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幕間 襲撃前夜
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シュボ、と暗闇に一つの炎が生まれた。微かな音を立てて炎は、蝋燭の芯に燃え移る。燐寸の匂いが男たちの鼻をくすぐった。
「不便なものだ」
体格の異なる二人が差し向かいで座っている。暗い部屋だ。燭台が据え付けられた石造りの壁は磨き上げられ、装飾品もそれぞれに美しかったが、豪奢な暗い部屋というのは、衰亡の気配を濃く際立たせる。かさこそと蜘蛛が這いまわる音が聞こえてきそうだった。
二人の間には何もない。体格の大きな方が灯りをともした蝋燭を自らの座る椅子の足元に置く。向い合せに座る者と比べれば、半分ほどの体格しかない男も椅子に座っていた。特徴的な顎にかかるまでの笠。蓑姿。行李が足元に置かれている。
「真血家に何事かあったご様子」
妖しい声が告げる。やや高めで言葉の途中で不思議に声音が揺れる様はうねる蛇のよう。魅惑的な声だ。
「本家には入れずじまいでしたが、真血公の別邸には招き入れていただきました」
「朱昂はいなかっただろう」
「おや、ご存知でいらっしゃったのですか?」
訝しむというよりは、面白がっているような声だった。何故知っていると言外に告げる。
「朱昂から龍宮に来たいと連絡があって、正装の使者が来た。朱昂は本家にいる。明日登城してくるのだからな」
血主|《けつしゅ》、血王、真血公、薬王、呪血公に文痴公。朱昂を指す言葉はいくらでもある。朱昂、と真血の主の本名を呼び捨てにできるということは、この大男は朱昂と同等の立場にあることを指す。
「真血公が龍宮に。それはそれは困ったことがおありなのですね」
吸血族と龍族の仲は睦まじいとは言い難い。表面上は何事もないかのように振る舞っているが、水面下ではいつ何時でもお互いの王の首を刎ねられるように弓を引きあっている。
その吸血族の王が、わざわざ龍族の本拠地である龍宮を訪ねるというのは尋常のことではない。朱昂の手紙には龍玉に謁見を求めるとあった。仇敵の龍族に弱みを握られてもいい、弱みを握られても構うまいと、曲者、知恵者で知られる朱昂が泣きついてきたのだ。余程の事態が起こったということは推測できる。
「それで、真血家に何事が起きたのかは分かったのか」
「申し訳ございませぬ。門は固く閉じられ、出入りする者もいない状態で。別宅もしもべが応対しただけで、変わりは……あぁ、見知らぬ顔が一人、増えていました」
「見知らぬ顔?」
大男が聞き返す。先を促す風ではあったが、笠男は「ええ」と答えたきり、押し黙った。闇に溶けるような薄墨色が笠男を見つめた後、気を取り直したように微笑した。
「朱昂の淫売は元気であったか」
笠の商人は、腕を組み直す動きを中途で止めた。ふさわしからぬ言葉に、処理が追いつかぬとでもいうように。芝居がかった商人の挙動に、龍王がくすくすと上品に笑う。
「汝は月鳴の名を知らぬほど若くはないだろう」
「あれが、あの月鳴……。分かりませぬな」
「どんなにまともを装っても、内実は、な」
龍王はくつくつと喉を鳴らす。愉快そうな龍王に、商人がそっと告げる。
「毒蠱の遺体が見つかったようだと聞きましたが、こちらはいかがです」
「初耳だ。どこで」
「人間の里だったようで」
肘置きをとんとんと叩いていた龍王の指が一瞬止まる。笠の奥の目がつと、鋭い爪のある指先を見た瞬間、また叩きはじめた。
