泥まみれの英雄譚 〜その手が掴んだ温もりは〜

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第一八話 命の値段と金の重み

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「――うるせぇぞ、糞ガキ」

怒鳴り声と共に、薄暗い室内の奥から男が顔を上げた。
本と酒瓶が散乱する机に足を投げ出し、椅子に深々と座っていた男が、不機嫌そうに立ち上がる。

年齢は四十代半ばだろうか。
ボサボサの白髪混じりの髪に、無精髭。
着ている白衣は黄ばんでおり、そこかしこに赤黒いシミ――血痕がついている。

その目は、腐った魚のように濁っていた。

「人がせっかく午後の微睡まどろみを楽しんでたってのによ……。なんだ、お前は。ドアの修理費、高くつくぞ」

「医者……なのか?」

僕は男の態度に気圧されそうになりながらも、リリアを抱え直して一歩踏み出した。

「頼む、彼女を診てくれ! 熱が下がらないんだ! 足の傷が化膿してる!」

男はダルそうにこちらへ歩いてきた。
酒臭い。

だが、近づくにつれて、その濁った目が鋭く細められたのを僕は見逃さなかった。

「……ベッドに寝かせろ。そこの手術台だ」

男があごで示したのは、部屋の中央にある木製の台だった。
革のベルトがついている。拘束用だ。
表面の木材は黒ずんでおり、何度も血を吸ってきたことがわかる。

僕は躊躇ちゅうちょなく、リリアをそこに横たえた。

男が無造作にリリアの足の布を解く。
プン、と強烈な腐臭が漂った。

「……チッ、こりゃ酷ぇな」

男は顔をしかめ、リリアのどす黒く変色した脹脛ふくらはぎを指で強く押した。
意識がないはずのリリアが、ビクンと跳ねる。

壊死えしが進んでる。毒素が全身に回る一歩手前だ。あと半日遅かったら、足を切り落とすか、死ぬかだったな」

「治せるのか!?」

「治せる」

男は即答した。
だが、すぐに意地悪く口角を歪めた。

「だが、高いぞ。切開して腐った肉を全部削ぎ落とす。さらに『聖水』の原液で作ったポーションを一瓶まるごと使う。材料費だけでバカにならねぇ」

男は僕の薄汚れた格好と、泥にまみれたブーツをジロリと見た。

「金は? ざっと見積もって金貨三枚だ」

「……き、金貨……?」

血の気が引いた。
金貨三枚。とてつもない大金だ。
今の僕には、逆立ちしたって出てこない。

「……手持ちは、これだけだ」

僕は震える手で、ポケットの中身を全て台の上にぶちまけた。
兵士にもらった銀貨と、銅貨が数枚。
チャリ、と虚しい音が響く。

「……はっ、舐めてんのか?」

男は鼻で笑った。

「足りねぇな。話にならねぇ。これじゃ薬代にもなりゃしねぇよ」

男は冷たく言い放つと、リリアに掛けた布を戻そうとした。
見捨てる気だ。

目の前で、助かるはずの命が消えようとしている。

嫌だ。そんなのは嫌だ。

「待ってくれ……!」

僕は男の白衣の裾を掴み、その場に膝をついた。
プライドなんてどうでもよかった。

「後で必ず払う! 働いて返す! 何でもするから!」

「ツケはお断りだ。信用できねぇ奴への投資はしねぇ主義でな」

「信用なら……っ、これを使ってくれ!」

僕は自分の右腕を突き出した。
涙が溢れて止まらなかった。情けないほど声が震える。

「右腕でも、足でもいい! 臓器だって売れるなら売る! 足りない分は僕の体で払う! だから……頼む、彼女を見捨てないでくれ……」

頭を床に擦り付け、僕は泣き叫んだ。
腕の一本くらい、どうでもよかった。ただ、彼女が助かるなら。

その時、背後で重い音がした。

振り返ると、入り口の扉からガラムが首を突っ込んでいた。
巨体がミシミシと枠を軋ませている。

ガラムは僕と男を交互に見ると、ブルルと低く鼻を鳴らし、前足で床をドンッと叩いた。
逃げも隠れもしない。

その目は、主人と共にここで果てる覚悟を決めているようだった。

「……ほう」

男の目が、僕からガラムへ、そしてまた僕へと動いた。
その目に宿っていた腐った色が消え、興味深そうな光が宿る。

