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第十九話 底と銀の光
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鼻を突くのは、鉄と脂の混ざった臭い。
雑巾を絞ると、バケツの水が赤黒く濁った。
僕は膝をつき、石床の目地に染み込んだ血を爪でこすり落とす。
指先がふやけ、ささくれ立った皮膚に汚水が染みて痛む。
だが、手を止めるわけにはいかない。
「……おい、そこ。まだ拭き残しがあるぞ」
机に足を乗せ、堅パンを齧りながら医師のバルトが言った。
行儀が悪く、態度は横柄。
だが、今の僕にとっては逆らえない「債権者」であり、
リリアの命綱を握る「主人」だ。
「……はい、すみません」
僕は大人しく頭を下げ、雑巾を押し付けた。
血痕をすべて拭き取り、道具を片付け終えた頃には、
窓の外はすっかり暗くなっていた。
リリアの手術は成功したが、
彼女はまだ麻酔で深く眠っている。
「……終わりました」
「おう」
バルトは短く答えると、面倒くさそうに椅子から立ち上がった。
「ついてきな」
彼は白衣の裾を翻し、診療所の奥にある勝手口を開けた。
続くと、そこは診療所の裏庭になっていた。
高い塀に囲まれているが、隅には井戸があり、
古びた木造の納屋と、
屋根が張り出した雨風をしのげそうなスペースがある。
バルトは顎でその納屋をしゃくった。
「お前ら、今夜からそこを使え。ただの物置だが、屋根はある」
「……え、住ませて、もらえるんですか?」
「勘違いするな。人質を野晒しにして死なれちゃ、
借金の回収ができなくなる。
管理のために目の届くところに置いておくだけだ」
そう言うと、バルトは懐から紙袋を放り投げてきた。
受け取ると、中には堅パンと干し肉が入っている。
「餌だ。死なない程度に食っとけ」
あくまで家畜の管理だと言い張るその口調に、
僕は苦笑しながら頭を下げた。
この人は、口は悪いが、決して悪い人ではない。
「ありがとうございます。……あの、ガラムは」
「そこの屋根の下につないどけ。
空の桶と飼葉がある。
水と飯くらいは食わせてやれるだろ」
「助かります!」
僕は急いで表に回った。
診療所の入り口には、
来る時に僕がリリアを抱えて飛び降りたままの状態――
鞍も荷物もつけたままで、ガラムが佇んでいた。
手綱は繋がれていない。
その気になればどこへでも行けたはずだ。
だというのに、彼はじっとその場を動かず、
僕が出てくるのを待っていたのだ。
「ガラム……待っててくれたのか」
僕が駆け寄ると、
巨体が安堵したように大きく鼻を鳴らし、
僕の胸に顔を押し付けてきた。
「ごめんな、ほったらかしにして。こっちだ」
僕は手綱を引き、
建物の脇にある細い通路を通って、
先ほどの裏庭へとガラムを誘導した。
指定された屋根の下には、
バルトの言った通り桶と干し草の山があった。
ガラムは勢いよく水を飲み、
干し草を食み始めた。
「よし……」
僕は鞍に結びつけてあった荷物を解いた。
毛布、水筒、
そして背負っていたリリアの荷物と、
僕の錆びた鉄剣。
これだけが、今の僕たちの全財産だ。
「お前はここで休んでくれ。また明日来るから」
ガラムの首筋を撫でてから、
僕は荷物を抱えて納屋へ戻った。
そして、まだ眠り続けているリリアを慎重に抱き上げ、
手術室から部屋へと運ぶ。
そこは、四畳半ほどの狭い空間だった。
カビの匂いはするが、埃っぽさはそれほどでもない。
部屋の隅には、
使い古された木製のベッドと、
薄汚れているが厚手の毛布が置かれていた。
僕はリリアをそっとベッドに寝かせ、
毛布を肩まで掛けた。
顔色は蝋のような白さから、
少し赤みが差していた。
