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相談室の慌ただしい日常2

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 思いがけない質問だ。
 横を見ると、桐生さんがどこか緊張した顔をしている。珍しい。

「最後なんだから家族といてやれって人もいるけどな。でも、少しでも長く生きていて欲しいからできることは全部してやりたいって思っても、それは悪いこっちゃねえだろよ。その結果、仕事が優先になっても」

 苦い記憶がこみ上げるが、それを噛み砕くように私は笑った。
 笑顔というのは不思議なもので、笑っていると幸せな気持ちになる。
 幸せだから笑うのではなく、笑うから幸せになれるのかもしれない。

「それにさ、生きていくためには金が必要だよな。家族が死んでも、残されたものは生きていかなきゃならないからさ。俺は仕事に感謝してるし、病院にも感謝してるよ」
「……」

 私は思いっきり笑うと、話をそらした。
 この話は、もう、したくない。

「それはともかく……相談員さんはやっぱり働きすぎだよな。結城事務局長じゃねえけど、そのうち倒れるぞ」

 そう言いながら、私は忙しない相談室を改めて眺めた。
 私たちが入ってきた職員用入り口の真逆には、患者用の入り口とカウンターがある。また、カンファレンスのための個別ブースもあるため、この部屋は非常に広い。
 吹き抜けの待合ホールにせりだすような相談室は、ここだけで家が建てられそうな広さだ。私たちのいるところからカウンターは13メートルほどあるだろう。小さな家なら、2件くらいたちそうだ。
 患者用出入り口の向こう側に目を向けると、先日片付けをしたチラシが置いてあるラックが見えた。
 その向こう側のカフェも、衝突事故が起こる気配もなく、平和そのものだ。
 カウンターでにこやかに話していた白衣の女性が患者を見送って、カウンターを離れた途端、大きくため息をついてしゃがみこんだ。
 そこにパートさんがやってきて声をかけている。
 おいおい、あれ、若王子さんじゃないか。
 うわあ……すっげえ疲れてる顔してる。
 あ、こっちに気づいて手を振ってきた。
 長い髪を夜会巻きにした若王子さんは、スレンダーで、一見、とっつきにくそうなほどの美人だが、実際にはひょうきんなお姉さんだ。

「若王子さん、お疲れのようですね」
「だよなあ……目の下がクマで真っ黒じゃ、せっかくの美人が台無しだ」
「目の下のクマと、若王子さんの顔の作りとは全く関係がないのではありませんか?」

 おや?
 桐生さん、美人は目の下にクマがあっても美人と言いたいのかな?

「友利さん、何か面白いことでもありましたか?」
「いんや。桐生さんさー。ぶっちゃけ、若王子さんが心配なんだろ? そう言う優しさはわかりやすく出した方がいいと思うぞ」

 お兄さんは若者の恋を応援するぞ、桐生さん!
 同期とはいえ、私の方が2歳上だからな!

「何か誤解されているようですが、優しさではありません。あくまでも、当院の掲げる目標を達成するためです」
「またまたーって。うん、目標? それって、人々の痛みと苦しみを――って言う、結城事務局長のあれ?」
「結城事務局長は『人々の』と言っています。『患者の』ではありません。スタッフが患者様のことを考えて暴走したとき、職員のことを考えてストップをかけるのは人事を担当する側の役割です」

 桐生さんは視線をそらさずに行った。
 若王子さんはもうこちらに向かって歩いてきている。
 ということは桐生さんが見ていたのは若王子さんではないということだ。
 もういちどそちらをみると、カウンターの上にクロネコが座っていた。若王子さんの陰で見えていなかったらしい。
 ふと、先日の朝の庶務課でのことを思い出した。桐生さんは、椅子に結城事務局長が座っていると言った。
 ということは、桐生さんにはあのクロネコが結城事務局長に見えているのだろう。
 結城事務局長は、定年直前に北階段から落ちて亡くなっている。亡くなる前の月の残業時間は150時間を超えていた。今の時代に同じことがあったら大問題になっていただろう。
 だが、その死が結城事務局長を伝説にしたのは間違いない。

「お待たせしました」

 なんだかしんみりしてしまったころ、明るい声がした。


=加筆修正=
2018.11.14
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