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第7話「本音の衝突」
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第7話「本音の衝突」
◆ 1 積み重なった重さ
春先の雨は、静かに部屋を湿らせる。
しとしとという音が、まるで胸の中のざわつきを映すように続いていた。
「はるちゃん、今日……会えない?」
由紀子からの電話は、声だけで疲労がわかった。
呼吸は途切れ、言葉は低く沈んでいる。
「もちろん。どこで待ち合わせする?」
「……うちに来て。外に出る気力、ないの」
「わかった。すぐ行くね」
電話を切ったあと、胸がざわりと揺れた。
こんなことは今までなかった。
雨音だけが、部屋に取り残された私の背中を押した。
◆ 2 由紀子の家の空気
玄関の扉が開いた瞬間、
湿った空気と薬品の匂いが混じったような、重い空気が流れ出た。
「……由紀子」
リビングのソファに座る彼女は、やつれたように見えた。
以前はきちんと結んでいた髪も、今日は乱れている。
「ごめんね……散らかってて」
「いいよ。そんなことより……顔色、大丈夫?」
「大丈夫なわけないでしょ」
かすれた声が落ちた。
夫は奥の部屋で眠っているらしく、
微かな寝息だけが聞こえる。
「夜中に何度も起きて……食事も排泄も全部私。
息子は遠くで“仕事が忙しいから”って。
ねえ、はるちゃん……私、いつまでこれ続くの?」
「……ごめん。私、気づけなくて」
「違うの。はるちゃんが悪いんじゃないのよ。
問題は……私が弱いってこと」
その言葉のあと、彼女は深く息を吐いた。
「でもね……聞いてよ」
声の色が変わった。
「この前、あなたが“お金が増えた”って話した日……
あれがずっと頭から離れなかったの」
胸がぎゅっと縮む。
「羨ましいとか……そんな単純な話じゃないの。
私はね……崩れそうな毎日の中で必死に呼吸してるのに……
あなたは、これから贅沢しようとしてる。
それが……眩しかったのよ」
「由紀子……」
「眩しくて、悔しくて……情けなくて……
あなたに近づくのが苦しかったの!」
叫ぶような声だった。
その瞬間、部屋の空気が破れた気がした。
雨音がさらに激しくなる。
「いいのよ……責めてくれて」
私は静かに言った。
「責めたいわけじゃないのよ!」
由紀子の目が潤む。
「ただ――苦しかったの。
あなたには、わからない。
裕福な人の気持ちなんて分からないわよ!?」
◆ 3 真澄の限界
そのとき、インターホンが鳴った。
「……真澄?」
ドアを開けると、真澄が立っていた。
肩は濡れ、目は真っ赤だった。
「はるちゃん……ここにいると思って……」
「どうしたの?」
「もう限界なの……!」
真澄は靴も脱がずに、泣きながら言った。
「娘が……またお金を……。
“離婚したんだから助けてよ!”って……
孫も泣いてるし……私だって苦しいのに……!」
「真澄……落ち着いて」
「落ち着けるわけないでしょう!?
お金がないの。通帳なんてもうスカスカ。
仕事だって再開できるかわからない。
なのに……あの日あなたの言葉を聞いて……」
視線が私に突き刺さる。
「“増えた”って……
あなたには、私たちの苦しみなんて分からないのよ!」
胸がひゅっと縮む。
「私……そんなつもりじゃ――」
「分かってる! 悪気がないことくらい分かってる!
でもね……あの日、私……眩しすぎて、あなたをまともに見られなかったの!」
雨が窓を叩く。
由紀子も泣いていた。
「……はるちゃん。
あなたはよく頑張った。でもね……
頑張ってもうまくいかない人生だってあるのよ!」
「由紀子……」
「あなたは自由で、お金もあって……
私たちは……ただ必死に毎日を乗り切ってるだけ。
なのに“幸せを分け合えない”って気づいたとき……
近づくのが、怖くなったの……!」
真澄も叫ぶ。
「私だって……本当は相談したかったのよ!