「いい馬だ。軍馬崩れか? それに、その目……飢えた野良犬のような目だな、小僧」

男はニヤリと笑った。

「気に入った。その『借金』、俺が買ってやる」

「……え?」

「だが、お前の覚悟だけをアテにするわけにはいかねぇ。担保が必要だ」

男は顎で、台の上のリリアをしゃくった。

「そいつを預かる。治療が終わっても、金貨三枚を耳を揃えて返すまで、そいつはこの診療所から一歩も出さない。いわば『人質』だ」

男は僕を見下ろし、冷徹に告げた。

「もし返せなきゃ、そいつを奴隷商に売り飛ばして回収する。……それでもいいなら、契約成立だ」

「……わかった。絶対に、返す」

即答するしかなかった。
人質。売り飛ばす。

その言葉に胃の腑が冷たくなる。
だが、今の僕に選択肢はない。彼女を助けるためには、この理不尽な条件を呑むしかないのだ。

男は満足げに頷くと、豹変したようにテキパキと動き出した。

「なら泣いてる暇はないぞ! 準備だ! お湯を沸かせ! それと棚にある『麻酔薬』だ、茶色い瓶を持ってこい!」

「わ、わかった!」

僕は涙を袖で拭い、言われるがままに走り回った。

男――医師のバルト(後で知った名だ)は、受け取った小瓶の液体をリリアの口へ強引に流し込んだ。

「飲み込め! ……よし、これで痛みはマシになるはずだ」

リリアがゴクリと喉を鳴らすと、すぐに呼吸が深く、重くなった。
完全に意識が落ちたのを確認し、バルトは白銀に光るメスを構える。

「押さえてろ! 反射で暴れるぞ!」

バルトがメスを入れた。

「――っ!?」

リリアの体がビクンと大きく跳ねた。
悲鳴こそ上げないが、肉を切り裂く衝撃は眠っている脳すら揺さぶるのだ。

「動くなッ!」

僕は彼女の上半身に覆い被さり、反射的に動こうとする腕を全力で押さえつけた。

汗と、膿の臭いと、血の鉄臭さが充満する。
バルトの手元は見えない。見たくもない。

ただ、肉を裂く水っぽい音と、骨を削るようなカリカリという音が耳元で響き続ける。

「……くっ、深いな。骨膜こつまくまでイッてやがる」

バルトが額の汗を拭いもせず、僕が持ってきた青い小瓶の栓を抜いた。
鼻を突く、薬品特有のツンとした刺激臭が広がる。

「ポーションを使うぞ! 細胞を無理やり繋げるんだ、熱が出るぞ!」

バルトが粘度のある青い液体を、えぐれた傷口に直接垂らした。

ジュワアアアッ!

肉を焼くような音と共に、白煙が上がった。
それは回復というより、強制的な結合だ。

リリアの喉から、苦悶のうめき声が漏れる。

「あと少しだ! 耐えろリリア!」

煙が晴れると、リリアの体からフッ、と糸が切れたように力が抜けた。

「……はぁ、はぁ……終わっ、た……?」

僕は全身汗まみれで顔を上げた。
バルトがメスをトレイに投げ入れ、大きく息を吐いている。

「……峠は越えた。腐敗部位は全部取り除いたし、血管も繋いだ。あとはこいつの体力次第だ」

見ると、リリアの足は包帯でぐるぐる巻きにされていたが、先ほどまでのどす黒い色は消え、赤みがかった健康的な血色が戻りつつあった。

「……よかった……」

膝から力が抜け、僕はその場に崩れ落ちた。
石の床の冷たさが心地いい。
指先が震えているのがわかった。

「礼を言うのは早ぇぞ、小僧」

バルトが汚れた手を布で拭きながら、僕を見下ろした。

「借金生活の始まりだ。お前は今日から、リリアちゃん……だったか? その『人質』を取り返すために、馬車馬のように働いてもらう」

男は悪役のような顔で笑い、散らばった銅貨を拾い上げた。

「まずはこの床の掃除だ。血一滴残すなよ。……ああ、それと」

バルトは入り口の方を顎でしゃくった。

「その賢い馬にも、水と飼葉かいばをやっておけ。俺の患者の『連れ』を飢え死にさせちゃ、寝覚めが悪いからな」

その言葉に、僕はへたり込んだまま、深く頭を下げた。

「……はい。……ありがとうございます、先生」

イシュカに来て初めて、僕は安堵の息を吐いた。
まだ何も解決していない。借金まみれのどん底だ。

けれど、リリアは生きている。
今はそれだけで十分だった。
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