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1章

08.

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「ミ、ミル……」
 灰と化し、見る影も無くなった花畑に戦慄が走る。
 眼前に聳えるそれは、ただの風評ではない。
 現実に人に害意を持つ斃すべき、恐ろしい獣。

 セシリアとて多少の武勇はこなしてきた。
 それこそお金の為に身分を隠し、賞金稼ぎの真似事や護衛なども。
 けれど竜の存在感と放たれた敵意は、そんなセシリアの経験も自信も、あっさりと打ち砕いた。
(怖い……)
 どうして飛び出してこれたのか、今では自分の行動が不思議でならない。

(でも……っ)
 セシリアは喉の奥に引っ掛かった声を飲み込み、震える四肢を叱咤した。
 卵を背後にしたままブルードラゴンは動かない。
 そして怒りを漲らせた眼差しでミルフォードを射抜く。口の端から漏れる唸り声からブレスが漏れた。
 またあれがくる。
 セシリアは咄嗟に手近にあった石を引っ掴み、ブルードラゴンに投げつけた。

 コツンと硬質な音がする。

 ハッと息を詰めたミルフォードの、信じられないものを見るような眼差しがセシリアの視界を掠めた。凍えるブレスを口の端から漏らしながら、瞳を縦に裂いた、爬虫類の眼差しがセシリアを射抜く。

 セシリアは辛うじて手に引っ掛かっていた銃を握りしめ、撃鉄を引いた。
 顎を引き両足を踏ん張る。
 ──いつものように。
 けれど未だ治まらない震えのせいで照準が合わない。
(やらないと、ミルフォードが双子たちのように──っ!)
 バクバクと胸を打ち鳴らす心音がセシリアに焦りを呼ぶ。

 セシリアが愛用する銃は使いやすく改良されている。それこそセシリアがするのは撃鉄を引き、銃と対象の照準を合わせるだけだ。
 これはただの令嬢でも賞金首と渡り合う実力を手っ取り早く手に入れる力なのだが……
 けれど、それは使い手が平静であるならばで──

(合って合って、早く合って──っ!)
 震える両手で的がぶれ、照準がいったりきたりと定まらない。
 使い手を選ばない高性能な魔具であるが、当たり前だが発動条件が揃わなければ機能しない。

 そんなセシリアの葛藤を見透かしたように、ブルードラゴンが動いた。
 声を轟かせ、重量を感じさせないように飛び掛かる巨体に、震えていたセシリアの身体は硬直した。
 そして身体中を悪寒が駆け巡り──視界がブレ﹅﹅た。
 
 脳が揺れるような感覚の後。セシリアの視界に、ミルフォードのマントが、妙にゆったりとはためいていた。

 自分の喉の奥から細い悲鳴のような声が漏れ聞こえた直後、ブルードラゴンの眉間に銀の一閃が走った。
 ──まるで時が止まったような無音の一拍の間を置いて。ミルフォードの背でマントがゆらゆらと翻り、地に向かい降りていく。
 そして着地音の後に竜の頭が傾ぎ、地響きと共に横凪に倒れた。

(えっ、えええ……?)
 驚くくらいアッサリと。
 目の前に土埃とセリーの花が散った。
 瞬きの間に起こった事に、セシリアの思考と身体は時が止まった﹅﹅﹅﹅﹅﹅ように固まった。

(嘘でしょう?)
 ……眉間に正確な一撃を食らい、ブルードラゴンは白目を向いて倒れている。脅威から解き放たれるように、身体から強張りは少しずつ解れ、セシリアはべしゃりと音を立てて花畑にへたり込んだ。

「ミル、フォード……」
 振り絞るように出した声に振り返るセシリアを、ミルフォードは厳しい眼差しで一瞥する。同時に背後から声が掛かった。

「殿下! セシリア様!」
「モーリス……」
 先頭を走るモーリスの後を、ザカリーが兵士と共に続いている。
 
「……どうするつもりだったんだ」
 低い声に顔を上げれば、そこにるのは普段の綺麗に取り繕った表情とは違う……眉間に皺が寄った顔は不機嫌に見えるのに、それでいて困惑したような、何故か今にも泣き出しそうなものだった。心なしか顔色も悪いような気がする。

 ミルフォードが言う、「どうするつもり」とは、この丘に飛んだ後の事を言っているのだろう。
 セシリアは唇を噛んだ。だって大した策など労していない。
 セシリアは只管飛んで、逃げて、ドラゴンから双子を助けるつもりだった。
 王族に連なる自分の持つ、「神秘」の力を駆使すれば何とかなると考えたからだ。

