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第十五話 崖と亀裂
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胃の腑が裏返るような吐き気が、ようやく引いてきた。
僕は泥で汚れた口元を手の甲で拭い、大きく息を吐いた。
地面が回って見える感覚はまだ残っているが、歩けないほどではない。
「……行くぞ、ガラム」
僕が声をかけると、ガラムは心配そうに鼻を鳴らした。
その背中には、リリアが乗っている。
彼女は顔色こそ悪いが、まだしっかりと手綱を握り、僕の様子を気遣うように見下ろしていた。
「……無理しないでよ。また吐かれても困るから」
軽口を叩く余裕はあるようだ。
僕は「善処するよ」と短く返し、歩き出した。
日は落ちかけ、森は急速に深い藍色に沈もうとしていた。
***
さらに一時間ほど歩くと、鬱蒼とした木々の密度が下がり、代わりにゴツゴツとした岩肌が目立つようになってきた。
湿った腐葉土の匂いが薄れ、乾いた土と岩の匂いが混じり始める。
「……止まって」
リリアがガラムの首を軽く叩いた。
ガラムが足を止め、僕も足を止める。
「……あそこ」
リリアが指差した先。
霧の晴れ間に、巨大な灰色の壁が立ちはだかっていた。
『灰色の断崖』。
木々の梢よりも高く、空を切り裂くようにそびえ立つ断崖絶壁だ。その頂上は雲に隠れて見えない。
「……壁、だな」
僕は圧倒的な威圧感を放つ岩壁を見上げた。
あの日、王城から追い出された時にも感じた、拒絶の壁。
それが物理的な質量を持って、僕たちの前進を阻んでいる。
「……ここを越えないと、王国の外には出られないわ」
リリアは杖で崖の南側を指した。
「南へ下れば、正規の街道があるわ。そこを通れば、馬車でも半日で抜けられる」
「……でも、そこには『検問所』がある」
「ええ。国境警備隊が目を光らせてるわ」
リリアはそこで言葉を切り、僕の顔をじっと見た。
その瞳には、試すような光が宿っていた。
「……あなたも私も、見つかりたくない理由があるでしょ?」
その一言だけで十分だった。
「不適合者」として廃棄された僕と、「追放者」である彼女。
互いの罪状や事情を細かく語る必要はない。
正規のルートを通れば、僕たちは「排除されるべきゴミ」として処理される。それだけは共通の認識だった。
「……ああ。捕まるわけにはいかない」
僕は頷き、視線を崖の方へ戻した。
「なら、道は一つね」
リリアが指し直したのは、断崖に入った巨大な亀裂のような場所だった。
大昔の地震か何かで岩盤が裂けたのだろう。両側を切り立った岩壁に挟まれた、V字型の深い谷間が見える。
だが、その入り口は、上から崩落した大量の岩石と土砂によって完全に塞がれていた。
「……『間道』よ。……王都から逃げる時、手引きしてくれた人が教えてくれたの」
リリアは懐をまさぐり、古びた羊皮紙の切れ端を取り出した。
「一見すると土砂崩れで行き止まりに見えるけど……。その地図によれば、あの瓦礫の山を乗り越えた奥に、渓谷へ続く細い道が残っているはずよ」
彼女の言葉には、その協力者への想いが滲んでいた。
命がけで逃がしてくれた誰かがいるのだ。だからこそ、彼女はここで捕まるわけにはいかないのだろう。
「……ただし、何十年も使われてない廃道よ。足場は最悪だし、魔物の巣窟になってる可能性も高いわ」
リリアは不安げにガラムの首を撫でた。
「馬を連れて行くには、かなり危険な賭けになるわ。……どうする?」
僕は入り口を塞ぐ瓦礫の山を見上げた。
高さはあるが、登れない角度じゃない。あそこさえ越えれば、あとは谷底の平坦な道が続いているはずだ。