「今回は当たりだと、雑魔たちが言っているようです。真血さえあれば、烏利矢婁が戻ってくると。わざわざ人間の里まで降りたのですから当然でしょうな」
「雑魔ほど人間に近い魔はおらぬというに。化生した人間とて少なくなかろう。さて、雑魔にどうやって真血が奪えるのか、楽しみだな」
「お知恵があらば、雑魔もそれ相応のお礼はするでしょう。いかがです?」
ねっとりとした声音に、相対する男は笑みを浮かべるだけだった。
「龍族が雑魔に手を貸すとは、お前も面白いことを言う。真血の主に手を出せば、理に触れることになりかねない。見返りにどんな財宝を積んでくれるのやら」
「明日、登城されるのでしょう?」
「では手始めに汝が朱昂に額づいて見よ。雑魔のために血を分けてくれとな。汝の首と胴が繋がっていれば、こちらからも口添えをしようよ。――なぁ、随分と雑魔に執心しておるようだが?同族愛にでも目覚めたか」
ゆったりと龍族の王が足を組み替える。緩慢な動作に微かな苛立ちが隠れていた。
「雑魔に同族も何もありますまい。商人は、金の欲に勝てぬもので」
「そうであったか」
くすくすと笑い続ける龍王に深く叩頭した商人は、案内もなしに龍宮を出る。龍宮をぐるりと巡る堀を流れる水を見つめることしばし、空から大烏が舞い降りた。
怪鳥の背に乗った商人は、一路吸血族の領地に向かう。眼下に広がる邸宅。夜半にも関わらず篝火が目立つ。夜目の利く吸血族にしては炎が多すぎる。
「明日、か……」
烏は旋回をやめ、西へ方角を変えた。黒い森を抜けた先の館の前へ音もなく降り立つ。窓には灯りがない。一歩、踏み出した商人の沓が、ジャリ、と硬い物を踏んだ。石の音ではない、と足を上げると、そこには粉々に砕けた陶器があった。灯りで照らすと黒い血のようなものがこびりついている。手のひらにおいてじっと見つめる商人がてろりとその血を舐めた。瞬間、ざっと首を曲げて館を見る。
「ウリャル」
やはり、そうか。
呟いた声は夜風に乗り、やがて消えた。
「不便なものだ」
体格の異なる二人が差し向かいで座っている。暗い部屋だ。燭台が据え付けられた石造りの壁は磨き上げられ、装飾品もそれぞれに美しかったが、豪奢な暗い部屋というのは、衰亡の気配を濃く際立たせる。かさこそと蜘蛛が這いまわる音が聞こえてきそうだった。
二人の間には何もない。体格の大きな方が灯りをともした蝋燭を自らの座る椅子の足元に置く。向い合せに座る者と比べれば、半分ほどの体格しかない男も椅子に座っていた。特徴的な顎にかかるまでの笠。蓑姿。行李が足元に置かれている。
「真血家に何事かあったご様子」
妖しい声が告げる。やや高めで言葉の途中で不思議に声音が揺れる様はうねる蛇のよう。魅惑的な声だ。
「本家には入れずじまいでしたが、真血公の別邸には招き入れていただきました」
「朱昂はいなかっただろう」
「おや、ご存知でいらっしゃったのですか?」
訝しむというよりは、面白がっているような声だった。何故知っていると言外に告げる。
「朱昂から龍宮に来たいと連絡があって、正装の使者が来た。朱昂は本家にいる。明日登城してくるのだからな」
血主|《けつしゅ》、血王、真血公、薬王、呪血公に文痴公。朱昂を指す言葉はいくらでもある。朱昂、と真血の主の本名を呼び捨てにできるということは、この大男は朱昂と同等の立場にあることを指す。
「真血公が龍宮に。それはそれは困ったことがおありなのですね」
吸血族と龍族の仲は睦まじいとは言い難い。表面上は何事もないかのように振る舞っているが、水面下ではいつ何時でもお互いの王の首を刎ねられるように弓を引きあっている。
