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6.観覧車
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母が呆けた。
その事実に、美佳は呆然とする。めっきり口数の少なくなった母は、ある日手を振り上げた美佳を見て怯えたようにこう叫んだ。「おかあさん、やめて」と。病院で受診してみれば、軽度の認知症だという。今はまだ徘徊もなく、ただ自分にとって幸せな時間を行ったり来たりしているのだそうだ。介護施設やヘルパーさんの検討も促されながら、美佳は暗澹たる思いで家に帰ってきた。
ようやく仕返しができると思ったのに。母は美佳を置いて、一人自分だけの世界へ行ってしまった。呆けた母は、すっかり子どもに返ってしまったらしい。美佳のことを逆にお母さんと呼んでくる始末だ。自分のことを忘れてしまった人間に恨みつらみを吐きかけてもどうしようもない。幼児さながらの精神年齢の相手に暴言を吐けば、ぽろぽろと涙をこぼしながら「お母さんごめんなさい」と泣かれるのだ。自分がやりたかったのは、こんな胸糞悪い弱いものいじめなんかじゃないのに。
仕方なく感情を押し殺し、できる限り冷静に対応する。排泄も自分でできるし、妄想や暴言もない。ある意味、偏屈老人であった母よりも扱いやすいが、美佳の心が受け入れられないのだ。本当は話しかけたくもないのだけれど、おしゃべりに付き合ったり、散歩に一緒に出かければ、これ以上ないほどの喜びをたたえて美佳に擦り寄ってくる。大好きを前面に出されて、こうやってにこにこと懐かれてしまっては、今までみたいな意地悪はできない。あの糞みたいな母親は、こんな風に幸せな子ども時代を送っていたと言うのだろうか。それじゃあなおのこと、美佳の子ども時代の過酷さは一体何だったと言うのだろう。
ねえ、知ってる?
眠れない夜は、桃色のペンでうさぎを描いてから枕の下に入れて眠ってごらん。
びっくりするくらいよく眠れるんだって。
そんな噂を思い出し、美佳はもう一度桃色のペンでうさぎを描く。この理不尽な状況への怒りを紙に叩きつければ、ペンのインクが紙に滲んで、うさぎの目が妙なつり目になる。前よりもずっと不細工なうさぎは、何だか泣いているようにも怒っているようにも見えた。そのまま美佳は、枕の下に突っ込む。昼寝には遅いが、夜寝ると言うには早い時間。けれどむしゃくしゃしていた美佳には、時間のことなど気にしている余裕はなかった。
ここが夢だとわかったのは、母と二人で観覧車に乗っているせいだ。家族全員で乗るか、美佳だけ乗り物に乗らずに待っているか。そのどちらかしか経験がない。だからこうやって母と向かい合わせで観覧車に乗るなんてことは、夢でしかありえないのだ。そう言えば以前はミラーハウスに行った夢を見たのだったと、美佳は不思議なほど鮮明に思い出していた。
ゆっくりと観覧車は上がっていく。不思議なことに頂上へ近づけば近づくほど、目の前にいる母の姿は若返るのだ。呆けてしまった母は、普段の言動がよく似合う少女の姿になる。どこか見覚えがあると思ってじっくり見てみれば、目の前の母の姿はミラーハウスの鏡に映っていた幼い頃の自分にそっくりなのである。
「おかあさん、どうして叩くの。なんにも悪いことしてないのに」
「どうして赤ちゃんばっかり可愛がるの?」
「ねえ、お願い。こっちを向いて。笑ってよ」
「もっと優しくして。どうしていつも怒ってばかりいるの」
「痛いよ、寒いよ、やめて。お願いごめんなさい」
ぽろぽろと涙をこぼし、しゃくりあげながら訴えかける少女の言葉は、美佳がずっと母親に対して思っていたことと同じこと。不思議なことに、目の前で涙をこぼす少女は、まるで美佳と同じように母親に邪険にされていたらしい。虐げられていたのなら、なぜ子どもに優しくできないのか。なぜ自分がされて嫌だったことを繰り返すのか。目の前が真っ赤になるような怒りを美佳は覚える。
