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本編

56 最悪な『あれ』

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「最悪ですね。ええ、最悪な気分です」

 遠野とおのさんはさっきから顔を顰めたまま、

「ここまで最悪なのは久しぶりですね。本当に最悪です」

 最悪としか言わない。何回目だこれ。

「どなたですかあれ・・は? なかなかにイイ性格をしている方ですね、てつさん?」

 珍しく苛ついた声をてつにかけ、

「知るか」

 てつも同じく苛ついた声で言葉を返す。



『まだ死んでない!!』

 消えそうなくらい小さいけど! まだ灯は消えてない!!

『てつ! 上!』
『分かってる』

 遠野さんをひっつかんで、思いっきり飛び上がる。珊瑚が砕けたのなんか気にしてられない! でもごめん!

『もっと上手く避けろ』
『えっわっ?!』

 下からてつに押されて、スピードが上がる。海面が近くなる。

『ちょっ?!』

 駄目押しとばかりに、けれども滑らかに押し上げられ、

『ばっ……?!』

 大きな水柱と共に、空へ舞い上がった。

『馬鹿! てつ! 限度ってもんが!』

 別の意味で遠野さんが死ぬ!

『こんくらい、どうって事ないだろう』
『いや飛んでるから! てかどこに向かって落ちて──』

 緩く弧を描いて、その先にはTSTIウチの船。

『島より近いだろう』

 近いね?! そりゃあね?!

『っ! くそっ』

 たっぷり海水を吸った服が、腕から抜けそうになる。ああもう持ち辛い!

『はあ?!』
『なっ何だ?!』

 降ってくる私達に、D班が今日何度目かの驚愕の表情を見せた。

『すいません今からそこに降ります!』
『はあ??!』

 私の叫びにまた声が裏返る。

『なるべく! 揺らさないようにするので!』
『何をっ……?!』

 すっぽ抜けないよう、遠野さんを抱え直す。その身体は冷たく重い。

『このっ!』

 これだけ騒いでるんだから起きて下さいよ!

あんず、俺が』
『いい!』

 身体を捻って勢いを殺す。そのまま甲板へ、滑るように着地する。

『とっ遠野さん?!』
『おい! 何があったんだ!』
『赤いあれ持ってきて下さい! 心肺の! 蘇生の!』

 こういう時に限って名前が出てこない!

『なっ……まさ──』
『それと支部に連絡を! 早く! 持ってきて!! まだ死んでないから!!!』
『わ、分かった!』

 二人が慌てて動き出すのを後目に、ぴくりともしない遠野さんを仰向けに寝かせる。
 息をしてなければ心臓も止まってる。多分水も沢山飲んでる。

『なんなの、このっ脱がし難い!』

 でも、薄く薄く揺らめく魂は、まだそこにいる。遠いけどいる。

『はあ? なら破け』
『破く!』

 ごめんなさい緊急事態なので! 一刻を争うから!

『おい、おいお前達! お社はどうなったんだ?!』

 結界のひと達が不安げに声を上げる。

『姫様がまだ起きないんだ!』

 でもそれに応えるのも難しい。

『何があったんだ……?!』
『黙ってろ。事は済んだ』

 てつの静かな一喝に、皆は息を呑んだ。

『てつどうもっ!』

 言いながら破る。顔と同様に血の気が引いた肌は、蒼白を越えて土気色に近く。
 その胸の真ん中に手を置いて、

『……ふっ!』

 起きろ!

『起! き! ろ! よ! ああっもう早く!』

 AEDはまだか! そうだAEDだ!

『……杏』

 もがくように揺らぐ遠野さんいのちは、なんとか留まってる。まだいる。

『なに?!』

 だから、来い! 起きろ! 早く戻れ! ……何回やったら人工呼吸だっけ?!

『それが効いてるかは知らねえが』

 今はしない方針もあるんだっけ?! 久しぶりすぎて覚えてない! こういう時に!

『手は伸ばしてるだろう』
『は?!』
『引きゃあ良い』

 てつが遠野さんへ前脚を乗せて。その灯を手繰り寄せた。

『あ、あ! その手があった!』

 さっきやった! 感触も覚えてる!

『遠野さん!』

 沈まないように、入り込む。掴んで、引き寄せる!

『とお……』

 此方こちらに依った魂が、一気に力を取り戻す。

『……ガハッ!』
『遠野さん!』

 起きた! 戻ってきた!