でも……“お金があるあなたに弱音を吐くのは惨めだ”って……
そう思ってしまったの!」
二人の声が重なり、部屋は泣き声でいっぱいだった。
◆ 4 遥の沈黙
私は何も言えなかった。
言葉が喉に貼り付いて、息さえできない。
「……はるちゃん?」
真澄が涙に濡れた目で言う。
その瞬間、頬を一筋の涙が伝った。
ぽたり、と膝に落ちる。
「ごめん……」
声が震える。
「気づけなかった……二人が……こんなに苦しんでたなんて……」
涙が次々にあふれた。
「私は……自分の幸せばかり見てたの。
通帳の数字ばかり追いかけて……
あなたたちの背中が遠ざかってることにも……気づけなかった……」
由紀子が顔を歪めた。
「違うの……悪いのは私なのよ……」
「違う! 悪いのは私よ……!」
真澄も泣きながら言う。
涙が三人の間に次々落ちて、
まるで溶けた感情が床に広がっていくようだった。
私は手の甲で涙をぬぐい、小さく呟いた。
「……ずっと怖かったんだ。
二人を失うのが……。
でも、その怖さをごまかして……
“使っていいよね”なんて……」
息が詰まり、言葉が途切れる。
「本当は……お金なんてどうでもよかったの。
二人と一緒に……歳を重ねていきたかっただけなのに……」
それを聞いた瞬間、
由紀子は口を手で押さえ、
真澄は視線を落として肩を震わせた。
◆ 5 雨音のなかで
しばらく誰も口を開かなかった。
外の雨は相変わらず強く、
窓ガラスを叩く音が、まるで世界が泣いているようだった。
「ねえ……」
由紀子がかすれた声で言った。
「今日……はるちゃんに全部言えて……正直、少し楽になったの」
「私も……」
真澄が続ける。
「本当は……ずっと会いたかった。
でも、近づくのが怖かったの」
「……ありがとう。言ってくれて」
涙でくぐもった声で、私は答えた。
「二人が怒ってくれて、悲しんでくれて……
本音を言ってくれたことが……
私にとっては、何より嬉しい」
由紀子はぼそりと言った。
「はるちゃんは……強いね」
「違うよ。弱いの。
だから……教えてほしかった。
二人が壊れそうだって……」
雨は少し弱まり、静かに降り続いた。
三人の間に漂っていた重たい壁が、
雨に溶け始めたように感じた。
でも――これは終わりではない。
長い時間をかけて育ってしまった影は、
まだ完全には消えていない。
ただ、確かに一歩だけ、
三人の心は近づいた。
涙で濡れた床の上で、
遥はそっと目を閉じた。
――本音は、ときには痛みを生む。
でも、本音こそが、人を繋ぎ直す唯一の糸なのかもしれない。
次は
📌 第8話「遥の決意」
◆ 1 積み重なった重さ
春先の雨は、静かに部屋を湿らせる。
しとしとという音が、まるで胸の中のざわつきを映すように続いていた。
「はるちゃん、今日……会えない?」
由紀子からの電話は、声だけで疲労がわかった。
呼吸は途切れ、言葉は低く沈んでいる。
「もちろん。どこで待ち合わせする?」
「……うちに来て。外に出る気力、ないの」
「わかった。すぐ行くね」
電話を切ったあと、胸がざわりと揺れた。
こんなことは今までなかった。
雨音だけが、部屋に取り残された私の背中を押した。
◆ 2 由紀子の家の空気
玄関の扉が開いた瞬間、
湿った空気と薬品の匂いが混じったような、重い空気が流れ出た。
「……由紀子」
リビングのソファに座る彼女は、やつれたように見えた。
以前はきちんと結んでいた髪も、今日は乱れている。
「ごめんね……散らかってて」
「いいよ。そんなことより……顔色、大丈夫?」
「大丈夫なわけないでしょ」
かすれた声が落ちた。
夫は奥の部屋で眠っているらしく、
微かな寝息だけが聞こえる。
「夜中に何度も起きて……食事も排泄も全部私。
息子は遠くで“仕事が忙しいから”って。
ねえ、はるちゃん……私、いつまでこれ続くの?」
「……ごめん。私、気づけなくて」
「違うの。はるちゃんが悪いんじゃないのよ。
問題は……私が弱いってこと」
その言葉のあと、彼女は深く息を吐いた。
「でもね……聞いてよ」
声の色が変わった。
「この前、あなたが“お金が増えた”って話した日……
あれがずっと頭から離れなかったの」
胸がぎゅっと縮む。
「羨ましいとか……そんな単純な話じゃないの。
私はね……崩れそうな毎日の中で必死に呼吸してるのに……
あなたは、これから贅沢しようとしてる。
それが……眩しかったのよ」
「由紀子……」
「眩しくて、悔しくて……情けなくて……
あなたに近づくのが苦しかったの!」
叫ぶような声だった。
その瞬間、部屋の空気が破れた気がした。
雨音がさらに激しくなる。
「いいのよ……責めてくれて」
私は静かに言った。
「責めたいわけじゃないのよ!」
由紀子の目が潤む。
「ただ――苦しかったの。
あなたには、わからない。
裕福な人の気持ちなんて分からないわよ!?」
◆ 3 真澄の限界
そのとき、インターホンが鳴った。
「……真澄?」
ドアを開けると、真澄が立っていた。
肩は濡れ、目は真っ赤だった。
「はるちゃん……ここにいると思って……」
「どうしたの?」
「もう限界なの……!」
真澄は靴も脱がずに、泣きながら言った。
「娘が……またお金を……。
“離婚したんだから助けてよ!”って……
孫も泣いてるし……私だって苦しいのに……!」
「真澄……落ち着いて」
「落ち着けるわけないでしょう!?