「……どうだ、ガラム。行けるか?」
僕が問いかけると、ガラムは崖の方を一瞥し、それから「ブルルッ!」と太く短く鼻を鳴らした。
迷いのない瞳。
『問題ない』と言っているようだ。
そうだ。こいつは僕と一緒に、あの地獄のような王城の厩舎を生き抜いてきた相棒だ。この程度の坂道で音を上げるようなヤワな馬じゃない。
「……行けるってさ」
僕はガラムの首をポンと叩き、リリアに向き直った。
「僕も、泥道には慣れてる。……行こう」
リリアは少し呆れたように目を丸くし、それから「……物好きね」と小さく笑った。
***
瓦礫の山に足を踏み入れると、足元の感覚が一変した。
地面は浮石だらけで、一歩踏み出すたびにジャリジャリと崩れる。
傾斜はきつく、場所によっては四つん這いにならないと進めない。
「……よいしょ、っと……!」
僕は左手で岩角を掴み、自分の体を引き上げた。
右手の火傷が岩に擦れる。包帯越しでも分かる熱さと痛みに、脂汗が滲む。
ガラムにとっても過酷な道だ。
蹄が滑らないよう、慎重に、本当に慎重に足場を選んでいる。
僕はガラムの前に立ち、一歩一歩、足場の岩が崩れないか踏んで確かめた。
もしガラムが足を滑らせれば、数百キロの巨体を支えることなんて僕にはできない。
落ちれば、全員終わりだ。
だからこそ、絶対に滑らせないルートを選び続けるしかない。
最初は、背中のリリアからも指示の声が飛んでいた。
「右の岩場が固そうよ」とか、「そっちは地盤が緩んでるわ」とか。
彼女の知識に助けられながら、僕たちは着実に高度を稼ぎ、土砂の山を登っていった。
だが、時間が経つにつれて、彼女の口数は減っていった。
一時間、二時間。
険しい岩場が続くにつれ、彼女からの指示は途切れがちになり、やがて完全に沈黙した。
「……ハァ、ハァ……」
谷間を吹き抜ける風の音に混じって、リリアの荒い呼吸音だけが響く。
振り返ると、彼女はガラムのたてがみを強く握りしめ、顔を伏せていた。
冷たい夜風が吹き抜ける中、彼女の体温だけが異常に高い気がした。
ガラムが段差を登るたびに、背上で彼女の体が大きく揺れ、そのたびに「ぅ……」と小さな呻き声が漏れる。
(……限界か)
日が完全に落ち、月明かりだけが頼りになった頃。
ようやく土砂の山の頂上付近に、少しだけ平らになった岩棚を見つけた。
ここを越えれば渓谷の奥へ入れるが、今の彼女の状態ではこれ以上進むのは危険だ。
「……今日は、ここで休もう。これ以上は無理だ」
僕はガラムを岩に繋ぎ、リリアに手を貸して抱き下ろそうとした。
「……っと」
彼女の体が、僕の腕の中でずしりと重く沈んだ。
もう自分の足で立つ力も残っていないようだ。
そして、熱い。
服の上からでも分かるほどの高熱だ。
「リリア、大丈夫か?」
「……平気よ。ちょっと、疲れただけ……」
彼女は岩壁に背中を預けると、荒い息を整えながら左足をかばうように膝を抱えた。
その仕草が、どこか頑なに見えた。
「足が痛みだしたのか?」
僕が視線を向けると、彼女は反射的にローブの裾を引いて左足を隠した。
「……まだちょっとね。ただの捻挫だから、大丈夫よ」
「見せなくていいのか? 冷やした方が……」
「いいから。……触ると、余計に痛いし」
彼女は強い口調で僕を制した。
それ以上言うな、と拒絶するような響きがあった。
「それより、休んで。……明日も歩くんでしょ?」
彼女はそう言って、逃げるようにマントを頭から被り、僕に背を向けてしまった。
その背中は小さく丸まり、時折ビクリと震えている。
僕はそれ以上、踏み込むことができなかった。
彼女が大丈夫だと言い張るなら、今はそれを信じて進むしかない。
僕はため息をつき、ガラムの横に座り込んだ。
背中の鉄剣を抱きしめる。