 ……今ならそれがどれだけ無謀かよく分かる。
 以前セシリアが過去に飛んだ時、時間を越える力を戻すまで数ヶ月掛かった。それをセシリアは短時間で何度も繰り返そうとしたのだから……
 無謀どころの話ではない。きっと竜の爪の餌食となり、三人纏めて死んでいた。

 遠くで双子が啜り泣く声が聞こえる。二人の元に辿り着いたザカリーの叱る声と、安堵を帯びた泣き声と共に……
 
「な、によ……」
 セシリアは込み上げるものを堪えながら、必死で虚勢を張った。セシリアだって怖かったのだ。改めて考えれば愚策としか言えないかもしれない。
 けれど幼い子供を命の危険に晒し、王家の名代として訪問した自分が何もせずじっとしているなんて出来なくて……あの時はそれが最善だと思ったから。

 それはセシリアの矜持で、ミルフォードに傷付けられる覚えはない。
(それなのに……)

 震える自分の指先がミルフォードの手に包まれ、セシリアの喉がグッと詰まった。
「私は……君が無謀に命を投げ出す為に、過去に手を貸した訳じゃない……っ」
 セシリアの手を額に押し付けるミルフォードの肩が、微かに震えているのが分かった。

「借金を返す方法なら、他にもあるだろう──何故それを選ばない……」
 唸るように告げるミルフォードにセシリアは項垂れた。

 別に頼んだ訳じゃないとか、余計なお世話だとか。常のミルフォードの態度になら返せるだろう言葉の数々が、何一つ出て来ない。
 それより今にも溢れそうな涙を飲み込むのに必死で、声など出せそうになかった。
 
 それに、こういう態度は知っている。
 窘め、怒り、諭す……それは……
(心配──)
 しかもお金の、ではなく──恐らくセシリア自身を……
(ミルフォードが……)

 ミルフォードの額に押し当てられたままの手が熱く熱を持ち始めた。頭と身体が自分の知らない感覚に侵されて、どうあるべきか分からなくなる。

「姫さん!」
 だから聞き慣れたモーリスの声に、セシリアは弾けるように手を引き抜いた。
「モ、モーリスっ!」
 間近に迫る見知った顔に、知らず安堵の息が漏れる。
「もっ、本当──何してるんですかあー!?」
 丘を駆け上がり息を切らせたモーリスが、泣き叫びながらセシリアの足元で蹲った。

「あ──、うん……ごめんなさい」
 多分それは本来、ミルフォードに向ける言葉だったのだろうけれど。
 だからだろうか。セシリアの発言を聞いた後、モーリスは目を丸くし怪訝な顔でセシリアを見上げてきた。それからハッとした顔で手で口元を覆い隠す。
「ひ、姫さんが……謝った……? あ、頭は大丈夫ですか?」
「ちょっと何ソレ! どういう意味よ!」
「あ、良かった。いつもの姫さんだ」
「……」

 それこそどういう意味だ。
 しかし眉間に皺を刻んだセシリアを見て安堵するモーリスに自然と力が抜けた。
 けれどそんなセシリアを見て、逆に勢いづいたらしいモーリスが捲し立てる。
「ていうか何やってるんですかあ! ドラゴンの攻撃範囲に突入するとか馬鹿ですか姫さんは!? 馬鹿ですよね? 本当、何やってるんですか、もう!」
「……同じ事を繰り返してるわよ、モーリス」

 とはいえ。怒りと混乱で訳がわからなくなっているモーリスに逆にセシリアの頭は冷えてくる。
 先程まで冷たくなったり熱くなったりしていた指先で拳を作り、セシリアは裾を叩いて立ち上がった。何故かミルフォードへと視線を向けられず、セシリアはモーリスを注視する。

「──とにかく場所を変えましょう。ええと、ブルードラゴンは……」
 どうするべきかと一呼吸置いたタイミングで、モーリスが神妙な顔をした。
「それがですね、姫さん」
 声を落とすモーリスの背後から、赤で統一された兵士たちが歩み出てきた。この丘陵を息も乱さぬ状態で、統制の取れたその動きは間違いなく軍隊であろう。
「何?」
 思わず眉を顰める。

「あれは……第二部隊か」
 そしてポツリと背後から聞こえたその名にセシリアは目を見開いた。
 確かアドル国では、第一部隊が王太子の特務部で、第二部隊が第二王子のもの……

 赤い軍服を纏う隊列からその人物が顔を覗かせる。
 こちらへ鋭い視線を向けるその姿は、アドル国ルーサー第二王子、その人だった。
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