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変転 またはレクター博士(たち)

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……そう、それで、年末にテレビで『羊たちの沈黙』を観たと、きみが手紙に書いていたので、一昨年、先一昨年だっけ、とにかく、おばあちゃん家に集まったお正月のことを思い出したんだ、お年玉とクリスマスを兼ねたプレゼント交換で、サンタ・マリア・ノヴェッラのハンドクリームをもらったとき(奮発して、シャネルを用意しておいて助かった)、きみは三越の売り場で見かけた男の子の話をしたよね、レクター博士のハンドクリームはありますかって、尋ねてるのが聞こえたのよ、今時、詰襟の学生服姿の子で、でもまさか同志に遭遇するなんてね、きみは鼻にしわを寄せて笑い、ぼくが、ファンニバル同士だね、っていうと、なんなのそれは、マッツ・ミケルセンのドラマ版『ハンニバル』のファンって意味だけど、知らない? 知らない、きみがそう答えたから、ドラマの話題を続けようとしたのに、結局、あの後、何を喋ったんだろう?


つまり、あのとき訴えたかったのは、映画(原作の小説を含め)の『羊たちの沈黙』とドラマとでは、ハンニバル・レクター博士のキャラクターが微妙に違う問題についてなんだ、博士のモデルなら、ジェフリー・ダーマーとかテッド・バンディとかアメリカのシリアルキラーで、それに、原作者のトマス・ハリスが記者だった頃に取材したアルフレド・バリ・トレヴィノっていう、恋人を惨殺したノーブルな元医師とか、そういや、ハリスは連続殺人鬼イル・モストロの容疑者の裁判も傍聴したらしいね、フィレンツェに行って、花の都へ、そうだ、博士のハンドクリームは、鼻の下に塗布して、杏仁豆腐に似た香りを(バッハを添えて)うっとり聞いていたなんて振る舞いは、恥ずかしいから内緒にしなくちゃ……


花の都の怪物、イル・モストロ、その犯行現場のイメージは、デヴィッド・ボウイのアルバムの『アウトサイド』に近くない? 実際には、少女の遺体の一部か切除されて持ち去られただけなんだけど、もちろん、それだけでも充分酷いんだけど、手脚や臓器を美しく配置し、人体で芸術作品を構築する無惨絵を思い描いてしまうんだよね、そうそう、『アウトサイド』の「The Hearts Filthy Lesson」は、猟奇殺人をテーマにした映画の主題歌だったし、ボウイはFBI捜査官を演じたことがあるし、それに探偵ネーサン・アドラーの日記、いや、『セブン』もリンチもボウイも、今は関係ないってば!


だから、『羊たちの沈黙』のときの、アンソニー・ホプキンスのレクター博士は、原作小説そのままで完璧すぎるほどで、一人の人物どころか、犯罪者のスタイルを確立した、小柄で、常に冷静で礼儀正しく、声には教養があり、姿勢は〈ダンサーのように優雅〉、一作目の「レッド・ドラゴン』でも、十八世紀の貴公子みたいだと表されてはいるものの、冷笑を浮かべつつ(その怖しさたるや)、捜査官どころか訓練生相手に饒舌を振るい、舌で啜るような音を立てて揶揄い、さらには〈グロテスク〉に背中を丸めて手を叩きながら跳ね回りもする、多指症を含め、アメリカ風のシリアルキラー、猟奇的なモンスターとして造形されたと、ぼくは認識していて、一方、三作目の映画『ハンニバル』を経たマッツが演じるドラマ版の博士は長身で筋肉質、ほぼ無表情、上等なスーツを着こなした端正な姿(ウィンザーノットに結んだ柄物のネクタイが、古風なクラバットを連想させる)で登場した、しかも貴族、画家のバルテュス(兄のピエール・クロソウスキーは?)が従兄弟とは……


あえてバルテュスを求めた理由は何か、虚仮威こけおどしのウケ狙いで、いかがわしいシュルレアリスト扱いしてやしないか、不安は拭えない、古い貴族の血筋とか、子供時代に極東の絵画や書物を愛好したとか、大貴族らしく気難しくて傲慢だとか、何れサド侯(犬派)かバイロン卿(猫派)、違う、話を元に戻そう、確かにレクター家と似通っているけど、バルテュスがルネサンス初期のピエロ・デラ・フランチェスカから学んだ画家であることはトマス・ハリスも設定に組み込んでいると解釈して、バルテュスを彷彿させる叔父のレクター伯は、自作を〈“危険な”絵〉と評していて、その〈危険〉は攻撃的という意味で、(下劣な意味での)eroticでは決してないと、バルテュスの属性を全て必然としたうえでモデルとして選んだのだろうか、アメリカではナボコフの『ロリータ』の表紙に使われて、スキャンダルになったのに?


どっちしろ、ぼくの好きなバルテュスは猫の絵だし、絵本の『ミツ』は十歳頃のデッサンを集めたもので、墨の太くて丸っこい描線に、子猫の柔らかさや可愛らしさや、失った悲哀が込められている(絶望の黒)、あと『地中海の猫』、猫(身体は人間)がナイフとフォークを握りしめ、緑青色の海から空にかかる虹は魚に変容しながら弧を、あるいは対数螺旋を描き、待ち受ける白いお皿に辷りこむ、魚、今年のお正月は帰省できなかったから、伯父さんにいつもの中華料理をご馳走してもらえなかったな、食べたいな、鯉の姿揚げ、いや、だから、早くて簡単な方法は幾らもあるのに、手紙だけでやり取りするのも粋だよね、なんて、きみがいうから、こうして返事を書こうとして、いつも散らかるし、いとこ同士で文通なんて変じゃないかな、まあ、いいや、だから、ええと、最初は、そう……



             〈 了 〉
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