頭上に見える夜空は、両側の岩壁に切り取られて狭かった。
亀裂の旅は、まだ始まったばかりだった。
僕は泥で汚れた口元を手の甲で拭い、大きく息を吐いた。
地面が回って見える感覚はまだ残っているが、歩けないほどではない。
「……行くぞ、ガラム」
僕が声をかけると、ガラムは心配そうに鼻を鳴らした。
その背中には、リリアが乗っている。
彼女は顔色こそ悪いが、まだしっかりと手綱を握り、僕の様子を気遣うように見下ろしていた。
「……無理しないでよ。また吐かれても困るから」
軽口を叩く余裕はあるようだ。
僕は「善処するよ」と短く返し、歩き出した。
日は落ちかけ、森は急速に深い藍色に沈もうとしていた。
***
さらに一時間ほど歩くと、鬱蒼とした木々の密度が下がり、代わりにゴツゴツとした岩肌が目立つようになってきた。
湿った腐葉土の匂いが薄れ、乾いた土と岩の匂いが混じり始める。
「……止まって」
リリアがガラムの首を軽く叩いた。
ガラムが足を止め、僕も足を止める。
「……あそこ」
リリアが指差した先。
霧の晴れ間に、巨大な灰色の壁が立ちはだかっていた。
『灰色の断崖』。
木々の梢よりも高く、空を切り裂くようにそびえ立つ断崖絶壁だ。その頂上は雲に隠れて見えない。
「……壁、だな」
僕は圧倒的な威圧感を放つ岩壁を見上げた。
あの日、王城から追い出された時にも感じた、拒絶の壁。
それが物理的な質量を持って、僕たちの前進を阻んでいる。
「……ここを越えないと、王国の外には出られないわ」
リリアは杖で崖の南側を指した。
「南へ下れば、正規の街道があるわ。そこを通れば、馬車でも半日で抜けられる」
「……でも、そこには『検問所』がある」
「ええ。国境警備隊が目を光らせてるわ」
リリアはそこで言葉を切り、僕の顔をじっと見た。
その瞳には、試すような光が宿っていた。
「……あなたも私も、見つかりたくない理由があるでしょ?」
その一言だけで十分だった。
「不適合者」として廃棄された僕と、「追放者」である彼女。
互いの罪状や事情を細かく語る必要はない。
正規のルートを通れば、僕たちは「排除されるべきゴミ」として処理される。それだけは共通の認識だった。
「……ああ。捕まるわけにはいかない」
僕は頷き、視線を崖の方へ戻した。
「なら、道は一つね」
リリアが指し直したのは、断崖に入った巨大な亀裂のような場所だった。
大昔の地震か何かで岩盤が裂けたのだろう。両側を切り立った岩壁に挟まれた、V字型の深い谷間が見える。
だが、その入り口は、上から崩落した大量の岩石と土砂によって完全に塞がれていた。
「……『間道』よ。……王都から逃げる時、手引きしてくれた人が教えてくれたの」
リリアは懐をまさぐり、古びた羊皮紙の切れ端を取り出した。
「一見すると土砂崩れで行き止まりに見えるけど……。その地図によれば、あの瓦礫の山を乗り越えた奥に、渓谷へ続く細い道が残っているはずよ」
彼女の言葉には、その協力者への想いが滲んでいた。
命がけで逃がしてくれた誰かがいるのだ。だからこそ、彼女はここで捕まるわけにはいかないのだろう。
「……ただし、何十年も使われてない廃道よ。足場は最悪だし、魔物の巣窟になってる可能性も高いわ」
リリアは不安げにガラムの首を撫でた。
「馬を連れて行くには、かなり危険な賭けになるわ。……どうする?」
僕は入り口を塞ぐ瓦礫の山を見上げた。
高さはあるが、登れない角度じゃない。あそこさえ越えれば、あとは谷底の平坦な道が続いているはずだ。
「……どうだ、ガラム。行けるか?」
僕が問いかけると、ガラムは崖の方を一瞥し、それから「ブルルッ!」と太く短く鼻を鳴らした。
迷いのない瞳。
『問題ない』と言っているようだ。