胸が規則正しく上下しているのを見るたび、
僕の胸の奥がギュッと締め付けられるような安堵を覚える。
生きていてくれた。
「よし……」
僕は部屋の隅に積まれていた空の麻袋をいくつか引きずり出し、
ベッドの脇の床に敷いた。
ベッドは一つしかない。
当然、彼女が使うべきだ。
自分の上着を丸めて枕にする。
僕はランタンの灯りを絞り、
麻袋の上に横になった。
ゴワゴワとした感触と、
床の硬さが背中に伝わる。
決して快適とは言えない。
けれど、隣にはリリアの寝息がある。
それだけで、
泥のように重い疲労が、
僕の意識を深い眠りへと引きずり込んでいった。
***
翌朝。
ドンドン、と扉を叩く音で僕は飛び起きた。
「起きろ小僧! いつまで寝てやがる!」
バルトだ。
僕は慌てて扉を開けた。
朝日はすでに昇り始めていた。
「ほらよ、朝飯だ。食ったらすぐ働け」
バルトは堅パンを一つ僕の胸に押し付けると、
じっと僕の顔……いや、右腕を見た。
「……昨日から思ってたが、お前のその腕、大概酷ぇな」
言われて、僕は自分の右手を見た。
指先から肘にかけて、
黒く焼け焦げたような痕が刻まれている。
『着火』の力を無理やり行使した代償――
魔力による重度の火傷だ。
さらに、昨日の無理が祟ったのか、
手首から先が紫色に腫れ上がり、
小刻みに震えている。
「骨にヒビが入ってるな。それにその火傷……
ただの火傷じゃねぇ。魔力で焼かれた痕だ」
バルトは懐から小瓶を取り出し、放り投げてきた。
受け取ると、青いポーションの瓶だった。底にわずかに液体が残っている。
「患部に塗りな。捨てるにゃ惜しい量だ。その残量じゃ完治はしねぇし、その焼きついた火傷痕までは消えねぇだろうが……骨を繋いで痛みを飛ばすくらいはできる」
「……ありがとうございます」
僕は小瓶の蓋を開け、残った数滴を、腫れ上がった右腕に垂らした。
ジュワッ……!
肉が焼けるような音がした瞬間、脳天を突き抜けるような激痛が走った。
「ぐっ、あぁぁぁ……ッ!?」
僕は声にならない悲鳴を上げ、その場にうずくまった。
熱い。
腕が燃えているようだ。
見ると、傷口から白い煙が上がり、内側の肉や骨が生き物のように蠢いて、無理やりくっついていくのが見えた。
脂汗が噴き出す。
だが、その地獄のような痛みは数秒で嘘のように引いていった。
「はぁ、はぁ……」
僕は荒い息を吐きながら、恐る恐る右腕を動かしてみた。
動く。
さっきまでの鈍重な痛みが消え、指がスムーズに曲がる。
黒い火傷の痕はそのまま焼き付いていたが、機能的には完全に回復していた。
「すげぇ……」
僕は目を見開いて自分の手を見つめた。
これがポーションの力か。
治癒というよりは、強制的な修復だ。
「よし、治ったなら仕事だ。まずは、あの扉だ」
バルトが顎で入り口を示した。
蝶番がひしゃげ、半開きになったままの木製の扉。
昨日、僕が蹴り破ったものだ。
「お前が壊したんだ、お前が直せ。裏に廃材と工具がある。釘一本無駄にするんじゃねぇぞ」
「はい。すぐにやります」
僕は回復した右腕を握りしめ、金槌と木材を持って入り口へ向かった。
歪んだ蝶番を叩いて直し、割れた板に当て木をする。
慣れない作業だったが、右手が動くおかげでスムーズに進んだ。
一通りの修繕を終え、額の汗を拭っていると、背後からバルトの声が掛かった。
「終わったか。なら次の仕事だ。ついてきな」
バルトは白衣を翻し、診療所の裏庭へと向かった。
井戸のさらに奥、地面に埋め込まれた古びた鉄格子の前で彼は立ち止まった。
「これを開けろ」
言われるままに錆びついた取っ手を掴み、引き上げる。
ギギギ、と嫌な金属音と共に、暗い穴が口を開けた。
ムッとした湿気と、カビ臭い匂いが立ち上ってくる。
