『夫、赤ちゃん化しました。』

春秋花壇

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第3話 心の余裕ゼロ

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第3話 心の余裕ゼロ

その日は、朝からずっと泣きそうだった。

理由は特にない。
しいて言えば、寝不足と、肩こりと、腰の痛みと、終わらない洗濯と、
冷めたままの味噌汁と、シンクにたまった哺乳瓶と、
鏡に映った自分の顔がやけに老けて見えたこと。

全部足したら、泣く理由には十分だった。

「……よし……はい、飲もうね」

陽翔の口元に哺乳瓶の乳首を当てると、
小さな口が反射的に開く。
ちゅく、ちゅく、と音を立ててミルクを飲むたび、
ほっぺたが少しずつ動いて、そのたびに愛しさと疲労が胸をかき回した。

ソファの向こうでは、テレビからバラエティ番組の笑い声。
その前で航生が、クッションを抱えながら寝転んでいる。

「なあ、芽衣」

「なに」

「今日さ、いいとも的な番組でさ、
 “産後もラブラブな夫婦の秘訣”ってやってたんだけど」

「ふぅん」

陽翔の飲み具合を見ながら、適当に相槌を打つ。
まぶたが重くて、視界が滲む。

「スキンシップが大事なんだって。
 ハグとか、手つなぎとか、キスとか」

「……そうなんだ」

「うん。だからさ、あとでハグしよ?」

「今してれば?」

返した声が、思ったよりとげとげしかった。

航生が「え?」と首を傾げる。

「いや……なんか、最近俺たちって、
 完全に“育児ユニット”って感じじゃん。
 夫婦感、ゼロっていうか……」

私は答える代わりに、哺乳瓶の残量を見た。
あと少しだ。
飲み終わったらゲップをさせて、オムツを確認して――
頭の中でタスクを並べるだけで、呼吸が浅くなる。

「ねぇ、聞いてる?」

「聞いてるよ」

「じゃあさ、ちゃんと俺の方見て言ってくれない?」

「今、陽翔がこぼしそうなの」

「俺だってこぼれそうだよ」

「何が」

「いろいろ!」

声が少し大きくなって、陽翔がびくっとした。
小さな眉が寄って、口元が離れかける。

「ちょっと、声……」

「ごめんごめん」

航生は慌てて声をひそめた。

「でもさ、俺だって頑張ってるんだよ?
 仕事行って、おむつもたまに替えて、ミルクだって……」

「“たまに”って自分で言っちゃってるじゃん」

ピリッとした空気が、狭いリビングに広がる。

ミルクを飲み終えて、陽翔を肩に担ぐ。
背中をとんとんしながら歩いていると、
背筋にじわっと汗がにじんできた。

「……ふぅ……」

やっと出たゲップに安堵する間もなく、
腰にずしっと疲労が降りてくる。

ソファに座ろうとした瞬間、
航生が隣にずいっと寄ってきた。

「ねぇ、そのままさ、俺もそこ入っていい?」

「は?」

「ほら、陽翔ここで、俺ここ。
 家族三人でぎゅってなってさ――」

「暑い」

「まだ言い終わってない」

「言われなくてもわかる。暑い」

私の声が冷たくなるのと、
胸の奥がきゅっと締め付けられるのは同時だった。

本当は、ぎゅってされたい。
誰かに頭を撫でてもらいたい。
「頑張ってるね」って言ってほしい。

でも、その言葉を
目の前の夫に求める余裕が、今はどこにもなかった。

「……最近さ」

航生が、ぽつりと言う。

「“おつかれさま”って言ってくれなくなったよね。
 俺、前は帰ってきたら毎日言ってもらってた気がする」

「……言ってたっけ」

「え、覚えてないの?」

覚えてない。
でも、きっと言っていたのだと思う。
昔の自分は、それを自然に言えるだけの余裕があった。

「芽衣?」

「なに」

「ねぇ、今日さ、寝る前にさ、
 久しぶりに、ぎゅって――」

「無理」

即答だった。
自分の声が思った以上に固くて、
自分でも少しびっくりする。

「……そんな即答で?!」

「今、ぎゅってされたら、たぶん私、崩れる」

「え、いいじゃん、崩れようよ」

「よくない」

私は陽翔をベッドに寝かせながら、
強く言葉を押し出した。

「今、崩れたら、誰が陽翔を見てるの。
 ご飯誰が作るの。洗濯誰が回すの。
 私、“崩れる役”まで引き受けてる余裕ない」

口から出た瞬間、自分でもちょっと怖くなるような言葉だった。

航生は目を瞬かせて、
笑おうとして、うまく形にならなかった。

「……なんかさ」

彼は自分の膝を見つめながら呟く。

「俺、邪魔になってない?」

「邪魔とは言ってない」

「でも、大事にされてる感じもしない」

胸の奥で何かがきしんだ。

「今は、陽翔が優先なの。
 それは分かってくれてるよね?」

「わかってるよ。
 でもさ、“わかる”のと“平気”なのって違うじゃん」

「……」

「俺、頭ではわかってる。
 母親が一番大変なのも、
 睡眠不足でしんどいのも、
 体がまだ痛いのも。
 だけど、心はさ……
 なんかずっと、置いてかれてる感じするんだよ」

