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いつもは私から離れず、ずっとそばで私を守ってくれているレンだが、こうした昼時で、人の目が多い場所では私をひとりにすることもある。レンはこの場を安全であると判断したからこそ、私を置いて食べ物を買いに行ってくれたのだ。心細さを慰めつつ背中を木の幹に預けたまま、ずるずると下がり、地面に腰を下ろす。
眼前の喧騒へと目をやる。その群衆は、まるでひとつの生き物であるかのように蠢いていた。それでも、じっくりと目を凝らせば、一人一人の表情や仕草、感情までも捉えることが出来る。気付いた時には、懐から紙と小筆を取り出し、その景色を絵の中に留めようとする自分がいた。普段、人物画はあまり描かない。専ら、風景を描いている。だというのに今は、この雑踏の熱気に圧倒され、翻弄されるように筆を走らせていた。
荒々しい写生ではあるが、墨の一色で人々の奔流を描き切る。何もなかった白い空間に、私の筆が世界を構築していくというのは、いつでも私の心を高鳴らせるのだ。だが、躍起になる手とは裏腹に再び腹が、ぐぅと情けない音を放った。一体どれほど私は飢えているのかと恥ずかしさを感じながら呆れる。周りを見渡しても、レンの姿はまだ見えない。どこまで行ったのだろうと、レンを探してきょろきょろとする私の鼻を刺激する不思議な香りがあった。空腹だったからか、はたまた、その香りに魅了されたのか、私はここで待っているようにというレンの言いつけを破って、ふらふらと歩き出してしまう。
嗅いだことのない香りだ。深みがあって、香ばしいようで。それでいて、とても甘い。だが、果実の持つ甘さではなく、どちらかというと飴のような感じ。得体の知れないそれに引き寄せられ辿り着いた先には、見たこともないものが並んでいた。私はそれを凝視する。先ほどまでいた木のそばから少し離れた場所の、露店が続く一画の中のひとつの店先で、私はそれと出会ったのだ。
「お客さん、お一ついかがですか?」
そう言って店主が勧めてきたのは、薄い木炭のようなものだった。私が追いかけてきた匂いは、確かにこれから放たれている。だというのに、これが何なのかがさっぱり分からない。いい香りのする木だろうか。泥を固めてつくった薄い粘土に見えなくもない。あれこれと、これの正体を考えては見るが、どれも正解からは程遠いように思えた。観念して店主に問いかける。
「あの、これ……なんですか?」
「これは菓子ですよ、海の向こうからやってきた菓子。形が良いものは全部、お得意様に売っちまったんで、ここにあるのは欠片ばっかですけどね、ちゃんと味は一緒なんで。甘くて美味しいですよ。ぜひぜひ」
随分とお喋りな店主のようで、たくさんの情報を与えてくれた。どうやらこれは菓子であるらしい。飴のように感じていた私の鼻は、あながち間違っていなかったというわけだ。色々な大きさの袋の中に入れられているそれらは、形の悪い状態だという。確かに、不揃いであったり、部分的に欠けているものばかりだ。
匂いの甘さでいえば、菓子であることにも納得なのだが、どうにも見た目が私の知る菓子という存在とは程遠いため、少しばかり疑ってしまう。インチキな商売をして、この国の人にとって見慣れないものを菓子と偽り、売りさばいているのでは、と勘繰ってしまった。得体の知れない菓子について理解を深めるためにも、私は店主に再び尋ねる。
「名前は何と言うんですか?」
「名前? えーっと、何だったかな。あちらさんの言葉はよく分からねぇんですよ……確か、チョ……いや、シャ……シャオ……レイ? だったかな?」
「シャオレイ……ですか?」
「えぇ、えぇ。確か、そんなんです」
シャオレイ。全く聞き覚えのない言葉だ。一体、どういう字を書くのかも分からない。聞いてもいないことをぺらぺらと話す多弁な店主によると、このシャオレイなる菓子は海の向こうでは、とても人気であるらしい。一体、どのような味がするのだろう。シャオレイを凝視したまま動きのない私に、店主が痺れを切らした。