「降りろ。水路の掃除だ。……ほら、これを持っていけ」
バルトは足元にあった大きなスコップと、火のついていないランタンを僕に押し付けた。
「先に降りてろ。俺もすぐに行く」
「は、はい」
僕は梯子に足をかけ、スコップを背負い、片手でランタンを持って恐る恐る暗闇へと降りていった。
五メートルほど降りただろうか。
足がぬるりとした泥に着地した。
あたりは真っ暗だ。
目は暗闇に慣れていないが、耳にはその音がはっきりと届いていた。
ゴーッ……
水音だ。
それも、チョロチョロと流れるようなものではない。
大量の水が勢いよく流れる音だ。
「こっちだ、小僧。ランタンをよこせ」
いつの間にか梯子を降りてきていたバルトが、僕の手からランタンをひったくった。
彼が手際よく火を灯すと、石造りの地下空間がボウッと浮かび上がった。
幅三メートルほどの水路に、驚くほど澄んだ水が満々と流れている。
「これは……」
僕は言葉を失った。
地上はあんなにも乾いた赤い荒野だ。
水は貴重品で、一滴だって無駄にできない環境のはずだ。
なのに、この地下には川のような水脈が走っている。
「どうなってるんですか、これ。外はあんな荒野なのに、こんな大量の水……」
「地下だ。もっと深く、地の底から湧き出してやがる」
バルトは足元のヘドロを靴で蹴った。
「だからこの街は、水にだけは困らねぇんだよ。そうでなきゃ、誰も好き好んでこんな辺境の荒野に住み着きゃしねぇさ」
なるほど、と僕は納得した。
過酷な環境でも、水さえあれば人は生きられる。
この都市が成立している根幹がここにあるわけだ。
「だが、最近また詰まり気味でな。お前にはそこの『ゴミ』を浚ってもらう」
バルトが指差したのは、鉄格子のフィルター部分だ。
そこには、上流から流れてきた汚泥やゴミが大量に絡みつき、ダムのように水流を堰き止めていた。
「スコップはさっき渡したな。俺は上で待ってるから、終わったら呼べ」
そう言い残すと、バルトはさっさと梯子を登っていってしまった。
残されたのは僕と、暗闇と、汚泥の臭い。
僕はため息をつき、スコップを構えた。
「……やるか」
リリアを治療してくれている以上、文句を言っている暇はない。
僕は泥の中に踏み込み、重いヘドロをすくい始めた。
一回、二回。
腰に負担がかかる重労働だ。
泥の中には、生活ゴミや動物の骨、正体不明のヌルヌルした塊が混じっている。
臭いが鼻を麻痺させ、汗が目に入る。
(リリアのためだ……これくらい……!)
一時間ほど無心で泥をかき出し続けた頃だ。
大きな泥の塊はあらかた片付いたが、鉄格子にへばりついた細かなゴミはスコップでは取りきれない。
僕はスコップを置き、手作業でそれらをむしり取ることにした。
ヌチャ、という不快な音と共に、髪の毛の束や腐った布切れを引き剥がしていく。
その時だ。
指先に、硬く冷たい異物が触れた。
「……ん?」
石ころだろうか。
つまみ上げ、水路の澄んだ水で汚れを洗い流してみる。
ランタンの薄暗い光の下、キラリと光るものが現れた。
指輪だった。
素材は銀だろうか。
黒ずんではいるが、錆びてはいない。
中央には、小指の爪ほどの大きさの、透き通った青い石が埋め込まれている。
「……綺麗だ」
こんな汚泥の中に埋もれていたとは思えないほど、その石は神秘的な光を放っていた。
僕はなんとなく惹かれ、それをズボンのポケットに突っ込んだ。
残りのゴミを全て取り除くと、堰き止められていた水が勢いよく流れ出した。
「終わりました!」
僕は梯子を登り、地上へ顔を出した。
夕方の乾いた風が心地いい。
その時、目の前の納屋の扉――リリアの寝ている部屋の扉が、ギイと開いた。
顔を出したのはバルトだった。
「……あ」
彼は梯子を登ってきた僕の姿に気づくと、バツが悪そうに扉を閉めた。
