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第八章 尭天舜日
桃夭
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北の騎馬民族の強さは、人馬一体となって縦横無尽に野を駆ける機動力の高さと卓越した騎射能力によるものだった。龔鴑の子供は幼い頃から羊に騎り、鳥や小動物を射って遊ぶ。成長するに従い、当たり前に馬と共に狩猟をして過ごす日常が既に軍事演習を兼ねている。
そうした騎射に優れた騎兵と、隆々たる血統の馬で構成される騎馬軍団に太刀打ちができる軍を帝国側は保持していない。来襲に備えはするものの、国境地帯のどの領主も龔鴑に攻め入ることができる能力はない。
私は奕世さえ皇帝側に手を出さなければ、皇帝側がそんな無謀な戦争をしかけることはないと思っていた。
銀蓮の言うとおり、蔡北の私兵は助けに来るかもしれないが、草原で騎馬民族に対して攻め入れるわけがなかった。私はそうやって想像を張り巡らすも、奕世が外でどんな戦いをしているかを全く知らない。
奕世は屋敷を離れることも多く、遠征に行っているのも間違いなかったが、私は戦況を知らされることはなかった。ただ、私との約束を守っているなら、南下を自ら仕掛けているわけでは無いのだろう。
銀蓮と私は暖かく守られた屋敷でただ命を育んでいれば良かった。とっくに長く厳しい凍てつく冬がきていた。この時期に戦など仕掛ける者はいない。厚く張ったテントの外に一晩いたら、ただそれだけで死ぬ寒さだ。屋敷の竈門の火は絶やさず燃やされ、煙が床下を通り、高床は常に暖かく保たれている。
私と銀蓮はもう腹が大きくなっていた。
「我が子は新年に産まれてくるのか」
奕世が私のお腹に耳をつけて、ゆっくりとお腹を撫でた。胎児が腹を蹴る。とても元気だ。
「随分な暴れん坊のようだ、きっと男の子が産まれる」
そう言って笑う奕世の髪を私は撫でる。
泣き出してしまいそう。私の表情に気がついて、奕世は私に問いかける。
「なぜ、そんな目をするのだ」
「あなたが守ってくれて、安心してこの子を産めるのが嬉しいの。幸せにしてくれてありがとう」
「まだ、これからいくらでも幸せにしてやりたい。お前が望むことは何でもしてやる」
奕世は羊のスープの入った壺を運んでくる。匙で掬うと私の口元に運んでくる。
「まあ、まずは湯を飲んで滋養をつけろ。寒くは無いか」
彼が差し出す匙から、私はスープを飲んで笑った。彼も笑った。
「銀蓮にも同じスープは届けてあるが、ひどく痩せたから心配だ」
奕世の言うとおり、銀蓮は悪阻がひどく、食べるもの全てを吐き戻したりして、床についたままの日が多かった。屋敷には銀蓮の世話をする小間使いたちが増えたが、仲睦まじい私と奕世と、奕世が寄り付かず、小間使いともほとんど会話をしない銀蓮の部屋は同じ温度に保たれていても、温度差があるように思えた。
銀蓮は、もしかしたら私と違って本当は信じていたのかもしれない。手紙に逆らって小龍は迎えにくると。皇帝陛下が来なくても、銀将軍は助けに来ると。
臨月を迎え、銀蓮は随分と早く産気づいた。大変な難産だったが、無事子は産まれた。女の子である。銀蓮によく似ている。強い眼差しが小龍に似てるようにも見えたし、先王にも似てるようにも見えた。実際に子供が産まれてもどちらの子かわからなかった。ただ時期的なもので、銀蓮は先王の子だと思っているようだ。もちろん対外的には、奕世の娘に違いなかった。王女であることに、奕世は胸を撫で下ろしているようだった。私の子と跡目の争いをさせたくなかったからだろう。
私も出産するまで、奕世と過ごしたかったけれど。子供を産んだ銀蓮の部屋に奕世は行かなければならなかった。召使いたちが増えたら噂がどう流れるかはわからない。銀蓮の立場の為にも全く奕世が彼女を顧みていないとは思わせたく無い。