「お客さん、買うの? 買わないの? どっち?」
「あ……じゃあ、小さめの袋を一つ」
「お買い上げ、どうも」
シャオレイの欠片が五つほど入れられた小袋を受け取り、指定された金額を払う。随分と高価で一瞬、面食らってしまったのだが、海の向こうからやってきたものであれば、それくらいするものなのかもしれないと納得して支払った。状態の悪い欠片だけでその値段であるのなら、状態の良いものは一体いくらなのか。それらはきっと、貴族や王族といった尊い人々が買うのだろうな、などと少し考えた。その小袋を両手で包みながら、レンにここで待っているようにと言われた木のもとへと戻る。しかし、レンはまだ帰ってきていなかった。
掌の中の小袋をそっと開けて、シャオレイの香りを嗅ぐと、私を魅了して引き寄せたあの匂いがする。欠片をひとつ摘まんでみて、その感触が想像以上に固いものであったことを知った。鼻先に欠片を近づけてしっかりと匂いを嗅ぎ、それを口の近くへと運ぶ。恐る恐るといった形になってしまっているとは思うが、心は興奮しており、シャオレイを味わうことを体は楽しみにしていた。いざ、食べてみよう。
けれど、シャオレイは私の口には到達しなかった。手首が掴まれている。海の向こうの菓子を摘まんだ私の指先は、唇の寸前で止まっていた。
「毒味をしないと、駄目だよ」
声が聞こえた直後、目の前からシャオレイが消える。そして、私の指先は温かいものに包まれた。あまりにも突然のことで理解が追い付かないままだったのだが、それでも必死に現状を把握しようと頭が回転する。そして私の手首を掴み、私のシャオレイを食べたのがスイであると知った。
「形は不恰好だけど、味は悪くない。前に食べたやつよりも美味いかも。これは食べても大丈夫そうだよ、兄さん」
私と似たような笠を被り、素顔を隠しているスイ。彼の顔も、このルーフェイでは広く知られているため、明るい時間に外を歩くときは笠が必要であるようだ。そんな笠を少しずらして、にこりと微笑みながらスイが私を見ている。周囲にスイの護衛の姿はないが、それでも遠巻きにスイを見守っていることだろう。
シャオレイという菓子は、どうやら溶ける速度が速いようで、泥のようなものが私の指先についていた。そんなシャオレイの泥を、スイの舌先が舐めて取る。私の指先は、驚きのために少し震えてしまったのだが、そんな私の反応を見たスイは、悪戯が成功した子供のように笑っていた。
「……スイ、どうしてこんなところに?」
「ハイリの方に用事があってね。出掛けたついでに、こっちの賑わいを見に来たんだよ」
「スイは屋敷の外に出て、仕事をすることが多いんだね」
「そうかもしれないね。頭目だ何だと祀り上げられても、その実、俺は役人より動き回って働いてるんだ」
「大変だね」
仕事というのは、当然、真っ当なものではないのだろう。スイは、背の者なのだ。後ろめたい仕事に違いない。それでも、仕事のことを語るスイの表情は朗らかで、とても健全なものに見える。それが私には、歪であるように感じるのだ。もっと、心の底から応援出来るような仕事であればいいのに、と願わずにはいられない。大変だね、と声をかけながらも、スイの仕事が全てなくなってしまえばいいのにと心の中で思っていた。
「ちょっと疲れていたんだけど、兄さんが労ってくれるなら、元気が出るかも」
私の手首を掴みながら、スイが甘えるようにそう言った。スイを見上げる私と、私を見下ろすスイ。互いの距離が近いため、双方の笠と笠とがぶつかって、少しずれてしまっている。今、ここにいるスイはバイユエの頭目ではなく、仕事に疲れて兄に甘えているだけの弟だった。弟の可愛いらしい姿を見ることが出来て、私は幸せな気持ちになる。どれほど正しくない道を進んでいても、スイのその本質が変わることはない。私にとって、愛しい弟である事実が覆ることはないのだ。
「スイはお仕事を頑張っていて、偉いね」