「お、おう。早かったな。流れは戻ったか?」
「……はい、ばっちりです」
管理だ、人質だと言いながら、こまめに様子を見てくれていたらしい。
僕は湧き上がる感謝を飲み込み、あえて気づかないふりをしてポケットから指輪を取り出した。
「それと、泥の中からこれが出てきました。一応、お渡しします」
バルトは指輪を摘み上げ、太陽にかざして片目を細めた。
「ふん……銀台に、屑魔石か。大したもんじゃねぇな」
彼は興味なさそうに、指輪を僕の方へ放り投げた。
僕は慌てて両手でキャッチする。
「えっ、いいんですか?」
「俺の趣味じゃねぇし、売っても二束三文だ。拾ったもんはお前のもんだ。持っとけ」
バルトは吐き捨てると、懐からジャラリと小銭を取り出し、僕に投げつけた。
「まあ、少ねぇだろうが働いたからな。今日の給金だ」
受け取った掌の上には、鈍く光る銅貨が五枚。
金貨三枚の借金からすれば、砂粒のような額だ。
「……ありがとうございます」
僕は銅貨を強く握りしめ、頭を下げた。
少ない。
けれど、この世界に来て初めて、自分の手で稼いだ金だ。
手の中にあるのは、わずかな銅貨と、泥の中から拾った小さな指輪だけ。
けれど、得たものはそれだけじゃない。
痛みはあれど動く右腕。
雨風をしのげる屋根。
帰りを待ってくれていた相棒。
そして何より――リリアの、安らかな寝息。
昨日の絶望に比べれば、それはあまりにも大きな「収穫」だった。
「……よし」
僕は指輪と銅貨をポケットに深くねじ込み、一つ大きく息を吐いた。
明日もまた、生きるために働く。
そう心に決め、僕は夕日に染まるイシュカの空を見上げた。
雑巾を絞ると、バケツの水が赤黒く濁った。
僕は膝をつき、石床の目地に染み込んだ血を爪でこすり落とす。
指先がふやけ、ささくれ立った皮膚に汚水が染みて痛む。
だが、手を止めるわけにはいかない。
「……おい、そこ。まだ拭き残しがあるぞ」
机に足を乗せ、堅パンを齧りながら医師のバルトが言った。
行儀が悪く、態度は横柄。
だが、今の僕にとっては逆らえない「債権者」であり、
リリアの命綱を握る「主人」だ。
「……はい、すみません」
僕は大人しく頭を下げ、雑巾を押し付けた。
血痕をすべて拭き取り、道具を片付け終えた頃には、
窓の外はすっかり暗くなっていた。
リリアの手術は成功したが、
彼女はまだ麻酔で深く眠っている。
「……終わりました」
「おう」
バルトは短く答えると、面倒くさそうに椅子から立ち上がった。
「ついてきな」
彼は白衣の裾を翻し、診療所の奥にある勝手口を開けた。
続くと、そこは診療所の裏庭になっていた。
高い塀に囲まれているが、隅には井戸があり、
古びた木造の納屋と、
屋根が張り出した雨風をしのげそうなスペースがある。
バルトは顎でその納屋をしゃくった。
「お前ら、今夜からそこを使え。ただの物置だが、屋根はある」
「……え、住ませて、もらえるんですか?」
「勘違いするな。人質を野晒しにして死なれちゃ、
借金の回収ができなくなる。
管理のために目の届くところに置いておくだけだ」
そう言うと、バルトは懐から紙袋を放り投げてきた。
受け取ると、中には堅パンと干し肉が入っている。
「餌だ。死なない程度に食っとけ」
あくまで家畜の管理だと言い張るその口調に、
僕は苦笑しながら頭を下げた。
この人は、口は悪いが、決して悪い人ではない。
「ありがとうございます。……あの、ガラムは」
「そこの屋根の下につないどけ。
空の桶と飼葉がある。
水と飯くらいは食わせてやれるだろ」
「助かります!」
僕は急いで表に回った。
診療所の入り口には、
来る時に僕がリリアを抱えて飛び降りたままの状態――
鞍も荷物もつけたままで、ガラムが佇んでいた。
手綱は繋がれていない。