その吸血族の王が、わざわざ龍族の本拠地である龍宮を訪ねるというのは尋常のことではない。朱昂の手紙には龍玉に謁見を求めるとあった。仇敵の龍族に弱みを握られてもいい、弱みを握られても構うまいと、曲者、知恵者で知られる朱昂が泣きついてきたのだ。余程の事態が起こったということは推測できる。
「それで、真血家に何事が起きたのかは分かったのか」
「申し訳ございませぬ。門は固く閉じられ、出入りする者もいない状態で。別宅もしもべが応対しただけで、変わりは……あぁ、見知らぬ顔が一人、増えていました」
「見知らぬ顔?」
大男が聞き返す。先を促す風ではあったが、笠男は「ええ」と答えたきり、押し黙った。闇に溶けるような薄墨色が笠男を見つめた後、気を取り直したように微笑した。
「朱昂の淫売は元気であったか」
笠の商人は、腕を組み直す動きを中途で止めた。ふさわしからぬ言葉に、処理が追いつかぬとでもいうように。芝居がかった商人の挙動に、龍王がくすくすと上品に笑う。
「汝は月鳴の名を知らぬほど若くはないだろう」
「あれが、あの月鳴……。分かりませぬな」
「どんなにまともを装っても、内実は、な」
龍王はくつくつと喉を鳴らす。愉快そうな龍王に、商人がそっと告げる。
「毒蠱の遺体が見つかったようだと聞きましたが、こちらはいかがです」
「初耳だ。どこで」
「人間の里だったようで」
肘置きをとんとんと叩いていた龍王の指が一瞬止まる。笠の奥の目がつと、鋭い爪のある指先を見た瞬間、また叩きはじめた。
「今回は当たりだと、雑魔たちが言っているようです。真血さえあれば、烏利矢婁が戻ってくると。わざわざ人間の里まで降りたのですから当然でしょうな」
「雑魔ほど人間に近い魔はおらぬというに。化生した人間とて少なくなかろう。さて、雑魔にどうやって真血が奪えるのか、楽しみだな」
「お知恵があらば、雑魔もそれ相応のお礼はするでしょう。いかがです?」
ねっとりとした声音に、相対する男は笑みを浮かべるだけだった。
「龍族が雑魔に手を貸すとは、お前も面白いことを言う。真血の主に手を出せば、理に触れることになりかねない。見返りにどんな財宝を積んでくれるのやら」
「明日、登城されるのでしょう?」
「では手始めに汝が朱昂に額づいて見よ。雑魔のために血を分けてくれとな。汝の首と胴が繋がっていれば、こちらからも口添えをしようよ。――なぁ、随分と雑魔に執心しておるようだが?同族愛にでも目覚めたか」
ゆったりと龍族の王が足を組み替える。緩慢な動作に微かな苛立ちが隠れていた。
「雑魔に同族も何もありますまい。商人は、金の欲に勝てぬもので」
「そうであったか」
くすくすと笑い続ける龍王に深く叩頭した商人は、案内もなしに龍宮を出る。龍宮をぐるりと巡る堀を流れる水を見つめることしばし、空から大烏が舞い降りた。
怪鳥の背に乗った商人は、一路吸血族の領地に向かう。眼下に広がる邸宅。夜半にも関わらず篝火が目立つ。夜目の利く吸血族にしては炎が多すぎる。
「明日、か……」
烏は旋回をやめ、西へ方角を変えた。黒い森を抜けた先の館の前へ音もなく降り立つ。窓には灯りがない。一歩、踏み出した商人の沓が、ジャリ、と硬い物を踏んだ。石の音ではない、と足を上げると、そこには粉々に砕けた陶器があった。灯りで照らすと黒い血のようなものがこびりついている。手のひらにおいてじっと見つめる商人がてろりとその血を舐めた。瞬間、ざっと首を曲げて館を見る。
「ウリャル」
やはり、そうか。
呟いた声は夜風に乗り、やがて消えた。
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