シャオレイの小袋を掴んでいない方の手を伸ばし、スイの頬に掌を当てる。もちもちとしていて、とても肌触りがいい。親指でそっと目元を撫でれば、スイが嬉しそうに笑っていた。ずっとずっと、スイが笑顔でいてくれたらいいのに。怖い顔をせず、怖いことをせず。優しくて、明るい弟のままでいてくれたらいいのに。そう祈りながら、私もスイと同じように笑った。
私の笑みを見た直後、スイが驚いたように目を丸くする。互いに微笑み合うという光景が、どうやらスイにとっては驚愕の対象であったらしい。けれどもすぐスイのおもてに浮かぶものは笑みに戻り、私の手首を掴んでいた手が私から離れていくと、そのままの流れで私の腰の後ろに回った。そして、スイが作る両腕の輪の中に、私はすっぽりと収まる。随分と距離が近く、心が落ち着かないのだが、それでもスイがにこにことして楽しそうなので、好きなようにさせてあげようと身を委ねた。
「兄さんは? どうしてチャオヤンに?」
「私は……、えっと、絵の題材を……探しに」
裏の稼業とはいえ、昼間からあくせくと働いている弟に対し、私は絵を描くための題材を探しにふらふらと出歩いている。物見遊山に等しい行為だ。大の大人が働きもせず、家に引きこもって絵ばかり描いている。その上、絵だけで己を食わせていくことすら出来ない。生活のために必要なお金は全て、スイからもらっているのだ。そんな兄を、スイはどう思っているのだろうか。少しばかりの後ろめたさと恥ずかしさで、口ごもってしまった。
「そっか。良い題材が見つかるといいね」
スイから齎されたその返答に、あっけにとられてしまう。私自身は、己の体たらくに羞恥心を抱いてすらいるというのに、弟は私を応援するような言葉をかけてくれたのだ。上辺だけの言葉ではなく、心の底からそう思っているのだという気持ちが伝わってくる。スイの優しさに触れて感動していると、弟の手が私の腰の周りから離れた。そして、私が握り続けているシャオレイの小袋に、スイの指先が向かう。
「兄さんも食べなよ」
スイの突然の出現に驚いて、あれほど楽しみにしていたシャオレイを味わうことをすっかり忘れてしまっていた。どうやら、スイはこのシャオレイを食べたことがあるようで、物珍しさは感じていないようだ。袋の中からひとかけらを摘まんだスイが、シャオレイを私に向けて差し出す。それを見て私は、食べる時に髪が邪魔にならないよう、顔の横に垂れる髪を耳にかけ、スイの指先ごとシャオレイを口の中に入れた。先ほどのスイのように。
「まさか……、兄さんがそうやって食べるとは」
「え? あっ、え、えっと……ごめん。普通に手で受け取れば良かったんだね」
この食べ方は、決して行儀が良い食べ方ではない。幼い子であれば、母親の手ずから食べることもあるだろうが、私もスイも、もう立派な大人なのだ。百歩譲って、弟であるスイは兄である私の手から食べることが許されるかもしれないが、その逆は罷り通らない。己のしでかしたことを恥じながら、慌てて詫びる。
「謝らないで、兄さん。俺の指から直接食べてくれて嬉しいよ。ねぇ、もう一つ食べる?」
楽しそうににこにことしている弟は、とても可愛い。普段の私は、スイに対して畏怖を抱き、びくびくしているというのに、今この瞬間のスイは少しも怖くない。きっとこれが、スイの本来の姿なのだ。年相応に笑って、悪戯めいたことをして。スイは、そういう弟なのだ。ずっとずっと、このスイを見ていたい。背の者の王などと呼ばれ、人々から恐怖の感情を向けられる男ではなく、私の大切な弟を、見ていたいのだ。
シャオレイを摘まむスイの指先に、己の口元を近づける。口を開いたところで、スイの指が中へとやってきて私の口の中に甘い甘い菓子を置いていった。どういうわけか、いつまでもスイの指先が私の口から出て行かないものだから、思わず、口を閉じる過程でスイの指を嚙んでしまった。弟の指を口に含む兄、という奇怪な構図だが、随分とスイは嬉しそうに笑っている。
「兄さんに指、食べられちゃった」
この子が、悪戯の成功を喜ぶだけの弟でいられたのなら、私もいつだって、ただの兄として振舞えたのだろう。思わず考えてしまう。私たちが、背の者の血筋でさえなければ、と。スイに、背の者としての素質がなければ。もしくは、私が弟の代わりに全てを背負えるほどに強ければ。何か一つでも違っていたら、私たちはもっと普通の兄弟として過ごすことが出来たのだろう。きっと私たちは、生まれ方を間違えたのだ。
