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時間外勤務が日常 2
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私たちは懐中電灯を片手に該当箇所を回った。
踊り場のひび割れは絹井先生の身長では見えないので、脚立を借りてきた。
それでわかったことがある。
階段から見下ろすように見ていたよりも、ひび割れは大きかった。
「この捲れ部分を、もっと開いてみたいけど……怖いわね。これが支えてくれているのかもしれない」
割れて捲れた塗料の層は思っていたよりも分厚い。
それを開くようにして広い範囲を見ると、深い亀裂が入っていた。どのくらい奥まで続いているのかは分からないが、間違いなく、かなり深い。
「なるほどねえ……これじゃあ、心配になるのもわかるわ」
北階段の亀裂は絹井先生との見分で、更に危険性を感じるものだと分かった。
絹井先生はポケットに入っていたメモ用紙を細く折り、奥行きを調べようとしたがその程度では測れないほどの深さだった。
「明日の朝の会議で言っておくから、大丈夫よ」
「ありがとうございます」
よかった!
絹井先生が味方になってくれたら安心だ。お偉方にもすぐに話が通るし、すぐに対応してもらえるだろう。
今、自分たちにできることはここまでだ。
最後まで関わることができないのが悔しいが私たちには、もうこれ以上のことは何もできない。
後は絹井先生に託そう。
ふと目を上げると、手すりの上にクロネコがいた。
ぴょいっと飛び降りると、私の足元に柔らかく体を押し付けてくる。いや、実際にはクロネコが触れてきたところでその感覚は伝わってこないのだが、なんとなく温かい気持ちになった。
見下ろすと、金色の瞳で見返してくる。
どうやら、クロネコは私を慰めているらしい。
いや、あるいは褒めてくれているのだろうか。
事務員の私たちにできる、これが精いっぱいだからだ。
「絹井先生……それで間に合うでしょうか」
だが桐生さんが呟いた。
「先生がおっしゃっているのは院内トップ陣だけが集まる朝会のことですよね」
トップ会議と通称されている、役員会議の朝の定例会議だ。
病院事業統括、事務局長、当院院長、各附属クリニックの院長、各センターの医長、看護部長が集まり、重要な情報を共有する。朝だから会議と言っても「今日の自分はこういう風に動く予定ですよ」と言う報告会に近い。
ヒラの私がそんなことを知ってるのは、院内ボランティアについての報告の際に呼ばれたことが何度かあったからだ。院内ボランティアは私が担当しているので現場の声が聞きたかったらしい。同席した課長からは、用意した資料を確実に読むだけに専念して、くれぐれも余計な口は開くなと言われたのが印象深い。
桐生さんも呼ばれたことがあるから知っているのだろう。朝のトップ会議はただ報告するだけだ。みんな次の予定が詰まっているからそれ以上の事は何も言わない。
「失礼ですが、絹井先生が報告してくださっても、施設課に調べてもらうよう指示が出されて終わるのではありませんか? 施設課に通達され、亀裂の確認の後、この亀裂が報道されている耐久実験の不正に関連するものかどうかの検討だけで昼を過ぎる……裏を取らなければ、万が一に備えて患者を転院させることはできません」
桐生さんの言葉のおかげで、絹井先生に託せば大丈夫だと思ってしまった自分のうかつさに気づいた。
そうだ。
絹井先生が報告すれば、私たちが言うよりも確かに早くことは進む。
でも、絹井先生も建物や不正、汚職については全くの門外漢のはずだ。
これこそ、事務方の仕事のはず。
「それだと遅いんじゃないかって、心配?」
絹井先生の言葉を、桐生さんはごまかすことなく即座に肯定する。
「震度3の揺れでも、高校の体育館の屋根はくずれました。その程度の揺れは珍しくありません」
「そうね。でもパニックが起きればそちらの方が危険だという事もわかるでしょう?」
その通りだ。
そして、それを私たちも考えた。
今、この情報を流せば患者の家族がどう行動するか分からない。
医療費のことを思い出してみても、責任の所在がどこにあるかが不明瞭な今の段階では、事務方の思考はそちらの方に注意が向いてしまって患者対応が疎かになる可能性もある。
事務方の人間は、日ごろから費用に関係する業務に携わる時間が多いせいで、それを考えないわけにはいかない。
国レベルで医療費が切迫しているのだ。
うちだって当然、余裕などない。
埼玉は医師が不足しているぶん、他県よりも人件費がかかる。それだけ、医師への負担が大きいからだ。その分儲かっているだろうと言われることもあるが、公立病院は利益を追求できないから、ただひたすら忙しいだけだ。
公立だから、民間がそろえにくい高額な医療機器を導入する。
民間よりもベッド代や検査費用が安いから患者が集まる。
医師には給与を多く支払う。
そのしわ寄せは、どこに行くのか……明確だ。
転院となったとき、担当することになる相談室は悲鳴を上げるだろう。
とてもではないが対応しきれない。
今回の学校の事故でも対応しきれないほどの問い合わせがあったのだ。これがもし、当院でも同じことが起きそうだと知られたらどうなるのか。
すべての事務員が対応にあたっても、たとえ深夜まで働いたとしても間に合わないだろう。
「これは、安全を確保できるまで、けして外に漏らしてはいけないわ」
絹井先生は厳しい顔で言った。
「危険ですと、早々に公開することは簡単よ。でもね。その次のことを考えたら今知らせることは、それこそ患者の命に係わる」
「しかし、我々には情報公開の義務があります。患者にも知る権利があります。それを念頭に置きながら慎重に動く必要があるはずです」
「知る権利、知らせる義務……でも、その前に生きる方が重要じゃない?」
常に死と闘っているからこその、重い響きがそこにはあった。
踊り場のひび割れは絹井先生の身長では見えないので、脚立を借りてきた。
それでわかったことがある。
階段から見下ろすように見ていたよりも、ひび割れは大きかった。
「この捲れ部分を、もっと開いてみたいけど……怖いわね。これが支えてくれているのかもしれない」
割れて捲れた塗料の層は思っていたよりも分厚い。
それを開くようにして広い範囲を見ると、深い亀裂が入っていた。どのくらい奥まで続いているのかは分からないが、間違いなく、かなり深い。
「なるほどねえ……これじゃあ、心配になるのもわかるわ」
北階段の亀裂は絹井先生との見分で、更に危険性を感じるものだと分かった。
絹井先生はポケットに入っていたメモ用紙を細く折り、奥行きを調べようとしたがその程度では測れないほどの深さだった。
「明日の朝の会議で言っておくから、大丈夫よ」
「ありがとうございます」
よかった!