その気になればどこへでも行けたはずだ。
だというのに、彼はじっとその場を動かず、
僕が出てくるのを待っていたのだ。
「ガラム……待っててくれたのか」
僕が駆け寄ると、
巨体が安堵したように大きく鼻を鳴らし、
僕の胸に顔を押し付けてきた。
「ごめんな、ほったらかしにして。こっちだ」
僕は手綱を引き、
建物の脇にある細い通路を通って、
先ほどの裏庭へとガラムを誘導した。
指定された屋根の下には、
バルトの言った通り桶と干し草の山があった。
ガラムは勢いよく水を飲み、
干し草を食み始めた。
「よし……」
僕は鞍に結びつけてあった荷物を解いた。
毛布、水筒、
そして背負っていたリリアの荷物と、
僕の錆びた鉄剣。
これだけが、今の僕たちの全財産だ。
「お前はここで休んでくれ。また明日来るから」
ガラムの首筋を撫でてから、
僕は荷物を抱えて納屋へ戻った。
そして、まだ眠り続けているリリアを慎重に抱き上げ、
手術室から部屋へと運ぶ。
そこは、四畳半ほどの狭い空間だった。
カビの匂いはするが、埃っぽさはそれほどでもない。
部屋の隅には、
使い古された木製のベッドと、
薄汚れているが厚手の毛布が置かれていた。
僕はリリアをそっとベッドに寝かせ、
毛布を肩まで掛けた。
顔色は蝋のような白さから、
少し赤みが差していた。
胸が規則正しく上下しているのを見るたび、
僕の胸の奥がギュッと締め付けられるような安堵を覚える。
生きていてくれた。
「よし……」
僕は部屋の隅に積まれていた空の麻袋をいくつか引きずり出し、
ベッドの脇の床に敷いた。
ベッドは一つしかない。
当然、彼女が使うべきだ。
自分の上着を丸めて枕にする。
僕はランタンの灯りを絞り、
麻袋の上に横になった。
ゴワゴワとした感触と、
床の硬さが背中に伝わる。
決して快適とは言えない。
けれど、隣にはリリアの寝息がある。
それだけで、
泥のように重い疲労が、
僕の意識を深い眠りへと引きずり込んでいった。
***
翌朝。
ドンドン、と扉を叩く音で僕は飛び起きた。
「起きろ小僧! いつまで寝てやがる!」
バルトだ。
僕は慌てて扉を開けた。
朝日はすでに昇り始めていた。
「ほらよ、朝飯だ。食ったらすぐ働け」
バルトは堅パンを一つ僕の胸に押し付けると、
じっと僕の顔……いや、右腕を見た。
「……昨日から思ってたが、お前のその腕、大概酷ぇな」
言われて、僕は自分の右手を見た。
指先から肘にかけて、
黒く焼け焦げたような痕が刻まれている。
『着火』の力を無理やり行使した代償――
魔力による重度の火傷だ。
さらに、昨日の無理が祟ったのか、
手首から先が紫色に腫れ上がり、
小刻みに震えている。
「骨にヒビが入ってるな。それにその火傷……
ただの火傷じゃねぇ。魔力で焼かれた痕だ」
バルトは懐から小瓶を取り出し、放り投げてきた。
受け取ると、青いポーションの瓶だった。底にわずかに液体が残っている。
「患部に塗りな。捨てるにゃ惜しい量だ。その残量じゃ完治はしねぇし、その焼きついた火傷痕までは消えねぇだろうが……骨を繋いで痛みを飛ばすくらいはできる」
「……ありがとうございます」
僕は小瓶の蓋を開け、残った数滴を、腫れ上がった右腕に垂らした。
ジュワッ……!
肉が焼けるような音がした瞬間、脳天を突き抜けるような激痛が走った。
「ぐっ、あぁぁぁ……ッ!?」
僕は声にならない悲鳴を上げ、その場にうずくまった。
熱い。
腕が燃えているようだ。
見ると、傷口から白い煙が上がり、内側の肉や骨が生き物のように蠢いて、無理やりくっついていくのが見えた。
脂汗が噴き出す。
だが、その地獄のような痛みは数秒で嘘のように引いていった。
「はぁ、はぁ……」
僕は荒い息を吐きながら、恐る恐る右腕を動かしてみた。
動く。