眼前の喧騒へと目をやる。その群衆は、まるでひとつの生き物であるかのように蠢いていた。それでも、じっくりと目を凝らせば、一人一人の表情や仕草、感情までも捉えることが出来る。気付いた時には、懐から紙と小筆を取り出し、その景色を絵の中に留めようとする自分がいた。普段、人物画はあまり描かない。専ら、風景を描いている。だというのに今は、この雑踏の熱気に圧倒され、翻弄されるように筆を走らせていた。
荒々しい写生ではあるが、墨の一色で人々の奔流を描き切る。何もなかった白い空間に、私の筆が世界を構築していくというのは、いつでも私の心を高鳴らせるのだ。だが、躍起になる手とは裏腹に再び腹が、ぐぅと情けない音を放った。一体どれほど私は飢えているのかと恥ずかしさを感じながら呆れる。周りを見渡しても、レンの姿はまだ見えない。どこまで行ったのだろうと、レンを探してきょろきょろとする私の鼻を刺激する不思議な香りがあった。空腹だったからか、はたまた、その香りに魅了されたのか、私はここで待っているようにというレンの言いつけを破って、ふらふらと歩き出してしまう。
嗅いだことのない香りだ。深みがあって、香ばしいようで。それでいて、とても甘い。だが、果実の持つ甘さではなく、どちらかというと飴のような感じ。得体の知れないそれに引き寄せられ辿り着いた先には、見たこともないものが並んでいた。私はそれを凝視する。先ほどまでいた木のそばから少し離れた場所の、露店が続く一画の中のひとつの店先で、私はそれと出会ったのだ。
「お客さん、お一ついかがですか?」
そう言って店主が勧めてきたのは、薄い木炭のようなものだった。私が追いかけてきた匂いは、確かにこれから放たれている。だというのに、これが何なのかがさっぱり分からない。いい香りのする木だろうか。泥を固めてつくった薄い粘土に見えなくもない。あれこれと、これの正体を考えては見るが、どれも正解からは程遠いように思えた。観念して店主に問いかける。
「あの、これ……なんですか?」
「これは菓子ですよ、海の向こうからやってきた菓子。形が良いものは全部、お得意様に売っちまったんで、ここにあるのは欠片ばっかですけどね、ちゃんと味は一緒なんで。甘くて美味しいですよ。ぜひぜひ」
随分とお喋りな店主のようで、たくさんの情報を与えてくれた。どうやらこれは菓子であるらしい。飴のように感じていた私の鼻は、あながち間違っていなかったというわけだ。色々な大きさの袋の中に入れられているそれらは、形の悪い状態だという。確かに、不揃いであったり、部分的に欠けているものばかりだ。
匂いの甘さでいえば、菓子であることにも納得なのだが、どうにも見た目が私の知る菓子という存在とは程遠いため、少しばかり疑ってしまう。インチキな商売をして、この国の人にとって見慣れないものを菓子と偽り、売りさばいているのでは、と勘繰ってしまった。得体の知れない菓子について理解を深めるためにも、私は店主に再び尋ねる。
「名前は何と言うんですか?」
「名前? えーっと、何だったかな。あちらさんの言葉はよく分からねぇんですよ……確か、チョ……いや、シャ……シャオ……レイ? だったかな?」
「シャオレイ……ですか?」
「えぇ、えぇ。確か、そんなんです」
シャオレイ。全く聞き覚えのない言葉だ。一体、どういう字を書くのかも分からない。聞いてもいないことをぺらぺらと話す多弁な店主によると、このシャオレイなる菓子は海の向こうでは、とても人気であるらしい。一体、どのような味がするのだろう。シャオレイを凝視したまま動きのない私に、店主が痺れを切らした。
「お客さん、買うの? 買わないの? どっち?」
「あ……じゃあ、小さめの袋を一つ」
「お買い上げ、どうも」