その「置いてかれてる」という言葉に、
胸がずくりと痛む。

私だって、置いてかれている。
“普通の自分”から。
“自由な時間”から。
“女としての自分”から。

でも、うまく言葉にできない。

「……じゃあ、どうしたらいいの?」

問い返した声は、半分泣き声だった。

「どうしてほしいのか、はっきり言ってよ。
 私、今は頼られる側になるしかなくて、
 誰かに甘えることもできないの。
 だからせめて、“具体的なお願い”にして」

航生はしばらく黙っていた。
やがて、顔を上げる。

「……抱きしめてほしい」

その一言が、
私の限界ラインをあっさり踏み越えた。

涙が、勝手にあふれてきた。

ポタ、ポタ、と
フローリングに落ちるほどに。

「……無理だってば」

声が震える。
陽翔の寝息がかすかに聞こえる。
窓の外では、近所の犬が遠吠えをしている。

日常の音全部が、やけに遠く感じた。

「なんで……」

航生が、戸惑ったように私を見る。

「そんな泣くこと?」

「わかんない……」

自分でも、どうして泣いているのかうまく説明できない。
涙腺に、産後のホルモンが直接注ぎ込まれているみたいだった。

「眠いし、腰痛いし、
 お風呂ゆっくり入りたいし、
 髪の毛乾かす時間もないし、
 化粧なんていつしたか覚えてないし……」

言葉にした瞬間、
止まっていた感情が一斉に溢れ出す。

「なのに、“抱きしめてほしい”とか言われても、
 私、どっちの“泣きたい”を優先したらいいかわかんないの!」

「どっちのって……」

「私も泣きたいの!
 でも、私が泣いたら、誰が私をあやすの?
 陽翔は泣いたら抱っこしてもらえるけど、
 私が泣いたら?
 あなた、抱きしめてくれるの?
 その腕で、本当に支えられるの?」

自分でも、意地悪な言い方だとわかっていた。
でも、止められなかった。

航生の顔から、血の気が引いていく。

「……俺のこと、信用してない?」

「今のあなたを、頼れるって思えない」

その瞬間、空気がぱきんと割れた気がした。

沈黙。
冷蔵庫のモーター音だけがやけに大きく響く。

そして――
口が勝手に動いた。

「赤ちゃんは一人で十分なの!」

言ってしまった。

言った瞬間、世界がスローモーションになった。

航生の目が、見開かれる。
息を飲む音が聞こえた。

胸の奥で、何かが
ぺき、と折れたような感覚。

「……そっか」

かすれた声。

「俺って、
 芽衣にとって“二人目の赤ちゃん”なんだ」

「違う、そういう意味じゃ――」

「いや、そういう意味だよ。
 俺も、薄々気づいてたし」

彼は立ち上がった。
ソファのクッションがふわりと形を変える。

「どこ行くの」

「ちょっと、空気吸ってくる」

「夜だよ」

「夜でも、空気はあるだろ」

無茶苦茶な理屈なのに、
反論する気力が出なかった。

スウェットのポケットから鍵の音。
玄関に向かう足音。
スリッパがパタパタ鳴る。

「航生」

呼び止める声が、やけに小さく響く。

彼は振り返らない。
靴べらを落として、舌打ちして、
それでも不器用にスニーカーを履いた気配だけが伝わる。

「俺の行き先、気になる?」

背中越しに、ふいに問われた。

「……少しは」

「安心して。実家なんか帰らないよ。
 そんなドラマみたいなこと、俺にはできないから」

ドアノブが回る。

「近くの公園。
 ベンチに座ってるだけ。
 ……大丈夫、迷子になっても、
 “おかーさん”って呼ばないから」

最後の冗談めいた一言が、
妙に痛かった。

扉が閉まると同時に、
家の中の音が全部、少し遠くなった気がした。

私はその場にしゃがみ込み、
手の甲で涙を拭った。

陽翔の寝息だけが、
一定のリズムで続いている。

ごめんね。
ママ、ちょっと失敗しちゃった。

誰に向けた謝罪なのか、
自分でもわからないまま、
胸の中で何度も繰り返した。

外では、冬の風が、どこかの木を揺らす音がした。
その風の中に、
ベンチにひとり座る航生の背中が見える気がして、
胸の奥がじんじんと痛んだ。

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