そうだ。こいつは僕と一緒に、あの地獄のような王城の厩舎を生き抜いてきた相棒だ。この程度の坂道で音を上げるようなヤワな馬じゃない。
「……行けるってさ」
僕はガラムの首をポンと叩き、リリアに向き直った。
「僕も、泥道には慣れてる。……行こう」
リリアは少し呆れたように目を丸くし、それから「……物好きね」と小さく笑った。
***
瓦礫の山に足を踏み入れると、足元の感覚が一変した。
地面は浮石だらけで、一歩踏み出すたびにジャリジャリと崩れる。
傾斜はきつく、場所によっては四つん這いにならないと進めない。
「……よいしょ、っと……!」
僕は左手で岩角を掴み、自分の体を引き上げた。
右手の火傷が岩に擦れる。包帯越しでも分かる熱さと痛みに、脂汗が滲む。
ガラムにとっても過酷な道だ。
蹄が滑らないよう、慎重に、本当に慎重に足場を選んでいる。
僕はガラムの前に立ち、一歩一歩、足場の岩が崩れないか踏んで確かめた。
もしガラムが足を滑らせれば、数百キロの巨体を支えることなんて僕にはできない。
落ちれば、全員終わりだ。
だからこそ、絶対に滑らせないルートを選び続けるしかない。
最初は、背中のリリアからも指示の声が飛んでいた。
「右の岩場が固そうよ」とか、「そっちは地盤が緩んでるわ」とか。
彼女の知識に助けられながら、僕たちは着実に高度を稼ぎ、土砂の山を登っていった。
だが、時間が経つにつれて、彼女の口数は減っていった。
一時間、二時間。
険しい岩場が続くにつれ、彼女からの指示は途切れがちになり、やがて完全に沈黙した。
「……ハァ、ハァ……」
谷間を吹き抜ける風の音に混じって、リリアの荒い呼吸音だけが響く。
振り返ると、彼女はガラムのたてがみを強く握りしめ、顔を伏せていた。
冷たい夜風が吹き抜ける中、彼女の体温だけが異常に高い気がした。
ガラムが段差を登るたびに、背上で彼女の体が大きく揺れ、そのたびに「ぅ……」と小さな呻き声が漏れる。
(……限界か)
日が完全に落ち、月明かりだけが頼りになった頃。
ようやく土砂の山の頂上付近に、少しだけ平らになった岩棚を見つけた。
ここを越えれば渓谷の奥へ入れるが、今の彼女の状態ではこれ以上進むのは危険だ。
「……今日は、ここで休もう。これ以上は無理だ」
僕はガラムを岩に繋ぎ、リリアに手を貸して抱き下ろそうとした。
「……っと」
彼女の体が、僕の腕の中でずしりと重く沈んだ。
もう自分の足で立つ力も残っていないようだ。
そして、熱い。
服の上からでも分かるほどの高熱だ。
「リリア、大丈夫か?」
「……平気よ。ちょっと、疲れただけ……」
彼女は岩壁に背中を預けると、荒い息を整えながら左足をかばうように膝を抱えた。
その仕草が、どこか頑なに見えた。
「足が痛みだしたのか?」
僕が視線を向けると、彼女は反射的にローブの裾を引いて左足を隠した。
「……まだちょっとね。ただの捻挫だから、大丈夫よ」
「見せなくていいのか? 冷やした方が……」
「いいから。……触ると、余計に痛いし」
彼女は強い口調で僕を制した。
それ以上言うな、と拒絶するような響きがあった。
「それより、休んで。……明日も歩くんでしょ?」
彼女はそう言って、逃げるようにマントを頭から被り、僕に背を向けてしまった。
その背中は小さく丸まり、時折ビクリと震えている。
僕はそれ以上、踏み込むことができなかった。
彼女が大丈夫だと言い張るなら、今はそれを信じて進むしかない。
僕はため息をつき、ガラムの横に座り込んだ。
背中の鉄剣を抱きしめる。
頭上に見える夜空は、両側の岩壁に切り取られて狭かった。
亀裂の旅は、まだ始まったばかりだった。
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