さっきまでの鈍重な痛みが消え、指がスムーズに曲がる。
黒い火傷の痕はそのまま焼き付いていたが、機能的には完全に回復していた。
「すげぇ……」
僕は目を見開いて自分の手を見つめた。
これがポーションの力か。
治癒というよりは、強制的な修復だ。
「よし、治ったなら仕事だ。まずは、あの扉だ」
バルトが顎で入り口を示した。
蝶番がひしゃげ、半開きになったままの木製の扉。
昨日、僕が蹴り破ったものだ。
「お前が壊したんだ、お前が直せ。裏に廃材と工具がある。釘一本無駄にするんじゃねぇぞ」
「はい。すぐにやります」
僕は回復した右腕を握りしめ、金槌と木材を持って入り口へ向かった。
歪んだ蝶番を叩いて直し、割れた板に当て木をする。
慣れない作業だったが、右手が動くおかげでスムーズに進んだ。
一通りの修繕を終え、額の汗を拭っていると、背後からバルトの声が掛かった。
「終わったか。なら次の仕事だ。ついてきな」
バルトは白衣を翻し、診療所の裏庭へと向かった。
井戸のさらに奥、地面に埋め込まれた古びた鉄格子の前で彼は立ち止まった。
「これを開けろ」
言われるままに錆びついた取っ手を掴み、引き上げる。
ギギギ、と嫌な金属音と共に、暗い穴が口を開けた。
ムッとした湿気と、カビ臭い匂いが立ち上ってくる。
「降りろ。水路の掃除だ。……ほら、これを持っていけ」
バルトは足元にあった大きなスコップと、火のついていないランタンを僕に押し付けた。
「先に降りてろ。俺もすぐに行く」
「は、はい」
僕は梯子に足をかけ、スコップを背負い、片手でランタンを持って恐る恐る暗闇へと降りていった。
五メートルほど降りただろうか。
足がぬるりとした泥に着地した。
あたりは真っ暗だ。
目は暗闇に慣れていないが、耳にはその音がはっきりと届いていた。
ゴーッ……
水音だ。
それも、チョロチョロと流れるようなものではない。
大量の水が勢いよく流れる音だ。
「こっちだ、小僧。ランタンをよこせ」
いつの間にか梯子を降りてきていたバルトが、僕の手からランタンをひったくった。
彼が手際よく火を灯すと、石造りの地下空間がボウッと浮かび上がった。
幅三メートルほどの水路に、驚くほど澄んだ水が満々と流れている。
「これは……」
僕は言葉を失った。
地上はあんなにも乾いた赤い荒野だ。
水は貴重品で、一滴だって無駄にできない環境のはずだ。
なのに、この地下には川のような水脈が走っている。
「どうなってるんですか、これ。外はあんな荒野なのに、こんな大量の水……」
「地下だ。もっと深く、地の底から湧き出してやがる」
バルトは足元のヘドロを靴で蹴った。
「だからこの街は、水にだけは困らねぇんだよ。そうでなきゃ、誰も好き好んでこんな辺境の荒野に住み着きゃしねぇさ」
なるほど、と僕は納得した。
過酷な環境でも、水さえあれば人は生きられる。
この都市が成立している根幹がここにあるわけだ。
「だが、最近また詰まり気味でな。お前にはそこの『ゴミ』を浚ってもらう」
バルトが指差したのは、鉄格子のフィルター部分だ。
そこには、上流から流れてきた汚泥やゴミが大量に絡みつき、ダムのように水流を堰き止めていた。
「スコップはさっき渡したな。俺は上で待ってるから、終わったら呼べ」
そう言い残すと、バルトはさっさと梯子を登っていってしまった。
残されたのは僕と、暗闇と、汚泥の臭い。
僕はため息をつき、スコップを構えた。
「……やるか」
リリアを治療してくれている以上、文句を言っている暇はない。
僕は泥の中に踏み込み、重いヘドロをすくい始めた。
一回、二回。
腰に負担がかかる重労働だ。
泥の中には、生活ゴミや動物の骨、正体不明のヌルヌルした塊が混じっている。
臭いが鼻を麻痺させ、汗が目に入る。
(リリアのためだ……これくらい……!)