シャオレイの欠片が五つほど入れられた小袋を受け取り、指定された金額を払う。随分と高価で一瞬、面食らってしまったのだが、海の向こうからやってきたものであれば、それくらいするものなのかもしれないと納得して支払った。状態の悪い欠片だけでその値段であるのなら、状態の良いものは一体いくらなのか。それらはきっと、貴族や王族といった尊い人々が買うのだろうな、などと少し考えた。その小袋を両手で包みながら、レンにここで待っているようにと言われた木のもとへと戻る。しかし、レンはまだ帰ってきていなかった。
掌の中の小袋をそっと開けて、シャオレイの香りを嗅ぐと、私を魅了して引き寄せたあの匂いがする。欠片をひとつ摘まんでみて、その感触が想像以上に固いものであったことを知った。鼻先に欠片を近づけてしっかりと匂いを嗅ぎ、それを口の近くへと運ぶ。恐る恐るといった形になってしまっているとは思うが、心は興奮しており、シャオレイを味わうことを体は楽しみにしていた。いざ、食べてみよう。
けれど、シャオレイは私の口には到達しなかった。手首が掴まれている。海の向こうの菓子を摘まんだ私の指先は、唇の寸前で止まっていた。
「毒味をしないと、駄目だよ」
声が聞こえた直後、目の前からシャオレイが消える。そして、私の指先は温かいものに包まれた。あまりにも突然のことで理解が追い付かないままだったのだが、それでも必死に現状を把握しようと頭が回転する。そして私の手首を掴み、私のシャオレイを食べたのがスイであると知った。
「形は不恰好だけど、味は悪くない。前に食べたやつよりも美味いかも。これは食べても大丈夫そうだよ、兄さん」
私と似たような笠を被り、素顔を隠しているスイ。彼の顔も、このルーフェイでは広く知られているため、明るい時間に外を歩くときは笠が必要であるようだ。そんな笠を少しずらして、にこりと微笑みながらスイが私を見ている。周囲にスイの護衛の姿はないが、それでも遠巻きにスイを見守っていることだろう。
シャオレイという菓子は、どうやら溶ける速度が速いようで、泥のようなものが私の指先についていた。そんなシャオレイの泥を、スイの舌先が舐めて取る。私の指先は、驚きのために少し震えてしまったのだが、そんな私の反応を見たスイは、悪戯が成功した子供のように笑っていた。
「……スイ、どうしてこんなところに?」
「ハイリの方に用事があってね。出掛けたついでに、こっちの賑わいを見に来たんだよ」
「スイは屋敷の外に出て、仕事をすることが多いんだね」
「そうかもしれないね。頭目だ何だと祀り上げられても、その実、俺は役人より動き回って働いてるんだ」
「大変だね」
仕事というのは、当然、真っ当なものではないのだろう。スイは、背の者なのだ。後ろめたい仕事に違いない。それでも、仕事のことを語るスイの表情は朗らかで、とても健全なものに見える。それが私には、歪であるように感じるのだ。もっと、心の底から応援出来るような仕事であればいいのに、と願わずにはいられない。大変だね、と声をかけながらも、スイの仕事が全てなくなってしまえばいいのにと心の中で思っていた。
「ちょっと疲れていたんだけど、兄さんが労ってくれるなら、元気が出るかも」
私の手首を掴みながら、スイが甘えるようにそう言った。スイを見上げる私と、私を見下ろすスイ。互いの距離が近いため、双方の笠と笠とがぶつかって、少しずれてしまっている。今、ここにいるスイはバイユエの頭目ではなく、仕事に疲れて兄に甘えているだけの弟だった。弟の可愛いらしい姿を見ることが出来て、私は幸せな気持ちになる。どれほど正しくない道を進んでいても、スイのその本質が変わることはない。私にとって、愛しい弟である事実が覆ることはないのだ。
「スイはお仕事を頑張っていて、偉いね」
シャオレイの小袋を掴んでいない方の手を伸ばし、スイの頬に掌を当てる。もちもちとしていて、とても肌触りがいい。親指でそっと目元を撫でれば、スイが嬉しそうに笑っていた。ずっとずっと、スイが笑顔でいてくれたらいいのに。怖い顔をせず、怖いことをせず。優しくて、明るい弟のままでいてくれたらいいのに。そう祈りながら、私もスイと同じように笑った。