頂上までたどり着いた母は、今度は観覧車が降りるに連れて少しずつ歳をとる。泣いてばかりいた少女の顔は、いつの間にか般若のように目がつり上がっている。彼女は何に対して怒っているのだろう。自分を虐げた母か。それを許した父か。虐げられなかった下の子か。
「美佳が羨ましい」
「美佳が憎らしい」
「こんなに優しくしてやっているのに、それが当然だと思って」
「子どもの頃にこっちはこんなに辛い目にあったのに。どうして美佳はずっと笑顔で笑っていられるの」
「あんなおもちゃ買ってもらえなかったのに、美佳は何一つ大事にしない」
「こんなご飯は食べられなかったのに、美佳はすぐに好き嫌いばかり言う」
「親だから何でも言うことを聞いてもらえると思って。こっちは親から何もしてもらったことないのに。美佳にしてあげるばかりで、わたしばかり損してる」
「ああ、何て苛つくの。鈍臭くて、地味で、不細工でそっくりすぎて、もう嫌なのよ。目の前から消えてくれれば良いのに」
「あの子さえいなければ、完璧な母親になれたのに」
これはもはや、呪いだ。
目の前の母親は、一つ一つ歳をとりながら、美佳への恨みつらみを吐き続けている。母親は、その母親に愛されていなかった。だからこそ、無条件に無償の愛を得られる美佳が憎らしかったのだろうか。我が子なのに? それとも我が子だからこそ許せないのだろうか。虐待の連鎖という言葉が、不意に心に浮かぶ。くるくると絶え間なく回り続ける観覧車は、行き場のないどん詰まりの美佳たち母娘の関係と同じようにも見える。
目がさめても、今度は夢の記憶はそのままだった。まだそれほど時間はたっていないのか、夏の夕方ということもあってまだ外はほんのりと明るい。こんなのあんまりだ。何がぐっすり眠れるおまじないだ。これじゃあ苦しいばかりだ。誰にもぶつけようがないこの憎しみを自分は一体どこにぶつければ良いのだろう。ぱたぱたと足音が聞こえる。どうやら母も昼寝から起きたらしい。幼子と同じで、美佳の姿が見えないと不安になるようだ。けれど美佳は、どうしても今だけは母の姿が見たくなくて何も持たずに家を飛び出した。
ふらふらとたどり着いたのは、散歩でよく行く近所の公園だ。涼しくなった夕方だから、ちょうど良いのだろうか。そろそろ帰るわよなんて言いながら、楽しそうに遊ぶ親子が目に入る。もうどうしてもたまらない気持ちになって、ベンチに腰掛けるとそのまま嗚咽した。公衆の面前だというのに、涙が後から後から溢れてくる。どうして良いか、わからない。殴られても蹴られても暴言を吐かれても、それでも母親が恋しかった。同居をするようになって母に同じことをやり返しても、一瞬の高揚感はあっても心からの喜びはなかった。なぜなら美佳が本当に欲しいものは、目の前の親子のようなごくごく一般的な愛情だったのだから。
どうして、手に入らないのだろう。母も自分も。母の愛情が欲しくてたまらない。呆けた母でさえそれを望むのを見れば、自分もまた生涯手に入らないものを求めることになるのか。どうしようもない現実を前に、またぽろぽろと涙が零れ落ちる。
痛いの痛いのとんでいけ
うさぎのくにまで飛んでいけ
夢のくにまで飛んでいけ
突然、見知らぬ少年が美佳の頭を撫でた。華奢な少年は、美佳の顔を見るとにっこりと笑った。ぷっくりとしたえくぼと、はっきりとした二重まぶたが可愛らしい。
「おばちゃん、泣かないで。これ食べて、元気出して」
うさぎのマークがついた桃色のキャンディを、そっと差し出してくれる。泣いた子どもに大人が差し出すならまだしも、こんな少年に慰められるとは恥ずかしい。けれど、少年の気遣いが嬉しくて、美佳は溶けかけてべとついた飴を口に入れる。遠い昔に食べたような、懐かしく甘ったるい味。とっても美味しいわ。初めて食べたわ、こんな美味しい飴。そう褒めれば、少年はびっくりしたように目を見開いた。