お金がないの。通帳なんてもうスカスカ。
仕事だって再開できるかわからない。
なのに……あの日あなたの言葉を聞いて……」
視線が私に突き刺さる。
「“増えた”って……
あなたには、私たちの苦しみなんて分からないのよ!」
胸がひゅっと縮む。
「私……そんなつもりじゃ――」
「分かってる! 悪気がないことくらい分かってる!
でもね……あの日、私……眩しすぎて、あなたをまともに見られなかったの!」
雨が窓を叩く。
由紀子も泣いていた。
「……はるちゃん。
あなたはよく頑張った。でもね……
頑張ってもうまくいかない人生だってあるのよ!」
「由紀子……」
「あなたは自由で、お金もあって……
私たちは……ただ必死に毎日を乗り切ってるだけ。
なのに“幸せを分け合えない”って気づいたとき……
近づくのが、怖くなったの……!」
真澄も叫ぶ。
「私だって……本当は相談したかったのよ!
でも……“お金があるあなたに弱音を吐くのは惨めだ”って……
そう思ってしまったの!」
二人の声が重なり、部屋は泣き声でいっぱいだった。
◆ 4 遥の沈黙
私は何も言えなかった。
言葉が喉に貼り付いて、息さえできない。
「……はるちゃん?」
真澄が涙に濡れた目で言う。
その瞬間、頬を一筋の涙が伝った。
ぽたり、と膝に落ちる。
「ごめん……」
声が震える。
「気づけなかった……二人が……こんなに苦しんでたなんて……」
涙が次々にあふれた。
「私は……自分の幸せばかり見てたの。
通帳の数字ばかり追いかけて……
あなたたちの背中が遠ざかってることにも……気づけなかった……」
由紀子が顔を歪めた。
「違うの……悪いのは私なのよ……」
「違う! 悪いのは私よ……!」
真澄も泣きながら言う。
涙が三人の間に次々落ちて、
まるで溶けた感情が床に広がっていくようだった。
私は手の甲で涙をぬぐい、小さく呟いた。
「……ずっと怖かったんだ。
二人を失うのが……。
でも、その怖さをごまかして……
“使っていいよね”なんて……」
息が詰まり、言葉が途切れる。
「本当は……お金なんてどうでもよかったの。
二人と一緒に……歳を重ねていきたかっただけなのに……」
それを聞いた瞬間、
由紀子は口を手で押さえ、
真澄は視線を落として肩を震わせた。
◆ 5 雨音のなかで
しばらく誰も口を開かなかった。
外の雨は相変わらず強く、
窓ガラスを叩く音が、まるで世界が泣いているようだった。
「ねえ……」
由紀子がかすれた声で言った。
「今日……はるちゃんに全部言えて……正直、少し楽になったの」
「私も……」
真澄が続ける。
「本当は……ずっと会いたかった。
でも、近づくのが怖かったの」
「……ありがとう。言ってくれて」
涙でくぐもった声で、私は答えた。
「二人が怒ってくれて、悲しんでくれて……
本音を言ってくれたことが……
私にとっては、何より嬉しい」
由紀子はぼそりと言った。
「はるちゃんは……強いね」
「違うよ。弱いの。
だから……教えてほしかった。
二人が壊れそうだって……」
雨は少し弱まり、静かに降り続いた。
三人の間に漂っていた重たい壁が、
雨に溶け始めたように感じた。
でも――これは終わりではない。
長い時間をかけて育ってしまった影は、
まだ完全には消えていない。
ただ、確かに一歩だけ、
三人の心は近づいた。
涙で濡れた床の上で、
遥はそっと目を閉じた。
――本音は、ときには痛みを生む。
でも、本音こそが、人を繋ぎ直す唯一の糸なのかもしれない。
次は
📌 第8話「遥の決意」
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