私の笑みを見た直後、スイが驚いたように目を丸くする。互いに微笑み合うという光景が、どうやらスイにとっては驚愕の対象であったらしい。けれどもすぐスイのおもてに浮かぶものは笑みに戻り、私の手首を掴んでいた手が私から離れていくと、そのままの流れで私の腰の後ろに回った。そして、スイが作る両腕の輪の中に、私はすっぽりと収まる。随分と距離が近く、心が落ち着かないのだが、それでもスイがにこにことして楽しそうなので、好きなようにさせてあげようと身を委ねた。
「兄さんは? どうしてチャオヤンに?」
「私は……、えっと、絵の題材を……探しに」
裏の稼業とはいえ、昼間からあくせくと働いている弟に対し、私は絵を描くための題材を探しにふらふらと出歩いている。物見遊山に等しい行為だ。大の大人が働きもせず、家に引きこもって絵ばかり描いている。その上、絵だけで己を食わせていくことすら出来ない。生活のために必要なお金は全て、スイからもらっているのだ。そんな兄を、スイはどう思っているのだろうか。少しばかりの後ろめたさと恥ずかしさで、口ごもってしまった。
「そっか。良い題材が見つかるといいね」
スイから齎されたその返答に、あっけにとられてしまう。私自身は、己の体たらくに羞恥心を抱いてすらいるというのに、弟は私を応援するような言葉をかけてくれたのだ。上辺だけの言葉ではなく、心の底からそう思っているのだという気持ちが伝わってくる。スイの優しさに触れて感動していると、弟の手が私の腰の周りから離れた。そして、私が握り続けているシャオレイの小袋に、スイの指先が向かう。
「兄さんも食べなよ」
スイの突然の出現に驚いて、あれほど楽しみにしていたシャオレイを味わうことをすっかり忘れてしまっていた。どうやら、スイはこのシャオレイを食べたことがあるようで、物珍しさは感じていないようだ。袋の中からひとかけらを摘まんだスイが、シャオレイを私に向けて差し出す。それを見て私は、食べる時に髪が邪魔にならないよう、顔の横に垂れる髪を耳にかけ、スイの指先ごとシャオレイを口の中に入れた。先ほどのスイのように。
「まさか……、兄さんがそうやって食べるとは」
「え? あっ、え、えっと……ごめん。普通に手で受け取れば良かったんだね」
この食べ方は、決して行儀が良い食べ方ではない。幼い子であれば、母親の手ずから食べることもあるだろうが、私もスイも、もう立派な大人なのだ。百歩譲って、弟であるスイは兄である私の手から食べることが許されるかもしれないが、その逆は罷り通らない。己のしでかしたことを恥じながら、慌てて詫びる。
「謝らないで、兄さん。俺の指から直接食べてくれて嬉しいよ。ねぇ、もう一つ食べる?」
楽しそうににこにことしている弟は、とても可愛い。普段の私は、スイに対して畏怖を抱き、びくびくしているというのに、今この瞬間のスイは少しも怖くない。きっとこれが、スイの本来の姿なのだ。年相応に笑って、悪戯めいたことをして。スイは、そういう弟なのだ。ずっとずっと、このスイを見ていたい。背の者の王などと呼ばれ、人々から恐怖の感情を向けられる男ではなく、私の大切な弟を、見ていたいのだ。
シャオレイを摘まむスイの指先に、己の口元を近づける。口を開いたところで、スイの指が中へとやってきて私の口の中に甘い甘い菓子を置いていった。どういうわけか、いつまでもスイの指先が私の口から出て行かないものだから、思わず、口を閉じる過程でスイの指を嚙んでしまった。弟の指を口に含む兄、という奇怪な構図だが、随分とスイは嬉しそうに笑っている。
「兄さんに指、食べられちゃった」
この子が、悪戯の成功を喜ぶだけの弟でいられたのなら、私もいつだって、ただの兄として振舞えたのだろう。思わず考えてしまう。私たちが、背の者の血筋でさえなければ、と。スイに、背の者としての素質がなければ。もしくは、私が弟の代わりに全てを背負えるほどに強ければ。何か一つでも違っていたら、私たちはもっと普通の兄弟として過ごすことが出来たのだろう。きっと私たちは、生まれ方を間違えたのだ。
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