絹井先生が味方になってくれたら安心だ。お偉方にもすぐに話が通るし、すぐに対応してもらえるだろう。
今、自分たちにできることはここまでだ。
最後まで関わることができないのが悔しいが私たちには、もうこれ以上のことは何もできない。
後は絹井先生に託そう。
ふと目を上げると、手すりの上にクロネコがいた。
ぴょいっと飛び降りると、私の足元に柔らかく体を押し付けてくる。いや、実際にはクロネコが触れてきたところでその感覚は伝わってこないのだが、なんとなく温かい気持ちになった。
見下ろすと、金色の瞳で見返してくる。
どうやら、クロネコは私を慰めているらしい。
いや、あるいは褒めてくれているのだろうか。
事務員の私たちにできる、これが精いっぱいだからだ。
「絹井先生……それで間に合うでしょうか」
だが桐生さんが呟いた。
「先生がおっしゃっているのは院内トップ陣だけが集まる朝会のことですよね」
トップ会議と通称されている、役員会議の朝の定例会議だ。
病院事業統括、事務局長、当院院長、各附属クリニックの院長、各センターの医長、看護部長が集まり、重要な情報を共有する。朝だから会議と言っても「今日の自分はこういう風に動く予定ですよ」と言う報告会に近い。
ヒラの私がそんなことを知ってるのは、院内ボランティアについての報告の際に呼ばれたことが何度かあったからだ。院内ボランティアは私が担当しているので現場の声が聞きたかったらしい。同席した課長からは、用意した資料を確実に読むだけに専念して、くれぐれも余計な口は開くなと言われたのが印象深い。
桐生さんも呼ばれたことがあるから知っているのだろう。朝のトップ会議はただ報告するだけだ。みんな次の予定が詰まっているからそれ以上の事は何も言わない。
「失礼ですが、絹井先生が報告してくださっても、施設課に調べてもらうよう指示が出されて終わるのではありませんか? 施設課に通達され、亀裂の確認の後、この亀裂が報道されている耐久実験の不正に関連するものかどうかの検討だけで昼を過ぎる……裏を取らなければ、万が一に備えて患者を転院させることはできません」
桐生さんの言葉のおかげで、絹井先生に託せば大丈夫だと思ってしまった自分のうかつさに気づいた。
そうだ。
絹井先生が報告すれば、私たちが言うよりも確かに早くことは進む。
でも、絹井先生も建物や不正、汚職については全くの門外漢のはずだ。
これこそ、事務方の仕事のはず。
「それだと遅いんじゃないかって、心配?」
絹井先生の言葉を、桐生さんはごまかすことなく即座に肯定する。
「震度3の揺れでも、高校の体育館の屋根はくずれました。その程度の揺れは珍しくありません」
「そうね。でもパニックが起きればそちらの方が危険だという事もわかるでしょう?」
その通りだ。
そして、それを私たちも考えた。
今、この情報を流せば患者の家族がどう行動するか分からない。
医療費のことを思い出してみても、責任の所在がどこにあるかが不明瞭な今の段階では、事務方の思考はそちらの方に注意が向いてしまって患者対応が疎かになる可能性もある。
事務方の人間は、日ごろから費用に関係する業務に携わる時間が多いせいで、それを考えないわけにはいかない。
国レベルで医療費が切迫しているのだ。
うちだって当然、余裕などない。
埼玉は医師が不足しているぶん、他県よりも人件費がかかる。それだけ、医師への負担が大きいからだ。その分儲かっているだろうと言われることもあるが、公立病院は利益を追求できないから、ただひたすら忙しいだけだ。
公立だから、民間がそろえにくい高額な医療機器を導入する。
民間よりもベッド代や検査費用が安いから患者が集まる。
医師には給与を多く支払う。
そのしわ寄せは、どこに行くのか……明確だ。
転院となったとき、担当することになる相談室は悲鳴を上げるだろう。
とてもではないが対応しきれない。
今回の学校の事故でも対応しきれないほどの問い合わせがあったのだ。これがもし、当院でも同じことが起きそうだと知られたらどうなるのか。
すべての事務員が対応にあたっても、たとえ深夜まで働いたとしても間に合わないだろう。
「これは、安全を確保できるまで、けして外に漏らしてはいけないわ」
絹井先生は厳しい顔で言った。
「危険ですと、早々に公開することは簡単よ。でもね。その次のことを考えたら今知らせることは、それこそ患者の命に係わる」
「しかし、我々には情報公開の義務があります。患者にも知る権利があります。それを念頭に置きながら慎重に動く必要があるはずです」
「知る権利、知らせる義務……でも、その前に生きる方が重要じゃない?」
常に死と闘っているからこその、重い響きがそこにはあった。
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