『手間のかかる奴だ……』
『……は……あ……?』

 まだ少し目は虚ろだけど、消えかけてた揺らめきは、元に。

『おい! 持ってき──』
『戻ってきました! なんとか!』

 顔面蒼白で駆けてきた一人は、それを聞いて力が抜けたようにその場にしゃがみ込んだ。



 けどまあそれで一安心、な訳もなく。
 連絡を受けやってきた人達に、遠野さんは支部へと戻され。

『副責任者は私だから』

 稲生いのうさんの指揮の下、仕事が再開された。けどそれも、ほぼ撤収作業で。『陸組』と合流して、残っていたひと達を支部へ送り、お社……があった場所に結界を張り。
 そんなこんなを夕方頃まで。そして私達も支部へ戻って、容態が安定したらしい遠野さんの所に来た、けど。

「ちょっと呼ばれたから行ってくるね」

 着いた途端、稲生さんは申し訳無さそうに言って。

「まとめやらは後日にしようか。来たばかりで悪いけど、席を外すね」
「あ、僕も……行き、ます。失礼します……」

 織部おりべさんもそれを追いかけ。

「私も少し……海江田さん」
「え? あ、おう……悪い、遠野」
「お、俺達も少し……すみません、遠野さん」

 私とてつと華珠貴かずきさんが残された。

「……」

 逃げ遅れた、気がする。

「遠野さんって人望? が無いんですか?」

 てつの頭の上で寛ぐ黒猫が、二股の尻尾を振って無慈悲に聞いた。

「ちょっ、華珠貴さん」

 死にかけた人に何を言う。

「まあ、そうでしょうね」
「否定して下さいよ……」

 軽く頷いた遠野さんへ、思わずげんなり言ってしまう。

「ちゃんと信頼してる人いますから……」

 海江田かいえださんとか、稲生さんとか。気がそれを物語っていた。ちゃんと読もう・・・とすれば、もっと居るはず。

「そうですか」
「そうですよ」

 なんかこう、起きてからずっと投げやりなんだよな、遠野さん。何なの?

「……榊原さかきばらさんには、負担をかけるどころか命を助けて貰ってしまったので」

 ふいに、遠野さんが申し訳無さそうにして。

「不甲斐ないですね、僕は。全く成長していない」

 自嘲するように言って、こっちを見た。

「ありがとうございます。こんな上司ですみません」
「いや、はぁ、いえ……」

 一言で言うと、怖い。今までと違いすぎて怖い。本当何なの……? ああ、引っ込めたてつの力で、今の遠野さんの状態を読みたくなる。

「それで、てつさん」

 今度は険しい顔になって、遠野さんは私の足元で寝そべるてつを見た。

あれ・・が誰だか、ご存知ですか?」
「ああ?」
「自身が未熟なのは認めますが、それでもあれにはだいぶ苛つきました。ええ、最悪な気分にさせられました」

 最悪と何度も繰り返す遠野さんへ、てつも苛ついたように口を開く。

「知るかっつってんだ。こっちが知りた……くは、ねえ」

 てつもまた、おかしくなって。毛足の長い絨毯に、上げた頭を戻した。

「そうですか」

 ……私としては、そんなに長くこの部屋に居たくないんだけど。落ち着かない。

「ねー二人だけでお話が通じてますけど。その最悪なあれって誰ですか?」

 華珠貴さんが無邪気に聞く。なんでこの空間で堂々としてられる……ああ、鈴音さんの家も、豪華だったな。

「それが分からないんですよ。そのおかげで、余計忌々しさが増します」

 この部屋、病室というより、一流ホテルの一室みたいな。そんな空間になっている。

「なんでそんな忌々しいんですか?」

 広々として、最初にメンバー全員入った時も、その空間は余るくらいで。

「それは……てつさんに聞いて下さい」

 照明は明るく、柔らかく。置いてある家具も、調度品、と言いたくなるようなもので。

「てつさーん教えて下さいー」

 絨毯はさっきからふわふわで、歩くのが怖い。足が沈みそう。

「知るか。知りたくもねえ」
「……遠野さーん」
「なら、報告が来るまで待っていて下さい。否が応でもそこに載るので」
「ええー……あ!」

 その耳がピンと立ち、華珠貴さんの顔がこっちを向いた。

「杏さん! 杏さんは見てないんですか? その『あれ』!」
「え? 私は……その忌々しいとかいうのは……」

 記憶には無い……あ。

「まさか『あれ』って」

 てつに抱きついてた、あの、ひと?

「分かるんですね、知ってるんですね! 誰ですかそれ!」
「いや、わむっ」

 てつの頭から飛び上がり、華珠貴さんは私の顔に張り付いた。前が見えない……。

「華珠貴、離れろ。……杏」

 てつの苛立ちが、何をしなくとも濃くなるのが分かった。

「なにもいふぁない、ぅえっ」

 毛が入った!

「えー! ずるい! あたしだけ! 仲間外れです!」

 そういう事でもないと思う。

「結局バタバタした終わりでしたし、海入れませんでした! 変な気配もそのまんま!」
「ふぁ?」

 変な気配?


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