「あなたの好きなひとを盗るつもりなんてなかった。どうか許して」と親友に謝られたけど、その男性は私の好きなひとではありません。まあいっか。

石河 翠

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 魔術師団内の執務室にて、てきぱきと事務仕事をするハリエットにサイモンが声をかけた。

「お疲れさま。何か困っていることはありませんか?」
「ありがとう」

 いくつかの書類について確認を取るハリエットは、実家にいた頃よりも生き生きとして見える。けれど、跡取りとして育てられたはずのハリエットを家から連れ出し、王宮で働かせてしまって本当によかったのか。本人の希望だったとはいえ、ときどきサイモンは心配になっていた。

「あなたにこんな事務仕事をさせてしまってよかったのでしょうかね。あなたなら、当主としてその才能をいかんなく発揮できたのでは」
「サイモンさまったら、買いかぶりすぎだわ。でもそうね、当主となるべく教育を受けてきたお陰で、あなたの隣に立っていても卑屈にならずに済んでいるの。並みのご令嬢じゃあ、あのねたそねみになんて対応できないわよ。それだけは、お母さまのスパルタ教育に感謝しているわ」

 ハリエットは微笑む。彼女の母の教育方針が子どもにとって良いものだったとはお世辞にも言えない。それでも学んだことは決して無駄ではなかったこと、ハリエットを守る鎧になっていたことを、サイモンと結婚し王宮での職に就いてからハリエットは実感していた。

「御義母上はご健勝だろうか」
「大丈夫。お母さまも伯母さまも、凹んでも翌朝にはけろっとしているひとたちだから気にしないで」 
「ハリエットは強いですね」
「エミリーも私もテキトーに受け流すのがうまくなっただけよ。エミリーと言えば、おめでたって聞いたわ。素敵なプレゼントを用意しなくちゃ」

 苦い子ども時代の傷が今はそれほど痛まないことに密かに驚きながら、ハリエットは微笑んでみせた。

 あの母親たちは見た目よりも存外強い。家を継いでもらうべく養子に迎えた相手ともそれなりにうまくやっていると聞いている。何より、彼女たちには辛抱強く相手をしてくれる夫たちがいるのだ。心配することはないだろう。

「お母さまと伯母さまは、どちらがより良い養母になれるか、毎日競争しているそうよ」
「やれやれ、仕方のないひとたちですね」
「とはいえ、自分たちの見栄の張り合いで子どもに圧力をかけてくるよりは、遥かにマシだもの。それに、簡単にひとは変われないわ。今までのことを思えば、今はこれで十分なのでは?」
「ハリエットは優しいですね」
「なんだかんだ言って、一応あれでも自分の親だから。酷い目に遭えばいいとは思えないの。ただ少し距離を置いて、挨拶程度の関係ならうまくいくわ。親子だと思うからきっとダメなのよ」

 サイモンはハリエットを抱き寄せる。

「サイモンさま、まだ仕事中!」
「なんだか無性にこうしたくなりまして」
「そう? それじゃあ、ちょっとだけね」

 そんな軽口を叩きながら、サイモンの温もりに救われているのは自分自身だとハリエットはちゃんと理解している。

(サイモンさま、私はこんなに幸せでいいのかしら?)

 いつか子どもが生まれたら、少しでも穏やかな気持ちで過ごせる家にしたい。けれど、本当にそれができるのかときどきたまらなく怖くなる。だから、不安を感じたときには、黙々と働くのだ。身体を動かしていれば余計なことを考えずに済むから。

 そんなとき、サイモンは黙って抱きしめてくれる。それだけでハリエットの不安は、ほどけて消えていくような気がするのだ。

「ハリエット、大丈夫ですよ」
「なにが?」
「なんでも。全部うまくいきます」
「そうだといいわね」

 サイモンと一緒なら、きっとうまくいく。そんな根拠のない自信を得られるくらいには自分は今満ち足りていて幸せなのだと、ハリエットはサイモンの腕の中で微笑んだ。
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