一時間ほど無心で泥をかき出し続けた頃だ。
大きな泥の塊はあらかた片付いたが、鉄格子にへばりついた細かなゴミはスコップでは取りきれない。
僕はスコップを置き、手作業でそれらをむしり取ることにした。
ヌチャ、という不快な音と共に、髪の毛の束や腐った布切れを引き剥がしていく。
その時だ。
指先に、硬く冷たい異物が触れた。
「……ん?」
石ころだろうか。
つまみ上げ、水路の澄んだ水で汚れを洗い流してみる。
ランタンの薄暗い光の下、キラリと光るものが現れた。
指輪だった。
素材は銀だろうか。
黒ずんではいるが、錆びてはいない。
中央には、小指の爪ほどの大きさの、透き通った青い石が埋め込まれている。
「……綺麗だ」
こんな汚泥の中に埋もれていたとは思えないほど、その石は神秘的な光を放っていた。
僕はなんとなく惹かれ、それをズボンのポケットに突っ込んだ。
残りのゴミを全て取り除くと、堰き止められていた水が勢いよく流れ出した。
「終わりました!」
僕は梯子を登り、地上へ顔を出した。
夕方の乾いた風が心地いい。
その時、目の前の納屋の扉――リリアの寝ている部屋の扉が、ギイと開いた。
顔を出したのはバルトだった。
「……あ」
彼は梯子を登ってきた僕の姿に気づくと、バツが悪そうに扉を閉めた。
「お、おう。早かったな。流れは戻ったか?」
「……はい、ばっちりです」
管理だ、人質だと言いながら、こまめに様子を見てくれていたらしい。
僕は湧き上がる感謝を飲み込み、あえて気づかないふりをしてポケットから指輪を取り出した。
「それと、泥の中からこれが出てきました。一応、お渡しします」
バルトは指輪を摘み上げ、太陽にかざして片目を細めた。
「ふん……銀台に、屑魔石か。大したもんじゃねぇな」
彼は興味なさそうに、指輪を僕の方へ放り投げた。
僕は慌てて両手でキャッチする。
「えっ、いいんですか?」
「俺の趣味じゃねぇし、売っても二束三文だ。拾ったもんはお前のもんだ。持っとけ」
バルトは吐き捨てると、懐からジャラリと小銭を取り出し、僕に投げつけた。
「まあ、少ねぇだろうが働いたからな。今日の給金だ」
受け取った掌の上には、鈍く光る銅貨が五枚。
金貨三枚の借金からすれば、砂粒のような額だ。
「……ありがとうございます」
僕は銅貨を強く握りしめ、頭を下げた。
少ない。
けれど、この世界に来て初めて、自分の手で稼いだ金だ。
手の中にあるのは、わずかな銅貨と、泥の中から拾った小さな指輪だけ。
けれど、得たものはそれだけじゃない。
痛みはあれど動く右腕。
雨風をしのげる屋根。
帰りを待ってくれていた相棒。
そして何より――リリアの、安らかな寝息。
昨日の絶望に比べれば、それはあまりにも大きな「収穫」だった。
「……よし」
僕は指輪と銅貨をポケットに深くねじ込み、一つ大きく息を吐いた。
明日もまた、生きるために働く。
そう心に決め、僕は夕日に染まるイシュカの空を見上げた。
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勇者になれなかった夫婦は城から放り出され、見知らぬ土地である異世界で暮らし始めた。
ある日、妻は川に洗濯に、夫はゴブリンの討伐に森に出かけた。
夫は竹のような植物が光っているのを見つける。光の正体を確認するために植物を切ると、そこに現れたのは赤ちゃんだった。
夫婦は赤ちゃんを育てることになった。赤ちゃんは女の子だった。
その子を大切に育てる。
女の子が5歳の時に、彼女がステータス画面を発現させることができるのに気づいてしまう。
2人は王様に子どもが奪われないようにステータス画面が発現することを隠した。
だけど子どもはどんどんと強くなって行く。
大切な我が子が魔王討伐に向かうまでの物語。世界で一番大切なモノを守るために夫婦は奮闘する。世界で一番愛しているモノの幸せのために夫婦は奮闘する。
スキル「ジョブチェンジ」で下剋上!
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レベル以上のモンスターを倒さなければ経験値が入らない世界は初期ステータスやレベルアップによるステータス上昇値が高くなければレベルが頭打ちになってしまう。
万理は持つスキルはそんな頭打ちになっている人々にとっては最高のスキルであった。
ダンジョンをある日見つけた結果→世界最強になってしまった
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いつも遊び場にしていた山である日ダンジョンを見つけた。とりあえず入ってみるがそこは未知の場所で……モンスターや宝箱などお宝やワクワクが溢れている場所だった。
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(タイトルは異なりますが、カクヨム投稿中の『何でも作れる元神殿技術者の冒険者にして釣り人な日々』と同じお話です。更新が追いつくまでは毎日更新、追いついた後は隔日更新となります)
高校生の俺、異世界転移していきなり追放されるが、じつは最強魔法使い。可愛い看板娘がいる宿屋に拾われたのでもう戻りません
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高校生のタクトは部活帰りに突然異世界へ転移してしまう。
横柄な態度の王から、魔法使いはいらんわ、城から出ていけと言われ、いきなり無職になったタクト。
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クラス転移したら種族が変化してたけどとりあえず生きる
アルカス
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16歳になったばかりの高校2年の主人公。
でも、主人公は昔から体が弱くなかなか学校に通えなかった。
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その日も体の調子が良くなり、親友と久しぶりの学校に行きHRが終わり先生が出ていったとき、クラスが眩しい光に包まれた。
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