「え、おばちゃん知らないの。お胸が苦しい時にはね、おまじないをするとうさぎの国に飛んで行くんだよ。夢の国のうさぎは、みんなの悲しいことを鍋で煮詰めて、美味しいジュースやキャンディに変えてくれるんだ」
絵本か最近流行りのアニメの設定だろうか。けれど、本当にそうなら素敵だと思う。悪夢を食べるバクのように、辛い記憶を美味しいものに変えてくれる夢のうさぎがいるならば、それはどんなにか心休まるだろう。
きっと母が呆けずにいたとしたら、あのままでは自分は遅かれ早かれ母を殺してしまっていただろう。きっと手加減ができなくなって、積年の思いを晴らしていたに違いないのだ。そんなことをしても、結局心の隙間は埋まらないのに。美佳の中で泣き続ける小さな美佳は、やっぱり今でも愛して欲しいと泣き続けているのだから。
「おかあさん、おうちにかえろ」
ぼんやりと下を向いていたら、しわしわの手が目の前に差し出された。老いた母は、美佳が家を飛び出したことに気がついて、必死に追いかけてきたらしい。左右の靴を反対に履いている。よくもまあ転びもせずに、ここまで歩いてこれたものだ。
「おかあさん、ごめんね。おいてかないで」
家を飛び出した美佳を怒りもせずに、小さく背を丸めた母が美佳に謝る。それがどうしようもなく切なくて悲しくて、美佳はただ黙って首を振った。今までのことをなかったことになってできない。母のことを許すこともできない。歯を食いしばりながら美佳は、ただ泣き続けた。母はただ困ったようにそんな美佳をみつめている。
自宅に戻れば、付けっ放しのテレビからまたもや虐待死した子どものニュースが報道されていた。殺すくらいなら産まなきゃいいのに。そう思いながらも同時に、母のように新しい家族を作ることを夢見て、どんなに頑張っても愛せなかったのだとしたらと考えてぞっとする。自分だって、母と同じように我が子に嫉妬しないとは限らないではないか。与えられなかったものを、人に与えることはとても難しい。祖母から母へ母から美佳へと続いた暴力は、本当に自分の代で止まるのだろうか。
ちらりと画面に映っていた男の子の写真は、先ほどいつの間にか公園からいなくなっていた少年の笑顔によく似ていた。
痛いの痛いのとんでいけ
うさぎのくにまで飛んでいけ
夢のくにまで飛んでいけ
小さな声で呟きながら、どうか辛い記憶が少しでも薄くなりますようにと美佳は願った。
その事実に、美佳は呆然とする。めっきり口数の少なくなった母は、ある日手を振り上げた美佳を見て怯えたようにこう叫んだ。「おかあさん、やめて」と。病院で受診してみれば、軽度の認知症だという。今はまだ徘徊もなく、ただ自分にとって幸せな時間を行ったり来たりしているのだそうだ。介護施設やヘルパーさんの検討も促されながら、美佳は暗澹たる思いで家に帰ってきた。
ようやく仕返しができると思ったのに。母は美佳を置いて、一人自分だけの世界へ行ってしまった。呆けた母は、すっかり子どもに返ってしまったらしい。美佳のことを逆にお母さんと呼んでくる始末だ。自分のことを忘れてしまった人間に恨みつらみを吐きかけてもどうしようもない。幼児さながらの精神年齢の相手に暴言を吐けば、ぽろぽろと涙をこぼしながら「お母さんごめんなさい」と泣かれるのだ。自分がやりたかったのは、こんな胸糞悪い弱いものいじめなんかじゃないのに。
仕方なく感情を押し殺し、できる限り冷静に対応する。排泄も自分でできるし、妄想や暴言もない。ある意味、偏屈老人であった母よりも扱いやすいが、美佳の心が受け入れられないのだ。本当は話しかけたくもないのだけれど、おしゃべりに付き合ったり、散歩に一緒に出かければ、これ以上ないほどの喜びをたたえて美佳に擦り寄ってくる。大好きを前面に出されて、こうやってにこにこと懐かれてしまっては、今までみたいな意地悪はできない。あの糞みたいな母親は、こんな風に幸せな子ども時代を送っていたと言うのだろうか。それじゃあなおのこと、美佳の子ども時代の過酷さは一体何だったと言うのだろう。
ねえ、知ってる?