奕世は労いの言葉をかけ、側で夜を過ごしたそうだ。同じ屋敷にいても、伝聞しかない。そんなことと言われるかもしれないが、私は本当はすごく嫌だった。銀蓮のことは私が頼んだはずだけれど、奕世が銀蓮を気遣うたびに心がざわついた。産まれた王女のことも聞きたくない。
私だけを見てほしい。
自分がおかしいって分かっていても、奕世が銀蓮を訪問した夜は、嫉妬心を止めることが出来なかった。一睡も出来なかった。
奕世は娘が生まれてから、頻繁に銀蓮を訪問するようになった。
奕世がいない夜。同じ屋敷にいるのに私はまだ銀蓮とその子には会いに行けなくて、そんな中で産気づいた。私も大変な難産で、新年の暁と共に産まれたのは男の子だった。私は死の淵を彷徨っていたらしく、次に目覚めたのは子供が産まれてから、既に3日たっていて、目覚めた時銀蓮が私の子を抱いて乳をあげていた。
「…出てって…ッ…」
高床から私は叫んだけれど、掠れた声しか出なかった。ひと月ぶりに会う銀蓮だった。
「私の子に…勝手にさわらないで…」
純粋な怒りだった、召使の老女が私が3日間眠っていたせいだと説明したけれど、理屈じゃなかった。
私の子は私が最初に抱きたい。奕世に抱いてほしい。私の乳をあげたい。なぜ、銀蓮が私たちの部屋で私の子を盗んでいるの!?理屈は分かるけど、私は耐えきれず喚いた。
そして、奕世は部屋にいなかった。何故来てくれないのか、私の寝ている間に来たのか、来ていないのか。分からない。分からない。
私は召使が差し出す重湯を飲み、子を抱いて乳を含ませる。可愛い。何もかもが柔らかく、大切にあつかわなければ壊れてしまいそうだ。
奕世が来ないことに不安しかない。
「奕世はどこ?」
「大王殿下は遠征へ行かれました」
そんなわけない。なぜ、この冬の今遠征に行ったの?産まれた子の顔も見ないままで。不安な私の気持ちとは対照的に、子はすやすやと寝息を立てる。
こんなに愛らしい生き物を見たことがない。愛してる。私の子を愛してる。私も体力の限界だった。召使が私の子を抱き上げ揺籠にうつす。私は意識が遠くなっていった。
そうした騎射に優れた騎兵と、隆々たる血統の馬で構成される騎馬軍団に太刀打ちができる軍を帝国側は保持していない。来襲に備えはするものの、国境地帯のどの領主も龔鴑に攻め入ることができる能力はない。
私は奕世さえ皇帝側に手を出さなければ、皇帝側がそんな無謀な戦争をしかけることはないと思っていた。
銀蓮の言うとおり、蔡北の私兵は助けに来るかもしれないが、草原で騎馬民族に対して攻め入れるわけがなかった。私はそうやって想像を張り巡らすも、奕世が外でどんな戦いをしているかを全く知らない。
奕世は屋敷を離れることも多く、遠征に行っているのも間違いなかったが、私は戦況を知らされることはなかった。ただ、私との約束を守っているなら、南下を自ら仕掛けているわけでは無いのだろう。
銀蓮と私は暖かく守られた屋敷でただ命を育んでいれば良かった。とっくに長く厳しい凍てつく冬がきていた。この時期に戦など仕掛ける者はいない。厚く張ったテントの外に一晩いたら、ただそれだけで死ぬ寒さだ。屋敷の竈門の火は絶やさず燃やされ、煙が床下を通り、高床は常に暖かく保たれている。
私と銀蓮はもう腹が大きくなっていた。
「我が子は新年に産まれてくるのか」
奕世が私のお腹に耳をつけて、ゆっくりとお腹を撫でた。胎児が腹を蹴る。とても元気だ。
「随分な暴れん坊のようだ、きっと男の子が産まれる」
そう言って笑う奕世の髪を私は撫でる。
泣き出してしまいそう。私の表情に気がついて、奕世は私に問いかける。
「なぜ、そんな目をするのだ」
「あなたが守ってくれて、安心してこの子を産めるのが嬉しいの。幸せにしてくれてありがとう」
「まだ、これからいくらでも幸せにしてやりたい。お前が望むことは何でもしてやる」
