【R18】娼館に堕ちた伯爵令嬢は、かつての婚約者を快楽で縛り、愛の名を告げずに去る

いろは杏⛄️

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あなたの名を 前編

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 リリアナが姿を消したのは、ある雨の夜だった。
 いつも通り仮面をつけ、しっとりとした香油を纏い、何も告げずに黒百合として最後の夜を終えた翌朝。
 彼女の部屋には、仮面も、香も、名も――何一つ残されてはいなかった。

 《ル・デザイール》の女主人でさえ、どこに行ったのか知らないという。
 そのことに、セオドアは言いようのない喪失感を覚えた。

(冗談だろう? ただの遊女に、俺は……)

 それでも足は自然と娼館に向かっていた。
 部屋の扉を開けるたびに、「今度こそ」と胸の奥が疼く。
 けれどそこにいるのは別の女。香りも、声も、何一つ同じではない。

 あの身体。あの声。あの指先。

 仮面越しに重ねた夜の中で、彼の心には確かに恋が芽生えていた。

 そして、その恋の奥には、ずっと忘れたふりをしていた一人の少女がいた。

 リリアナ。
 美しくて、従順で、でもどこか芯の強い瞳をしていた。
 政略の命令により、何も言えずに彼女を斬り捨てた、あの夜。
 彼女が涙を飲んで「わかりました」と言ったときの、声の震え。
 なぜ、その震えを、あのとき見逃したのか。

 セオドアは次第に、記憶と欲望と現実の境界が曖昧になっていくのを感じていた。

 黒百合は、リリアナだ。
 それが確信に変わったのは、ほんの些細な仕草だった。

 名を呼ばれたとき、微かに震えた睫毛。
 果てた直後、夢のようにこぼれた「……セオ」という囁き。

(なぜ……気づかなかった。あれが、彼女の声だったのに)

 知れば知るほど、何も知らなかった自分が痛ましい。

 彼女は、自ら名を捨て、身体を売り、誰にも愛されぬ仮面の女として生きていた。
 それを、最後の最後まで、彼女は告げなかった。

 セオドアは、何日も眠れぬ夜を過ごした。
 書斎に籠もり、婚約破棄当時の記録や手紙を読み返し、政略の裏を洗い直す。
 彼女がどこへ行ったのか、どんな経緯で《ル・デザイール》に堕ちたのかを、懸命に追った。

 ――そして、ようやく一通の手紙に辿り着いた。
 古びた筆跡。リリアナの母の名前。
 数年前に小さな修道院に寄付を申し出たという記録。

 セオドアは震える手で、その地図を握りしめた。

「……そこに、君がいるのなら」

 たとえ、もう二度と口をきいてもらえなくても構わない。
 たとえ、仮面越しの関係すら断ち切られたとしても。

 それでも、謝りたい。
 愛していると、伝えたい。

 なぜなら彼女はもう黒百合ではなく――
 彼の心にとって唯一無二の存在、リリアナだから。

 その翌朝、セオドアは馬車も馬も使わず、一人で歩き出した。
 彼女がいるかもしれないその修道院までの、静かで孤独な旅路。

 道中、何度も雨に降られ、足元は泥にまみれ、膝も笑い始めていた。

 だが彼は、一歩も立ち止まらなかった。
 どんなに遅くても、どんなに愚かでも――

 この愛だけは、嘘じゃなかったと信じたい。


     * * *


 小さな修道院は、山間の村にひっそりと佇んでいた。
 花畑の向こう、石造りの聖堂。鐘の音も届かないような静寂の中で、リリアナは咲き誇る白百合に水をやっていた。

 指先には、今もかすかに黒百合の香りが残っている気がした。
 仮面も娼館も過去に葬ったつもりなのに、心の奥ではまだ彼の声が反響していた。

 あの夜、セオドアはたしかにリリアナと呼んだ。
 けれど気づいたとして、どうなるというのだろう。
 名前を知っても、過去を遡っても、失ったものはもう戻らない。

(なのに、なぜ……来てしまったの)

 修道女として隠れ住むはずが、今日もまた朝から髪を整え、指に香油をすり込んでいた自分が情けなかった。
 彼はもう、来ないかもしれない。それでも――

 ――来た。

 昼を過ぎた頃、外の扉を叩く音が響いた。
 年老いた修道女が扉を開けると、そこに立っていたのは、泥にまみれ、やつれきった一人の男だった。

「……セオ……」

 リリアナの喉が震えた。

 彼は名乗ることもせず、ただ無言でその場に跪いた。
 泥に汚れた外套のまま、両手を突き、頭を下げる。

「ここに……君がいると、聞いた」

 低く、掠れた声だった。
 彼女は唇を噛み、振り返ることができなかった。
 けれど、背後に立つその男の熱が、確かに肌に伝わってくる。

「君が黒百合だと気づいたのは、最後の夜だった。それまでは……気づこうともしなかった。俺の目が節穴だったんだ」

「……遅すぎるわ」

 リリアナはようやく声を出した。
 その声音には冷たさがあったが、震えていた。

「私がどれだけ貴方を想っていたか、貴方にはわからなかった。何も告げずに捨てるということが、どういうことか……」

「わかってる。今ならわかる。君のあの瞳の奥に、どれだけの絶望があったか、全部……思い出すたびに、胸が裂けそうになる」

 彼の声に、苦悶と愛が滲んでいた。
 娼館での男の顔ではない。
 政略に従った政治家でもない。

 今ここにいるのは、ただ一人の男だった。
 一人の女を取り戻したいと願う、愚かで、哀しい男。

「……どうして来たの?」

「君が黒百合であるかどうかなんて、もうどうでもいい。リリアナ、もう一度……もう一度、君を愛させてくれ」

 その言葉が、胸に深く刺さる。

 それは彼の本心だったのだろう。
 けれどリリアナには、簡単に赦せるほどの勇気は残っていなかった。

 彼を責めるために娼婦になり、身体で支配し、心まで堕としたはずだったのに。
 それでも彼は、自分の本名を抱きしめようとしている。

 ――なら、せめて。

「今夜だけ。……貴方が欲しいなら、私のすべてを差し出すわ。でもこれは赦しじゃない。慰めでもない。……ただの、別れの儀式よ」

 セオドアが顔を上げる。

「……もう会わないのか?」

「ええ。今夜を最後に、貴方の前から完全に消える」

 彼女の声は静かで、どこまでも真剣だった。

「なら……せめて、最後に君を抱かせてくれ。仮面も名前もなくていい。ただ、君の温もりだけでいい」

 リリアナは静かに頷いた。

 それは赦しではなかった。
 けれど、それでも心に残った澱を、ひとしずくずつ溶かしていくような沈黙だった。

 そうして、夜が落ちていった。
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