眠れない夜は、桃色のペンでうさぎを描いてから枕の下に入れて眠ってごらん。
びっくりするくらいよく眠れるんだって。
そんな噂を思い出し、美佳はもう一度桃色のペンでうさぎを描く。この理不尽な状況への怒りを紙に叩きつければ、ペンのインクが紙に滲んで、うさぎの目が妙なつり目になる。前よりもずっと不細工なうさぎは、何だか泣いているようにも怒っているようにも見えた。そのまま美佳は、枕の下に突っ込む。昼寝には遅いが、夜寝ると言うには早い時間。けれどむしゃくしゃしていた美佳には、時間のことなど気にしている余裕はなかった。
ここが夢だとわかったのは、母と二人で観覧車に乗っているせいだ。家族全員で乗るか、美佳だけ乗り物に乗らずに待っているか。そのどちらかしか経験がない。だからこうやって母と向かい合わせで観覧車に乗るなんてことは、夢でしかありえないのだ。そう言えば以前はミラーハウスに行った夢を見たのだったと、美佳は不思議なほど鮮明に思い出していた。
ゆっくりと観覧車は上がっていく。不思議なことに頂上へ近づけば近づくほど、目の前にいる母の姿は若返るのだ。呆けてしまった母は、普段の言動がよく似合う少女の姿になる。どこか見覚えがあると思ってじっくり見てみれば、目の前の母の姿はミラーハウスの鏡に映っていた幼い頃の自分にそっくりなのである。
「おかあさん、どうして叩くの。なんにも悪いことしてないのに」
「どうして赤ちゃんばっかり可愛がるの?」
「ねえ、お願い。こっちを向いて。笑ってよ」
「もっと優しくして。どうしていつも怒ってばかりいるの」
「痛いよ、寒いよ、やめて。お願いごめんなさい」
ぽろぽろと涙をこぼし、しゃくりあげながら訴えかける少女の言葉は、美佳がずっと母親に対して思っていたことと同じこと。不思議なことに、目の前で涙をこぼす少女は、まるで美佳と同じように母親に邪険にされていたらしい。虐げられていたのなら、なぜ子どもに優しくできないのか。なぜ自分がされて嫌だったことを繰り返すのか。目の前が真っ赤になるような怒りを美佳は覚える。
頂上までたどり着いた母は、今度は観覧車が降りるに連れて少しずつ歳をとる。泣いてばかりいた少女の顔は、いつの間にか般若のように目がつり上がっている。彼女は何に対して怒っているのだろう。自分を虐げた母か。それを許した父か。虐げられなかった下の子か。
「美佳が羨ましい」
「美佳が憎らしい」
「こんなに優しくしてやっているのに、それが当然だと思って」
「子どもの頃にこっちはこんなに辛い目にあったのに。どうして美佳はずっと笑顔で笑っていられるの」
「あんなおもちゃ買ってもらえなかったのに、美佳は何一つ大事にしない」
「こんなご飯は食べられなかったのに、美佳はすぐに好き嫌いばかり言う」
「親だから何でも言うことを聞いてもらえると思って。こっちは親から何もしてもらったことないのに。美佳にしてあげるばかりで、わたしばかり損してる」
「ああ、何て苛つくの。鈍臭くて、地味で、不細工でそっくりすぎて、もう嫌なのよ。目の前から消えてくれれば良いのに」
「あの子さえいなければ、完璧な母親になれたのに」
これはもはや、呪いだ。
目の前の母親は、一つ一つ歳をとりながら、美佳への恨みつらみを吐き続けている。母親は、その母親に愛されていなかった。だからこそ、無条件に無償の愛を得られる美佳が憎らしかったのだろうか。我が子なのに? それとも我が子だからこそ許せないのだろうか。虐待の連鎖という言葉が、不意に心に浮かぶ。くるくると絶え間なく回り続ける観覧車は、行き場のないどん詰まりの美佳たち母娘の関係と同じようにも見える。
目がさめても、今度は夢の記憶はそのままだった。まだそれほど時間はたっていないのか、夏の夕方ということもあってまだ外はほんのりと明るい。こんなのあんまりだ。何がぐっすり眠れるおまじないだ。これじゃあ苦しいばかりだ。誰にもぶつけようがないこの憎しみを自分は一体どこにぶつければ良いのだろう。ぱたぱたと足音が聞こえる。どうやら母も昼寝から起きたらしい。幼子と同じで、美佳の姿が見えないと不安になるようだ。けれど美佳は、どうしても今だけは母の姿が見たくなくて何も持たずに家を飛び出した。