奕世は羊のスープの入った壺を運んでくる。匙で掬うと私の口元に運んでくる。
「まあ、まずは湯を飲んで滋養をつけろ。寒くは無いか」
彼が差し出す匙から、私はスープを飲んで笑った。彼も笑った。
「銀蓮にも同じスープは届けてあるが、ひどく痩せたから心配だ」
奕世の言うとおり、銀蓮は悪阻がひどく、食べるもの全てを吐き戻したりして、床についたままの日が多かった。屋敷には銀蓮の世話をする小間使いたちが増えたが、仲睦まじい私と奕世と、奕世が寄り付かず、小間使いともほとんど会話をしない銀蓮の部屋は同じ温度に保たれていても、温度差があるように思えた。
銀蓮は、もしかしたら私と違って本当は信じていたのかもしれない。手紙に逆らって小龍は迎えにくると。皇帝陛下が来なくても、銀将軍は助けに来ると。
臨月を迎え、銀蓮は随分と早く産気づいた。大変な難産だったが、無事子は産まれた。女の子である。銀蓮によく似ている。強い眼差しが小龍に似てるようにも見えたし、先王にも似てるようにも見えた。実際に子供が産まれてもどちらの子かわからなかった。ただ時期的なもので、銀蓮は先王の子だと思っているようだ。もちろん対外的には、奕世の娘に違いなかった。王女であることに、奕世は胸を撫で下ろしているようだった。私の子と跡目の争いをさせたくなかったからだろう。
私も出産するまで、奕世と過ごしたかったけれど。子供を産んだ銀蓮の部屋に奕世は行かなければならなかった。召使いたちが増えたら噂がどう流れるかはわからない。銀蓮の立場の為にも全く奕世が彼女を顧みていないとは思わせたく無い。
奕世は労いの言葉をかけ、側で夜を過ごしたそうだ。同じ屋敷にいても、伝聞しかない。そんなことと言われるかもしれないが、私は本当はすごく嫌だった。銀蓮のことは私が頼んだはずだけれど、奕世が銀蓮を気遣うたびに心がざわついた。産まれた王女のことも聞きたくない。
私だけを見てほしい。
自分がおかしいって分かっていても、奕世が銀蓮を訪問した夜は、嫉妬心を止めることが出来なかった。一睡も出来なかった。
奕世は娘が生まれてから、頻繁に銀蓮を訪問するようになった。
奕世がいない夜。同じ屋敷にいるのに私はまだ銀蓮とその子には会いに行けなくて、そんな中で産気づいた。私も大変な難産で、新年の暁と共に産まれたのは男の子だった。私は死の淵を彷徨っていたらしく、次に目覚めたのは子供が産まれてから、既に3日たっていて、目覚めた時銀蓮が私の子を抱いて乳をあげていた。
「…出てって…ッ…」
高床から私は叫んだけれど、掠れた声しか出なかった。ひと月ぶりに会う銀蓮だった。
「私の子に…勝手にさわらないで…」
純粋な怒りだった、召使の老女が私が3日間眠っていたせいだと説明したけれど、理屈じゃなかった。
私の子は私が最初に抱きたい。奕世に抱いてほしい。私の乳をあげたい。なぜ、銀蓮が私たちの部屋で私の子を盗んでいるの!?理屈は分かるけど、私は耐えきれず喚いた。
そして、奕世は部屋にいなかった。何故来てくれないのか、私の寝ている間に来たのか、来ていないのか。分からない。分からない。
私は召使が差し出す重湯を飲み、子を抱いて乳を含ませる。可愛い。何もかもが柔らかく、大切にあつかわなければ壊れてしまいそうだ。
奕世が来ないことに不安しかない。
「奕世はどこ?」
「大王殿下は遠征へ行かれました」
そんなわけない。なぜ、この冬の今遠征に行ったの?産まれた子の顔も見ないままで。不安な私の気持ちとは対照的に、子はすやすやと寝息を立てる。
こんなに愛らしい生き物を見たことがない。愛してる。私の子を愛してる。私も体力の限界だった。召使が私の子を抱き上げ揺籠にうつす。私は意識が遠くなっていった。
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