軍・足利義政と会った。
「関東静謐の策を言上仕る」
 堀越公方が騒ぎの基という太田資長の、指摘する事柄の殆どは無作為な義政の衝動的示唆によるものばかりだ。が、露骨にそれを義政に云えることではないし、太田資長も追及していない。堀越公方が動かねば、収まるべきところに収まるものである。外部からの介入が、これまでも、これからも和を損なう。
「おもしろい話だ。的を射ること、甚だ得心のいくものばかり」
「されば」
「幕府も介入を好まず」
 太田資長の上洛により、足利義政は二転、三転と、判断を変えた。
「なにぃ?今度は動くなってぇ?」
 今川からの与力を調達し、進発を整えた頃になり、幕府から
「むやみに介入せず静観に徹すること」
という急使が堀越御所にきた。
「我らは遊ばれておるのでしょう」
 上杉政憲の呟きには、無念が漂っている。その無念を露わにするほど、上杉政憲も純粋ではない。精一杯の皮肉を虚空に吐きつけながら、まだ出番ではないことを噛み締めるのであった。
 太田資長、のちの太田道灌である。 

 七月に入った。
 主な戦さ場は、下総国松渡、武藏国太田荘、下野国足利荘などだった。足利成氏は、すべての戦場に顔を出し、常に各地で戦うこととなった。が、気勢は衰えを知らなかった。
「皆のことを頼もしく思う」
 そう口にするだけで、士気は大いに高まる。
 結城成朝のこともある。兵に心を配ることで、成氏の立場を理解して貰うことに徹した。そのことがいい方向に結び付いたとしたら、あのほろ苦い経験も、決して無駄ではない。
 上杉勢は在地の処々でこれに応じた。
 この勢力は、関東管領家である山内上杉氏と庶家の扇谷上杉氏がその中核となった。ほかの上杉家は在所の守りを優先にすることが多くなり、この二家と家来による戦さという様相に変わっていた。
「劣勢ゆえを、幕府から援軍を望みたい」
 その弱気に対し、自力でも戦えることを太田資長が説いて宥めた。事実、太田資長は足軽の用兵を実戦で采配し、負けぬ戦いをすることで定評があった。たしかに太田資長ならば戦える。しかし、上杉勢のすべてが、それほど戦さ上手という訳ではない。
 強いがゆえ、上杉二家は太田資長を恐れ疎みはじめていた。
 足利成氏ならば、そのようなことはない。現に、武田信長を父とも頼み、重宝とした。強ければ、いつか主家の寝首を掻くという妄執に縛られたのが上杉家だ。関東の主たる足利家を敵とするあたり、どこかで後ろめたい感情がある。ゆえの心の狭さだ。

 その頃、武田信長は安房へも援軍を差し向けて里見義実を支えた。
 房総が上杉支配から解き放たれるのは、もう決まったようなものだった。

 
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