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逃避行《バカンス》へ

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 翌朝、成彦は洋装で支度をして鏡の前ではにかんだ。
 ベッドの上には大きな荷物。使用人に訊ねて得たヒントをもとに物を詰めこんだ大きな旅行鞄を抱え、成彦はリビングに降りた。
 先に朝食の席についていた父と兄は気まずい顔を忘れ、ぽかりと口を開ける。

「これはこれは大きな荷物だ。荷解きが楽しみだね」

 エリオットは彼らの様子に笑いを噛み殺している。

「あの、父さんと兄さんにお話をされたのですよね?」
「そりゃあ、もちろんさ。大事なご子息を勝手に連れ出すわけにはいかないからね。今の段階では」
「またそのような言い方を・・・」
「良いではないか。さあ、成彦、朝食後に経つ予定だから食べてしまっておくれ」

 満義は二人のやり取りを神妙に覗き見ていた。
 匂い立つ親密な空気を嗅ぎ取っていたのである。
 運ばれてきた朝食の皿に視線を向けている成彦に悟られないよう秀彦に耳打ちをする。秀彦は表情を一変させ、横に何度も首を振った。
 一方の成彦は昨晩の感傷がどこかに吹き飛び、もりもりと食が進んでいた。

「この苺、すっごく甘くて瑞々しいね」
「エリオット様が買ってきてくださったんですよ」
「ふぅん」

 エリオットの名前が出ると嬉しくなる。自分のことのように誇らしかった。彼の力は堅実で、彼は正しい。成彦は自身の変化を如実に感じていた。

「ご馳走様。ありがとう、美味しかった」
「恐れ入ります」

 使用人が空になった皿を片付けてくれ、綺麗になっていくテーブルを眺めながら、成彦はふと父と兄が消えていることに気がついた。
 部屋には自分とエリオットの二人しかおらず、エリオットは組んだ足の上に手を乗せ、優雅な姿勢で待っていてくれている。

「ごめんなさい。お待たせして」
「食欲があるのはいいことだ。苺が気に入ったなら向かう途中で買っていこう」

 立ち上がったエリオットに頭を撫でられ、成彦は頬を染めた。

「エリオット様。行き先を教えてください」
「うん、そうだったね。その前に馬車に乗ろうか。道中で話そう」
「はい」

 荷物を使用人に任せ馬車に乗りこむ直前、十松の屋敷を見上げると、兄の秀彦が二階廊下の窓を横切った気がした。

「兄さん?」
「どうした。早く乗りなさい」
「いえ、ごめんなさい。すぐに」

 エリオットに手を差し伸べられ、成彦は窓から視線を外す。一瞬だったので兄だったのかも定かではない。使用人かもしれないし、険しかった顔つきも見間違いだったかもしれない。
 成彦は、エリオットが言う休暇バカンスを楽しみたかった。
 余計な事柄は胸から排除して、エリオットの手を取った。

 

 ◇◆



 そして連れ立った先は鎌倉の別荘だった。
 エリオットの日本人の友が貸してくれた場所らしい。
 開けた山間の土地は非常に広く長閑で、山道に入る前に馬車を降りてから歩き、木漏れ日の中に建つ立派な洋館が見えてくる。

「どれだけ交友関係広いんですか」
「さあね、少なくとも成彦よりは多いよ」

 ぽかんと口を開けた成彦に、エリオットは冗談めいた口調で話す。

「もしかして、昨日のことを慰めてくれてます?」
「どうかな。好きに捉えてくれて構わない」

 エリオットは門扉を開け、「入りなさい」と視線を寄越した。再び閉められた古い鉄製の門扉は軋んだ音を立てたが、それ以外はひっそりと静かだ。
 まだ落ちたばかりの青い葉を踏み、割れた木の実を拾う。おそらくは小動物の仕業だろう。別荘という場所がら、所有者の許可を得た者以外は立ち入れない。
 成彦はエリオットの後に続いて玄関ホールに足を踏み入れ、煌びやかなシャンデリア、絨毯、調度品の数々に目を走らせた。
 荷物はエリオットが運んでくれたので、身ひとつで館内を歩む。試しに窓のさんを指で擦ってみるが、埃で指先は汚れない。定期的に人の手が入り、手入れがなされているのがわかる。

「使用人はいないのかな?」

 問いかけると、エリオットは頷いた。

「ああ、私と成彦が滞在している間は休ませている」
「そう、食事は?」
「私が用意しよう」
「エリオット様がですか?!」

 成彦は目を丸くする。エリオットはいよいよもって愉快そうな声で笑った。

「言っただろう。身の回りの世話はひと通りやれると」
「疑っていたのではないのです、不思議なだけで。エリオット様は祖国では高貴な階級の御方なんでしょう?」
「そりゃそうだが、仕事で船旅をする機会が多いから、充分な使用人をつけられないこともある。ああ、そういや、兵士に志願したことだってあるぞ。戦地じゃホテルのスイートなんて望めないからな。直に土の上じゃない限り上等だと思えるよ」
「そうなんですね、すみません・・・とても意外に思います」

 呆気に取られ、成彦は目を伏せた。

「ははは、気にしないでいい、自分でも変わっている自覚はある。だが、その点は君と分かり合えるはずだ」
「え?」
「いいや、何でもない。おいおい話そう。おいで見せたい場所があるんだ」

 エリオットから差し伸べられた手を数秒間見つめ、その手を取る。

「はい」
「いい子だ」

 エリオットに案内されたのは裏山の茂みの中だ。

「どこに行かれるのです? ここで何を?」
「まあ、黙ってついてこい」

 すると山路の途中で家屋を見つけた。
 一昔前のような古く見窄らしい家だが、外に藁傘が立て掛けてあり、人が住んでいる痕跡がある。
 エリオットは成彦に外で待つように言い残し、玄関の戸を遠慮なしに開けてしまった。
 しかし誰も出てこない。エリオットは気にしていない様子で家の中に上がる。
 成彦はギョッとした。ばくばくと胸の下で暴れている心臓を押さえていると、エリオットは何食わぬ顔で戻ってくる。
 彼の手には猟銃と縄が握られていた。

「エリオット様、狩りをなさるおつもりですか? ここは誰のお宅でしょうか? ・・・泥棒を・・・したんでしょうか?!」

 冷や汗をかき、早口になる。
 エリオットはフッと吹き出した。

「焦ることは何もないぞ。知り合いの知り合いの家だ。応答がなければ勝手に入っても良いということになっている」

 なるほど、事前に打ち合わせていたらしい。
 ほぅと胸を撫で下ろす。

「くくっ、驚かせてしまったな。じゃあ行こうか」
「申し訳ありません」

 ひとりで取り乱してしまって恥ずかしい。
 成彦はきゅっと唇を噛み、エリオットの背中を追いかけた。
 しばらく無言で茂みの中を歩んだ。
 必死について行くだけで大変で、歩いた距離など考える余裕もない。
 突然、どんと背中にぶつかった。
 エリオットが立ち止まったのだ。成彦の目の前で木の影に身を潜める。声を発しようとした成彦は優しく口を押さえられた。
 エリオットがシィと唇に人差し指をあて、視線を草むらの方向に向ける。

「あ・・・兎」

 小さく声を顰める。
 両手を握り合わせ、エリオットが猟銃を構える姿を後ろから見つめた・・・・・・。
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