ふらふらとたどり着いたのは、散歩でよく行く近所の公園だ。涼しくなった夕方だから、ちょうど良いのだろうか。そろそろ帰るわよなんて言いながら、楽しそうに遊ぶ親子が目に入る。もうどうしてもたまらない気持ちになって、ベンチに腰掛けるとそのまま嗚咽した。公衆の面前だというのに、涙が後から後から溢れてくる。どうして良いか、わからない。殴られても蹴られても暴言を吐かれても、それでも母親が恋しかった。同居をするようになって母に同じことをやり返しても、一瞬の高揚感はあっても心からの喜びはなかった。なぜなら美佳が本当に欲しいものは、目の前の親子のようなごくごく一般的な愛情だったのだから。
どうして、手に入らないのだろう。母も自分も。母の愛情が欲しくてたまらない。呆けた母でさえそれを望むのを見れば、自分もまた生涯手に入らないものを求めることになるのか。どうしようもない現実を前に、またぽろぽろと涙が零れ落ちる。
痛いの痛いのとんでいけ
うさぎのくにまで飛んでいけ
夢のくにまで飛んでいけ
突然、見知らぬ少年が美佳の頭を撫でた。華奢な少年は、美佳の顔を見るとにっこりと笑った。ぷっくりとしたえくぼと、はっきりとした二重まぶたが可愛らしい。
「おばちゃん、泣かないで。これ食べて、元気出して」
うさぎのマークがついた桃色のキャンディを、そっと差し出してくれる。泣いた子どもに大人が差し出すならまだしも、こんな少年に慰められるとは恥ずかしい。けれど、少年の気遣いが嬉しくて、美佳は溶けかけてべとついた飴を口に入れる。遠い昔に食べたような、懐かしく甘ったるい味。とっても美味しいわ。初めて食べたわ、こんな美味しい飴。そう褒めれば、少年はびっくりしたように目を見開いた。
「え、おばちゃん知らないの。お胸が苦しい時にはね、おまじないをするとうさぎの国に飛んで行くんだよ。夢の国のうさぎは、みんなの悲しいことを鍋で煮詰めて、美味しいジュースやキャンディに変えてくれるんだ」
絵本か最近流行りのアニメの設定だろうか。けれど、本当にそうなら素敵だと思う。悪夢を食べるバクのように、辛い記憶を美味しいものに変えてくれる夢のうさぎがいるならば、それはどんなにか心休まるだろう。
きっと母が呆けずにいたとしたら、あのままでは自分は遅かれ早かれ母を殺してしまっていただろう。きっと手加減ができなくなって、積年の思いを晴らしていたに違いないのだ。そんなことをしても、結局心の隙間は埋まらないのに。美佳の中で泣き続ける小さな美佳は、やっぱり今でも愛して欲しいと泣き続けているのだから。
「おかあさん、おうちにかえろ」
ぼんやりと下を向いていたら、しわしわの手が目の前に差し出された。老いた母は、美佳が家を飛び出したことに気がついて、必死に追いかけてきたらしい。左右の靴を反対に履いている。よくもまあ転びもせずに、ここまで歩いてこれたものだ。
「おかあさん、ごめんね。おいてかないで」
家を飛び出した美佳を怒りもせずに、小さく背を丸めた母が美佳に謝る。それがどうしようもなく切なくて悲しくて、美佳はただ黙って首を振った。今までのことをなかったことになってできない。母のことを許すこともできない。歯を食いしばりながら美佳は、ただ泣き続けた。母はただ困ったようにそんな美佳をみつめている。
自宅に戻れば、付けっ放しのテレビからまたもや虐待死した子どものニュースが報道されていた。殺すくらいなら産まなきゃいいのに。そう思いながらも同時に、母のように新しい家族を作ることを夢見て、どんなに頑張っても愛せなかったのだとしたらと考えてぞっとする。自分だって、母と同じように我が子に嫉妬しないとは限らないではないか。与えられなかったものを、人に与えることはとても難しい。祖母から母へ母から美佳へと続いた暴力は、本当に自分の代で止まるのだろうか。
ちらりと画面に映っていた男の子の写真は、先ほどいつの間にか公園からいなくなっていた少年の笑顔によく似ていた。
痛いの痛いのとんでいけ
うさぎのくにまで飛んでいけ
夢のくにまで飛んでいけ
小さな声で呟きながら、どうか辛い記憶が少しでも薄くなりますようにと美佳は願った。
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